現代的な攻撃性の源 フロイトの精神分析理論を参考に

現代社会では、マスメディアでも、SNSでも、YouTubeでも、激しい言葉が飛び交い、ひとつの対象に向けて一斉に攻撃が加えられる場面をしばしば目にする。
事件や人物の情報に触れたとき、多くの発信者は、自分の知識が本当に正しいのかとか、その対象と自分との関係はどうなのかといったことは意識せず、過激な言葉を放つ。そして、その言葉がどんな結果をもたらすかについて、責任を引き受ける気配はない。

原因としてよく言われるのは「匿名性」だ。しかし、コメンテーターやYouTubeの配信者は、名前がはっきりしている。むしろ名前が知られているほうが、情報はあっという間に広がっていく。
SNSでも、「炎上」が再生回数を押し上げ、発信者の収入につながるシステムが出来上がっている。

こうした居心地の悪い状況を、どう理解すればいいのか。そんなことを考えていたとき、たまたまフロイトの「自我とエス」を読んでいて、なるほどと腑に落ちることがあった。
結論から言えば、それは「快楽原則」に従ったリビドー(欲動)の満足であり、対象そのものはどうでもいい、ということだ。そう思うと、いま目にしている光景の光源がどこにあるのか、少しだけだとしても見えてくる。

フロイトの理論を支える柱の一つが「快楽原則」である。これは、エロス的、すなわち性的な欲望や、それを別の対象に置き換えることで昇華された欲動、といったリビドー(エネルギー)を、満足の方向へ導く原則だといえる。

そのことを頭に入れた上で、次の一節を読んでみよう。

自我とエスの中で働いている移動しやすいこの中性的なエネルギーは、ナルシシズム的なリビドー貯蔵から生まれたものであり、脱性化したエロスと考えることができる。エロス的な欲動はそもそも、破壊欲動よりも可塑的で、方向を変えやすく、移動しやすいものと思われる。その場合は、この移動しやすいリビドーは快感原則のために働いていて、鬱積を避け、放出を容易にする役割を果たしていると推測することができよう。そしてこうした放出が行われること自体が重要なのであって、その放出経路がどのようなものであるかは問題とならないのは明白である。これは、エスにおける備給プロセスに特徴的な性格である。この性格はエロス的な備給の際に生じるもので、対象そのものは問題としないという特別な特徴がある。特に精神分析の際の転移においてはこの特徴が顕著で、相手の人物とはかかわりなく、不可避的に転移が発生するのである。
S. フロイト「自我とエス」『自我論集』中山元訳、ちくま学芸文庫、p. 251.)

「快楽原則」や「エス」とは、無意識の全領域を指し、その上部に「自我」が位置するとされる。そこでは、欲動に基づくエネルギーであるリビドーが活動しており、その一部が自己に向かうと自己愛(ナルシシズム)になる。このとき、性的なエネルギーは脱性化され、中性的なエネルギーへと変化している。

自己に向かうリビドーもあれば、対象に向かうものもあるが、いずれにせよエロス的な欲動は「鬱積を避け、放出」することで快楽をもたらす。

ここでとりわけ注目すべきは、「放出が行われること自体が重要であり、その放出経路がどのようなものであるかは問題とならない」という点である。
フロイトはさらに「対象そのものは問題としない」とも述べる。
要するに、相手が誰であれ、何であれ、リビドーを満足させることこそが快楽となるのだ。

その点についてフロイトは、『国際精神分析雑誌』第1号に掲載された、オットー・ランクの「テロリストたちの心理学における〈家族小説〉」という論文から一つの例を引用し、解説を続けている。

最近ランクは、神経症的な復讐行為が不当な人物に向けられた見事な例を示している。無意識のこうしたふるまいについて考えると、ある滑稽な逸話を思い出さずにはいられない — 村に一人しかいない鍛冶屋が死刑に値する犯罪を犯したので、この鍛冶屋の代わりに、村に三人いる仕立て屋の一人が処刑されたという逸話である。犯罪は罰せられなければならない、たとえ犯人が罰せられるのではないとしてもというわけである。われわれは夢の仕事について分析していた際に、一次過程の置換におけるこのようないい加減さに気づいたのである。夢の場合には対象が二義的な重要性しかもたなかったのであるが、ここで検討している問題では、放出経路が二義的な重要性しかもたないのである。対象の選択や放出経路の選択の正確さにこだわるのは、むしろ自我の特徴であろう。
S. フロイト「自我とエス」『自我論集』中山元訳、ちくま学芸文庫、p. 251-252.)

オットー・ランクの挙げた例は、「罰すること」そのものが目的となっており、処罰されるのが犯罪者ではなく、事件とは無関係な仕立て屋であったというものである。

こうしたことが起こる仕組みを、フロイトは自身の夢分析理論から説明しようとする。
夢分析における一次過程とは、本能的な衝動や願望を直接的かつ非論理的に満たそうとする働きであり、エスの内部でのリビドーの動きだといえる。
これに対して二次過程は「自我」の領域に属し、リビドーは「現実原則」に従って活動する。その場合には、犯罪を犯した人間に処罰が下される。

この理論に基づけば、鍛冶屋の代わりに仕立て屋が処刑されたというエピソードは、エスにおいて無意識的に行われた処罰の例であるということになる。


フロイトのエスと自我の理論を、現代社会で多発している乱暴な言葉による攻撃性の発露と照らし合わせてみると、一つの仮説が浮かび上がってくる。

話題になっている事柄に対してコメントや意見を述べるとき、しばしば攻撃的で激しい言葉が使われる。その対象が多岐にわたり、人物や事象を問わず向けられているとすれば、それは対象自体が問題なのではなく、自分の中に溜まったリビドーを発散しているのではないか。
意識的には特定の対象に向かっているように見えても、無意識のレベルでは「ナルシシズム的なリビドー貯蔵から生まれたもの」である可能性が高い。重要なのは、リビドーの発散そのものであり、それが行われれば「快楽」が生まれるという点だ。

さらに、このエス・レベルの快楽は発信者だけでなく受信者にも転移し、激しい攻撃性によって解放されたリビドーが、コメンテーターやYouTuber、インフルエンサーたちから感染する。こうして、ストレスの発散が連鎖していく。

かつてであれば密やかにしか語られなかった、激しい攻撃性を帯びた言葉が、公然と流通する社会空間が成立した理由の一端を、フロイトによる無意識の分析から読み取ることができるだろう。

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