
『万葉集』を代表する歌人である柿本人麻呂は、あえて時代錯誤的な表現を用いるなら、日本で最初の抒情詩人といっていいかもしれない。実際、人麻呂の和歌には、時間の流れに運ばれて失われていくものへの愛惜を美しく表現したものが数多くあり、現代の私たちが読んでも心にすとんと落ちる情感が詠われている。
そのことを最もよく示しているのが、「かえり見る」という姿勢である。そして、振り返るとともに甦ってくる「いにしえ」に思いを馳せるとき、そこに「悲し」の情感が生まれ、飛鳥時代から現代にまで繫がる日本的な抒情が、美として生成される。
(1)有間皇子の「かえり見む」から 柿本人麻呂の「見けむ」へ
柿本人麻呂の抒情表現をよく理解させてくれるのは、彼よりも一世代前の有間皇子(ありまのみこ)の和歌である。
有間皇子は皇位継承をめぐる争いの中で、中大兄皇子(なかのおおえのみこ、のちの天智天皇)に命を狙われ、658年、紀温湯(きのいでゆ)へと連行され、最終的には殺害されることになる。
その途上、岩代(いわしろ:和歌山県日高郡みなべ町)を通りかかった時に詠んだとされる和歌が、いまに伝わっている。
岩代の 浜松が枝(え)を 引き結び ま幸(さき)くあらば またかへり見む
(『万葉集』II, 141)

有間皇子は、死を予感しつつも、松の枝を結ぶことで命が救われるよう祈り、無事(=ま幸く)に戻ることができ、再びこの松を見ることを願った。
ここで用いられている「かへりみむ」(還見)は、「帰って来て見る」「戻って来て見る」という意味に解釈される。
柿本人麻呂は、701年、文武(もんむ)天皇が紀伊に行幸した折に、有間皇子の「岩代の」の和歌を下敷きにした一首を詠んでいる。
後(のち)見むと 君が結べる 岩代の 小松が末(うれ)を また見けむかも
(『万葉集』II, 146)
人麻呂は「岩代の浜松が枝を引き結び」をほとんどそのまま踏まえつつ、有間皇子に向かって「君」と呼びかけ、「君が結べる岩代の小松が末(=枝先)」と詠う。
さらに、有間皇子の「またかへり見む」という未来への希望を受けて、それを「後見むと」と言い換えている。したがって、五・七・五・七までの部分は、有間皇子の和歌をほぼ反復しているといえる。
しかし、結句の七音において決定的な違いが導入される。
有間皇子の「見む」は、もし無事に戻ることができるなら「見たいものだ」という未来への願望を示している。そこでは時間は常に前へ進んでいる。
それに対して、人麻呂は「見けむ」と過去推量を用い、「(かつて)見たのだろうか」と言う。もちろん、有間皇子が二度と岩代の松を見ることはなかったことを、当時の人々は皆知っていた。そこにこそ、有間皇子の無念を思う深い感慨が込められている。
言い換えれば、人麻呂は時間の流れを逆転させ、過去を振り返ることで、もはや取り戻すことのできない「いにしえ」への愛惜の情を呼び起こす。
この時、「かえり見る」は、有間皇子が用いた「戻って来て見る」という意味から、「振り返って見る」という意味へと転じるといってもいいだろう。
その場合、「かえり見て」見えてくるのは「過ぎ去ったもの」「今は失われているもの」であり、それが「いにしえ」である。そうした対象に向けられる愛惜の感情が、和歌の中に表現されることになる。
このようにして、柿本人麻呂は、前へ進む時間の流れを意識しつつ、その内面では過去へと遡行することによって、飛鳥時代の抒情を新たに創出するに至ったと考えてもいいだろう。
(2)荒れたる都を見れば悲し
柿本人麻呂の感受性は、失われたものへの思いだけにとどまらない。天皇を讃えるときには、永遠を賛美する感性をも発揮している。彼の時代には「大君(おおきみ)は神にしませば」で始まる歌も多く、人麻呂もまたそうした宮廷歌人の一人であった。
大君は 神にしませば 天雲(あまくも)の 雷(いかづち)の上に 廬(いほ)りせるかも
(『万葉集』III, 235)

