個人の歴史的体験を「語り継ぐ」の意義 クロード・レヴィ=ストロース 『野生の思考』 Claude Lévi-Strauss La Pensée sauvage 2/2

(1/2の続き)

具体的事象の論理(「弱い歴史」)と論理的性質(「強い歴史」)が矛盾するなかで、「歴史」にアプローチするにはどのようにしたらいいのか?

Par rapport à chaque domaine d’histoire auquel il renonce, le choix relatif de l’historien n’est jamais qu’entre une histoire qui apprend plus et explique moins, et une histoire qui explique plus et apprend moins. Et s’il veut échapper au dilemme, son seul recours sera de sortir de l’histoire : soit par en bas, si la recherche de l’information l’entraîne de la considération des groupes à celle des individus, puis à leurs motivations, qui relèvent de leur histoire personnelle et de leur tempérament c’est-à-dire d’un domaine infra-historique où règnent la psychologie et la physiologie ; soit par en haut, si le besoin de comprendre l’incite à replacer l’histoire dans la préhistoire, et celle-ci dans l’évolution générale des êtres organisés qui ne s’explique elle-même qu’en termes de biologie, de géologie, et finalement de cosmologie.

歴史家があきらめる各歴史領域との関係において、歴史家の相対的な選択は、より多くを学ぶが説明力の乏しい歴史と、説明は多いが学びの少ない歴史との間で行われるしかない。もしこのジレンマから逃れようとするなら、唯一の方法は歴史の外に出ることである。下方から出る場合、情報の探求は歴史家を集団の考察から個人の考察へ、さらに個人の動機の分析へと導く。その動機は、個人の歴史や気質に関わるものであり、心理学や生理学が支配する下位歴史領域に属する。上方から出る場合、歴史家は理解の必要性から歴史を先史時代に置き直し、さらに先史時代を有機的存在の一般的変化の文脈に置き直すことになる。その一般的変化の説明は、生物学・地質学、そして最終的には宇宙論の用語によって行われる。

レヴィ=ストロースは、いかにもフランスの研究者の文章らしく、同一の事象に対して常に複数の語彙を導入し、そこに含意のズレや重層性を織り込むことで議論を展開する。ここでも、「弱い歴史」と「強い歴史」を次のように言い換えている。
「弱い歴史」:「説明は多いが学びの少ない歴史(une histoire qui explique plus et apprend moins)」
「強い歴史」:「より多くを学ぶが説明力の乏しい歴史(une histoire qui apprend plus et explique moins)」

この二つの歴史は相補的であると同時に、互いに矛盾を孕んでおり、その緊張がいわば歴史叙述そのもののジレンマ(dilemme)を構成している。
レヴィ=ストロースによれば、このジレンマから逃れるためには、歴史の内部で折衷を試みるのではなく、むしろ「歴史」そのものの外部へと踏み出す必要がある。
その際に、方向が二つ提示される。一つは「下から(par en bas)」の道、もう一つは「上から(par en haut)」の道。

「下から(par en bas)」の道では、「弱い歴史」から出発して、心理学(la psychologie)や生理学(la physiologie)といった人間個体に即した学問領域へと接続する。
「上から(par en haut)」の道では、「強い歴史」を前提に、有機的存在の一般的進化(l’évolution générale des êtres organisés)を視野に収め、生物学(biologie)、地質学(géologie)、さらには宇宙論(cosmologie)といったマクロな学問へと開かれる。

この二重の視座が示唆するのは、歴史を捉えるためには歴史学そのものに閉じこもるのではなく、他の諸科学との横断的関係を構築する必要があるということである。
言い換えれば、歴史を歴史のみによって説明するという自己言及的な矛盾から逃れるためには、歴史を超えて異なる認識の地平に接続する必要があるということになる。
ただし、その場合には、「歴史」ではなくなってしまう。


そこで、ジレンマから逃れる別の方法について言及する。

Mais il existe un autre moyen d’éluder le dilemme, sans pour autant détruire l’histoire. Il suffit de reconnaître que l’histoire est une méthode à laquelle ne correspond pas un objet distinct, et, par conséquent, de récuser l’équivalence entre la notion d’histoire et celle d’humanité, qu’on prétend nous imposer dans le but inavoué de faire, de l’historicité, l’ultime refuge d’un humanisme transcendental : comme si, à la seule condition de renoncer à des moi par trop dépourvus de consistance, les hommes pouvaient retrouver, sur le plan du nous, l’illusion de la liberté.

しかし、歴史を破壊することなく、そのジレンマを回避する別の方法が存在する。それは、歴史とは一つの方法であり、それに対応する独立した対象があるわけではないことを認め、したがって、歴史という概念と人類という概念との間に等価性を認めることを拒否するだけで十分なのである。なぜなら、その等価性は、歴史性を超越的ヒューマニズムの最後の避難所とするために、暗黙のうちに私たちに押しつけられているものだからだ。それはあたかも、人間が、あまりにも実体を欠いた複数の自我を放棄するというただ一つの条件のもとで、「私たち」という次元において、自由という幻影を再発見することができるかのようなものだ。

ここでレヴィ=ストロースは、歴史と人類との等価性という考え方に言及している。
その考えは、神や超越的な存在ではなく、人間という存在そのものに、人間の本質や尊厳の最終的な根拠を求めようとするものである。

「超越的ヒューマニズム(un humanisme transcendantal)」という言葉は、人間を神や超越的存在さえも超える、普遍的で絶対的なものと見なす立場を指している。

