『万葉集』巻十六に収められた一首の和歌を目にして、思わず笑ってしまった。持統天皇の催した宴席で、長意吉麻呂(ながのおきまろ)が即興的に詠んだと考えられる歌である。
蓮葉者 如是許曽有物 意吉麻呂之 家在物者 宇毛乃葉尓有之
訓読:
蓮葉(はちすは)は かくこそあるもの、意吉麻呂(おきまろ)が、家(いへ)なるものは、芋(うも)の葉にあらし
現代語訳:
この宴席に並ぶ蓮の葉は、まことに美しい姿を見せている。
それに比べて、わが意吉麻呂の家にあるのは、蓮の葉ではなく、どうやら芋の葉に違いない。


この宴席で目にする蓮の葉は、そうあるべき美しさを見せている。そうすると、私、意吉麻呂の家にあるものは、蓮の葉ではなく、芋の葉であるに違いない。
このように蓮と芋を対比するこの歌の中で、「芋(うも)」と「妹(いも)」という音の類似による言葉遊びが行われ、宴会の美女たちと妹=自分の妻が対比されている。
従って、意吉麻呂は、宴席の女性たちの美しさを賞賛するために、自分の妻を卑下する歌を詠ったことになる。
日本では長らく「謙遜が美徳」とされ、「愚妻」といった表現さえ用いられてきた。長意吉麻呂の和歌からは、そのような言語表現と、それに伴う心性が、8世紀初頭から1300年以上にわたって受け継がれてきたことがうかがえる。
それは、日本人の心性であると同時に、他者への表現法でもあった。
謙譲語は、この心性に基づいて形成されたものと考えられる。
相手を高めて敬意を示す「尊敬語」に対し、「謙譲語」は自己を低く位置づけ、控えめに表現することによって、相対的に相手に敬意を示す機能を果たす。こうした微妙な使い分けを通じて、日本語の世界では、上下関係を前提とした人間関係の調整が行われてきたのである。
この点に関して、文化庁のホームページには興味深い例文が掲載されている。
https://www.bunka.go.jp/seisaku/kokugo_nihongo/kokugo_shisaku/keigo/chapter4/detail.html
「課長,そのファイルも会議室にお持ちしますか。」と尋ねたところ,「うん,よろしく頼むよ。」と言われてしまいました。私は自分が持っていくつもりではなく,上司である課長が持っていくかどうかを尋ねたかったのですが,どう言えば良かったのでしょうか。
【解説1】
課長が持っていくかどうかを尋ねたかったのであれば,「課長,そのファイルも会議室にお持ちになりますか。」と,尊敬語を用いるのが良いでしょう。
【解説2】
「お持ちする」は,謙譲語Iです。したがって,自分が持っていくかどうかを上司である課長に尋ねたことになってしまいます。だからこそ,課長もそのように反応したのでしょう。これも,尊敬語を使うべきところ謙譲語Iを用いてしまったために生じた問題です。
尊敬語の「お持ちになりますか」であれば、課長が持っていくかどうかを尋ねる意味になる。
他方、謙譲語の「お持ちしますか」であれば、話し手が自分を低く置き、「私が持っていきましょうか」という申し出を表すことになる。
このように、人間関係の上下を前提とした言語表現は日本語に特徴的であると同時に、韓国語などにも見られる。ただ、日本ではすでに飛鳥時代から、自分や自分に属するものを低く置いて表現する傾向が確立していたことは、非常に興味深い。
現代では「謙遜がウザい」とか「人間関係を面倒にする」といった心理的傾向もしばしば語られる。プレゼントを渡すときに「つまらないものですが」と言えば、「つまらないと思うなら渡さなければいい」といった反応もあるらしい。これもまた現代日本人の心性の一側面だろう。
しかしその一方で、長意吉麻呂の「蓮葉は」の和歌に込められたユーモラスな「謙遜」を楽しめる感受性も、失わずにいたい。