ここでいう「大君」は、天武天皇や持統天皇を指すと考えられる。いずれにせよ、天皇が飛鳥の雷丘(いかづちのおか)に遊興した際、人麻呂はその「雷」を天空の雷(かみなり)になぞらえ、天皇は神であるからこそ天空に仮の住まいを構えることができるのだ、と讃えている。
こうした天皇の治める世界は「神の御代(みよ)」であり、決して途絶えることのないものとされる。それは、壬申(じんしん)の乱(672年)に勝利した天武天皇の時代以降に確立されていった「天皇の神格化」の意識だった。
こうして天皇の御代の永遠を讃える一方で、人麻呂は、逆に、人間世界の儚さや空しさを強く感じ、失われていくものへの愛惜も強く感じる歌人だった。

その典型が、「近江の荒れたる都を過ぎし時に、柿本朝臣人麻呂(かきのもとの あそみ ひとまろ)の作れる歌」である。ここには、永遠と束の間とが鮮やかに対比されている。
近江の都とは、667年に天智天皇が飛鳥から遷都したときに営まれた都である。しかし、天智天皇の死後、672年の壬申の乱で大海人皇子(おおあまのみこ、のちの天武天皇)が天智の第一皇子・大友皇子に勝利したため、この近江宮はわずか五年余りで廃都となった。
人麻呂は、そうした都の変遷を踏まえ、廃墟となった近江の都を目にした際の感慨を、長歌に託して表現している。
その歌は三つの部分に分かれ、まず天皇の御代の永遠性が詠まれ、次に天智天皇の近江遷都が語られ、最後に廃墟を前にした「悲しみ」が描かれる。
a. 玉たすき 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の ひじりの御代(みよ)ゆ 生(あ)れましし 神のことごと 栂(つが)の木の いや継(つ)ぎ継(つ)ぎに
b. 天(あめ)の下 知らしめししを そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え いかさまに 思ほしめせか 天(あま)離(さか)る 鄙(ひな)にはあれど 石(いは)走る 近江(あふみ)の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天(あめ)の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の
c. 神の命(みこと)の 大宮は ここと聞けども 大殿(おほとの)は ここと言へども 春草の 茂(しげ)く生(お)ひたる 霞(かすみ)立つ 春日の霧(き)れる ももしきの 大宮ところ 見れば悲しも
(『万葉集』1, 29)
a. 天皇の御代(みよ)の永遠
美しい襷(たすき)をかけたような畝傍の山、橿原の地に都を置いた天皇の御代以来、歴代の天皇は栂(つが)の木のように次々と天下を治めてきた。
ここでの「継ぎ継ぎ」という表現は、天皇の御代が永遠に続くことを示していると解される。
b. 天智天皇の近江遷都
しかし、天に満ちる大和の地を後にし、青々とした奈良山を越え、天智天皇は近江の国、岩の上を水が流れる楽浪に大津の宮を造った。その地は天から遠く離れた田舎である。
この遷都は、永遠の御代から、時間の流れにさらされる世界への移行を象徴する。神の御代が終わり、全てが空しく失われる時間がはじまるのだ。
c. 廃墟を前にした悲しみ
その天皇の定めた大宮はここだと聞くが、人々は大殿はここだとも言う。しかし、春草が生い茂り、春霞が立ちこめるその大宮を目にすると、心は自然と悲しみに沈む。
この悲しみは、時間の中で失われたものへの愛惜にほかならない。天皇の御代という永遠を知るからこそ、その対極にある儚さや空しさが、より鋭く心に迫るのだ。
柿本人麻呂の抒情性の根源は、まさにここにあると言っていいだろう。
(3)「かえり見る」
柿本人麻呂の意識は、前方にどれほど素晴らしいものがあるとわかっていたとしても、時に後方(=過去)を返り見ることがある。