レヴィ=ストロースは、歴史という概念(la notion d’histoire)と人間という概念(celle d’humanité)との等価性(l’équivalence)は、暗黙の目的(dans le but inavoué)のために私たちに押しつけられてきたものだと考える。

同じことは、自由(la liberté)についての考え方にもあてはまる。
あまりにも実体を欠いた(= par trop dépourvus de consistance)私たちの自我(les moi)を放棄すれば(renoncer)、「私たち」という共同体的あるいは社会的な次元において(sur le plan du nous)、自由を見出せるとされる。だが、そのような考えもまた、幻想(l’illusion)にすぎない。

こうした主張を通してレヴィ=ストロースは、「自我」を思考の中心に据える近代的思考を批判し、「自我」は実体を欠いた存在であり、人間を理解するための基本単位は「自我」ではない、という考えを強く打ち出しているのである。

その根底にあるのは、人間や歴史を理解する鍵は「個」ではなく、「関係」や「構造」にあるという考えであり、これこそがレヴィ=ストロースの構造主義と呼ばれる思想の核心なのである。
(ここでレヴィ=ストロースは、「人間は自由であり、自らの行為や選択を通じて世界に意味を与える」と主張する、ジャン・ポール・サルトルの実存主義と反対の立場を表明している。)


En fait, l’histoire n’est pas liée à l’homme, ni à aucun objet particulier. Elle consiste entièrement dans sa méthode, dont l’expérience prouve qu’elle est indispensable pour inventorier l’intégralité des éléments d’une structure quelconque, humaine ou non humaine. Loin donc que la recherche de l’intelligibilité aboutisse à l’histoire comme à son point d’arrivée, c’est l’histoire qui sert de point de départ pour toute quête de l’intelligibilité. Ainsi qu’on le dit de certaines carrières, l’histoire mène à tout, mais à condition d’en sortir.

実際のところ、歴史は人間にも、また特定のどの対象にも結びついてはいない。歴史はその方法それ自体によってのみ成り立っている。そして経験が示すように、人間的なものでも非人間的なものでも、いかなる構造においてもその諸要素を余すところなく把握するために、この方法は不可欠なのである。したがって、理解可能性の探求が最終的な到達点として歴史に行き着くのではなく、むしろ歴史こそが、理解可能性を求めるあらゆる探求の出発点となるのである。いくつかの職業について言われるように、歴史はすべてに通じている。ただし、そのためには歴史から抜け出すことが条件なのだ。

歴史は到達点ではなく、その方法(sa méthode)にこそ意味がある。そしてその方法とは、人間的なもの(humaine)であろうと、人間に関係のないもの(non humaine)であろうと、ある「構造(une structure)」を構成するすべての要素(l’intégralité des éléments)を取り上げるために欠かすことのできない(indispensable)ものである。

したがって、「歴史」は到達点ではなく出発点である。つまり、「事実の記録」ではなく、ある現象をどのように把握し、どのように説明可能にするか、そのための「方法」を提供するものだということになる。

この文脈における理解可能性(l’intelligibilité)とは、文化や社会の複雑な事実を理解し、整然とした秩序を与えること、すなわち「構造」を解明することを意味する。従って、歴史は「理解の最終的なゴール」ではなく、「理解を可能にするための方法論的出発点」である、というのがレヴィ=ストロースの主張である。

最後に付け加えられた「歴史はすべてに通じる(l’histoire mène à tout)、ただしその条件は歴史から抜け出すこと(en sortir)」という一文は、歴史が出発点であること、そして個別の事実や事件は、それら全体が構成する「構造」の中で意味を持つことを、格言的に表現している。


歴史理解の問題は、決して歴史上の人物や時代を画する大きな出来事に関わるだけではなく、現在の私たちと直接つながる事象も含んでいる。

今年は終戦後80年ということもあり、戦時中のさまざまな体験が語られ、「語り継ぐ」ことの重要性が強調されている。忘れないことで、平和な世界を願う。そのことは確かに大切である。
しかし、その一方で、戦争体験者が語る出来事が「弱い歴史」にとどまり、単なる思い出話に終わっていないだろうか、という疑問も生まれる。平和という言葉は口にされるが、「弱い歴史」が「強い歴史」に組み込まれていないのではないか、という疑問である。
別の言葉で言えば、戦争というものの「構造」の中で、具体的な事例が捉え直されているか、という疑問が残る。

広島や長崎での原子爆弾被曝だけでなく、沖縄戦の悲惨な体験、多くの都市で行われた空襲の被害体験など、貴重な証言が語り継がれている。しかし、それらがウクライナやガザをはじめとする現代の戦争や、紛争の中で失われる命への思いと結びつき、平和を促す運動へとつながるという意識がどれだけあるだろうか。
もしその意識が希薄だとしたら、「弱い歴史」から外に出て「強い歴史」と連動することはほとんどないのではないか。これは、坂本龍馬を知っていても、彼から大きな日本史全体の理解につながらない歴史好きの状況と重なると言ってもいいだろう。

「語り継ぐ」ことを単なる記憶や思い出話に終わらせないためには、「強い歴史」と結びつけて考えることが必要だといえる。過去の出来事を知るだけでなく、それを現在や未来の平和につなげる視点を持つことが求められる。
レヴィ=ストロースは、私たちに歴史を広い視野で捉え、単なる記録にとどめずに、それらの具体的な事例を総合的な視点から捉えなおし、学びと行動につなげることの重要性を静かに示しているといえないだろうか。

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