摩耶山 忉利天上寺 焼失以前の姿

摩耶山の頂上付近にあった忉利天上寺(とうりてんじょうじ)は、646年(大化2年)に開創された。その後、空海(弘法大師)が仏の母である摩耶夫人(まやぶにん)像を、留学先の唐から持ち帰り、この寺に奉安したと考えられている。なお、寺名の「忉利」は、摩耶夫人が死後に転生したとされる天界 ── 忉利天(とうりてん)に由来する。

このように由緒ある寺だが、大変に残念なことに、1976年(昭和51年)1月30日に放火され、仁王門など一部を除いて全焼してしまった。現在は、北方約1kmに位置する摩耶別山に場所を移して再建されていて、旧天上寺の跡地は摩耶山歴史公園として残されている。

この奥には、三権現社(さんごんげんしゃ)の跡もある。

昔の天上寺を描いた版画や、火災で焼失する前の写真を眺めると、いまは空っぽとなった摩耶山歴史公園の上に、かつての寺の姿を思い描いてみたくなる。

旧境内の正面にあったのが本堂。

右側にあったのが多宝塔(たほうとう)。

多宝塔とは、主に密教寺院に建てられる二重の塔(一般的には上層が円形、下層が方形)を指し、日本独自に発展した建築様式。
真言宗や天台宗系の寺院でよく見られ、法華経の教えの中心を表すとともに、塔そのものが仏の世界観や宇宙観を立体的に示すものとされる。
摩耶山の多宝塔は、山岳仏教の中心的な象徴として、仏の加護と宇宙の調和を感じさせる存在だったに違いない。

多宝塔の手前には、阿弥陀堂があった。

さらにその手前にあったのが、嗽水舍(そうすいしゃ)。
嗽水舎とは神社や寺院の入り口付近に設置され、参拝者が手や口を清めるための場所。「手水舎」(てみずや)と呼ばれることも多い。

参拝前に手と口を清める行為を「手水(ちょうず、てみず)」と言うが、その起源は、『古事記』から来ているとされる。伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は、死者の国である黄泉の国から戻った時、水に浸かって禊ぎを行った。手水は、水に浸かり穢れを落とす行為=禊ぎを簡略化しものだと言われている。

ちなみに、イザナギが禊ぎを行った際に、身体から多くの神々が生まれたが、その中でも重要なのが、次の三柱。
左目を洗ったときに生まれた太陽の女神が、天照大御神(あまてらすおおみかみ)。
右目を洗ったときに生まれた月の神が、 月読命(つくよみのみこと)。
鼻を洗ったときに生まれた海と嵐の神が、須佐之男命(すさのおのみこと)。

左側には、護摩堂(手前)、摩耶夫人堂(中央)、鐘楼(奥)が並んでいた。

護摩堂は、護摩(ごま)という密教の火法要を行うために設けられたお堂で、山岳寺院においては、仏教的修法と自然信仰の接点ともいえる
ここでは、修験者や山岳信仰の実践者たちが、山の霊力と仏の加護を得るために護摩を焚いて、祈願していたに違いない。

本堂の背後には、山岳信仰と結びついた三権現社が祀られていた。

三権現社は、神仏習合の伝統に基づいて祀られた三柱(みはしら)の権現をまつる社(やしろ)であり、修験道の行者や参拝者にとっては、仏や菩薩だけでなく山を守護する神々への祈りも重要なものだった。


現在まで残っている仁王門。山道の階段を上ると、そこに見える。

仁王門から旧天上寺まで続く階段。333段ある。

この長い階段を上った先には、樹齢千年とされる巨木がある。

幹周り8mもあるこの「旧摩耶の大杉」は、旧摩耶天上寺の塔頭のひとつだった蓮華院の西側に位置していた。
約200年前に摩耶山一帯で起きた大水害の際に奇跡的に生き残り、その生命力に驚いた人々は神霊が宿っているに違いないと考え、「大杉大明神」として崇めたと言われる。
残念ながら、1976(昭和51)年の旧摩耶天上寺の大火災の後、火を被ったことが原因で徐々に樹勢が衰えて枯死してしまったが、今でもその堂々とした姿で、見る者に強い印象を与え続けている。


現在の天上寺の姿はこちらで。
摩耶山と天上寺 Le mont Maya et le temple du ciel

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