692年のことだと考えられるが、軽皇子(かるのみこ、後の文武(もんむ)天皇)が、安騎(あき)の野(奈良県宇陀市)に狩りに赴いたことがある。同行した人麻呂は、かつて同じ地で狩りを行った亡き父(草壁皇子)を追憶する軽皇子の思いを詠った「軽皇子 安騎の野に宿らせる時に 柿本朝臣人麿が作る歌」の連作を綴った。
その中の一つの反歌(長歌の後ろに添えられた短歌)は、「かえり見る」を中心に詠われている。
そして、こう言ってよければ、有間皇子の「かへり見む」に、人麻呂自身の「見けむ」の意味を重ね合わせ、消え去ろうとするものへの思い、すなわち過去への情感をそこに読み込んだといえる。
東(ひむがし)の 野にかぎろひの 立つ見えて かへり見すれば 月西渡(かたぶ)きぬ
(『万葉集』I, 48)

「かぎろひ(炎)」とは輝く光を意味し、東の空では、曙の太陽の光が差してくるのが見える情景が描かれる。その光は時間の経過とともに輝きを増し、空を真っ赤に染めることだろう。
その時、人麻呂の意識は曙の美しさへと真っ直ぐに向かうだけでもおかしくはない。しかし、彼は前を見るだけではなく、「かへり見」する。すると、そこには、西の空に沈んでいく月の姿が目に入る。そして、すでに消え去ろうとする月の美をも心に留める。
このように、彼の意識は、前方の「かぎろひ」だけではなく、後方の「月」にも向かう。「かえり見る」動作が、その転換をもたらすのだ。

その動きは、「柿本朝臣人麻呂が石見(いわみ)の国から妻と別れて都へ上った時の歌」と題された連作の冒頭に置かれた長歌でも、中心的な役割を果たしている。
朝廷から石見国に派遣されていた人麻呂は、そこで現地の妻と思われる女性(依羅娘子よさみのおとめ)と暮らしていたのだろう。だが、やがて大和に戻る時が訪れる。その時には、愛しい妹(いも=妻)を石見に残し、旅立たなければならなかった。
華やかな大和の都へと向かう旅ではあっても、旅人の心はどうしても、残してきた妹へと向かう。
a. 石見(いはみ)の海 角(つの)の浦廻(うらみ)を 浦なしと 人こそ見らめ 潟(かた)なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも
b. いさなとり 海辺(うみへ)を指して 和多津(にきたづ)の 荒磯(ありそ)の上に か青く生(お)ふる 玉藻(たまも)沖つ藻 朝羽(あさは)振る 風こそ寄らめ 夕羽(ゆふは)振る 波こそ来(き)寄れ 波の共(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜(つゆしも)の 置きてし来(く)れば
c. この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど いや遠(とほ)に 里は離(さか)りぬ いや高(たか)に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲(しの)ふらむ 妹が門(かど)見む なびけこの山
(『万葉集』II, 131)
a. (大和と比べ)何もない石見

石見の海の津野の海岸を、よい浦がないと人は見るだろう。よい潟がないと人は見るだろう。
「よしゑやし」(それならそれでいい)、よい浦がなくても。「よしゑやし」、よい潟がなくても。
都のある大和の人から見れば、石見には何もないように映るに違いない。浦も潟もないと繰り返す人麻呂の心には、もしかすると、大和の女性に比べたら、石見で暮らした女性は華やかさに欠けるように見えるかもしれないという思いが、かすかに差しているのかもしれない。
b. 愛しい妻への思い

そんな(「いさなとり」は海の枕詞)海辺に向かい、和田津(にきたづ)の岩場の上には、青々と生い茂る玉藻(美しい藻)や沖の藻がある。朝には、鳥が羽ばたくように風が吹き寄せ、夕方には、鳥が羽ばたくように波が打ち寄せる。
その波とともに、あちらに寄ったりこちらに寄ったりする玉藻のように、これまでずっと寄り添って寝てきた妻を、露や霜のように置いてきてしまった。
海岸に打ち寄せる波は、決して止むことがなく、永遠に寄せては返す動きを繰り返す。その波に揺られて、藻もゆらゆらと揺れる。その永遠の反復は、玉藻のように美しい妹との暮らしが、決して終わることがないと思われていたことを示している。
しかし、大和に戻る際には、愛しい妹を残していかなければならない。露や霜は「置く」の枕詞ではあるが、ここでは、二人の暮らしが儚く終わってしまうことを思わせ、永遠との対比をいっそうくっきりと描き出している。
c. かえり見すれば

道中の曲がり角があるたびに、何度も何度も「かえり見る」のだけれど、そのたびに、妹の住む里はますます遠ざかってしまう。越えてきた山も、ますます高くなってしまったように見える。
暑い日差しに萎れる夏草のように、しょんぼりして私のことを思っているだろう妹。その妹のいる家の門を、もう一度この目で見たい。低く傾いてくれ、この山よ。
道の角に来るたびに振り返ることは、それだけ都への道を進んでいることを示している。どうしても大和に戻らなければならない。しかし、遠ざかれば遠ざかるほど、残してきた妹がいっそう愛おしく思われる。
「万たび」振り返るとは、実際に万回ということではなく、それほど多く感じられるほどに、愛する者から離れていく痛みが深いということである。
また、妹も自分のことを思い、しょんぼりしている姿が目に浮かび、愛おしさはいっそう募っていく。
このようにして、後に残してきた愛する女性への深い思いと別れの悲しみが、「かえり見る」という動作を通して痛切に表現されている。
「東の」の和歌と「石見相聞歌」の二つの例からもわかるように、「かえり見る」ことは、今まさに失われつつある「月」や「妻」への愛惜の情を呼び起こすきっかけとして機能している。
このことは、柿本人麻呂の意識が、天皇に象徴される永遠へと向かうだけでなく、時に時間の流れに逆らい、過去へと向かう傾向をも示している。
(4)「いにしえ」を思ふ

軽皇子が亡き父・草壁皇子への追憶を募らせた情景を詠う連作「軽皇子 安騎の野に宿らせる時に 柿本朝臣人麿が作る歌」については、すでに触れた。その先頭に置かれた長歌は、「草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて」という言葉で終わる。この「いにしへ」とは草壁皇子を指し、軽皇子が亡き父を思いながら寝るという状況が描かれている。
興味深いことに、長歌に続く最初の反歌にも「いにしへ」という言葉が現れる。ただし今度は、単に思い出すというだけでなく、より深い感情がそこに付け加えられている。
安騎(あき)の野に 宿る旅人 うち靡(なび)き 寐(い)も寝らめやも いにしへ思ふに
(『万葉集』I, 46)
旅人は横になり(うち靡き)、落ち着いて眠ることができない。その理由は、昔のことが思われる、すなわち亡き父への思いが募るからである。
このように考えると、この短歌における「いにしへ」には、明確な対象があることがわかる。
それに対して、何気ない情景に心を揺さぶられ、漠然と昔のことに思いが及び、深い情感を抱くことも、柿本人麻呂にはあったようである。
淡海(あふみ)の海(み) 夕波(ゆうなみ)千鳥(ちどり) 汝(な)が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ
(『万葉集』III, 266)

「淡海(あふみ)」を近江と考え、廃墟となった近江の都を連想することもある。しかし、そうした限定をせずに、夕方の海に多くの鳥たちが飛び交う情景を詠んだものと理解することもできる。
「夕波千鳥」は、夕日に照らされる小波が打ち寄せる海岸、そしてその上空を数多くの鳥たちが飛翔する情景を、ありありと目の前に浮かび上がらせる。
その鳥たちの鳴き声を聞いているうちに、心がしんみりとし、なんとはなしに昔のことが思い出される。
このときの「いにしへ」は、明確な記憶や対象を指すのではなく、漠然とした思いに浸る心の動きを言葉にしたものといえるだろう。

こうした過去への情感は、柿本人麻呂が「かへり見る」歌人であったことと深く関わっていると考えられる。振り返るその心に見えてくるのが、「いにしへ」なのだ。
そして、彼の和歌がしばしば抒情的であり、時には近代的な抒情性さえ感じさせるのだとすれば、それは、失われつつあるもの、すでに失われてしまったものへの愛惜の情を、「夕波千鳥」のように美しく言葉にし得たことによるのだろう。
飛鳥時代の和歌が、今も私たちの心を動かす秘密は、まさにそこにある。