現代社会では、情報を得るメディアが世代によって異なると言われている。
若年層とされる10〜30代では、TikTok、X、Instagram、YouTubeのショート動画など、いわゆるソーシャルメディアから多くの情報を得ている。
一方で、中高年層といわれる40歳以上では、テレビや新聞といったマスメディアに接する機会が多い。
こうした違いが、社会問題などに対する考え方や意見の差を生み出していると指摘されることもある。
確かに世代間で一定の差は見られるが、よく観察すると、ソーシャルメディアとマスメディアの間にはループ(循環構造)が存在し、実際には同じような心理的メカニズムが働いていることがわかる。
両者の違いは、共通する構造の上にありながら、情報発信の形態や文脈の違いに由来していると言える。
こうした全体的な視点のもとに、現代社会における「世論の作られ方」について考えていきたい。
メディアが目指す最も基本的な要件は、できるかぎり多くの人々に受信されることである。
人々の目に触れなければ、いかに情報を発信しても意味を成さない。そうなれば、広告収入などの収益を得ることもできず、やがて消滅するしかなくなる。
視聴率や登録者数、「いいね」の数は、まさにメディアの命綱といえる。
では、人々の注意を引き、共感を得て、視聴者数や登録者数を確保するためには、どのような方法が有効なのだろうか。
この問いを考える上で、「感情ヒューリスティック(affect heuristic)」という心理学の概念が参考になる。
「ヒューリスティック」とは、何らかの選択や意思決定を行う際に、論理的な思考過程を経ずに、これまでの経験に基づいて直感的かつ迅速に判断することを指す。
私たちは日常生活の中で、数多くの状況に直面する。そのたびにいちいち理詰めで考えていては時間がかかりすぎるため、経験則に基づき、その場その場で決断して行動するのは自然なことだ。
その際に、感情的な「好き・嫌い」が無意識のうちに判断に影響を及ぼす場合がある。
このような仕組みを「感情ヒューリスティック」と呼ぶ。
自分でもはっきり意識しないまま、感情的な要素が判断を左右し、その結果として、行動に伴うメリットやリスクまでも感情によって評価してしまう傾向がある。
日本のテレビ番組では、とりわけバラエティ番組やワイドショーが多い。
その理由は、制作の効率やコストの問題だけではなく、「感情ヒューリスティック」が働きやすい仕組みが組み込まれているからだと考えられる。
この仕組みは、ニュース番組においてさえ、多くの芸能人が出演していることからもうかがえる。
彼らの存在は、番組の構成において単なる「話題性」以上の役割を果たしているのだ。
その仕組みを理解するためには、マーケットでも使われる二つの心理的効果が役に立つ。
a. フット・イン・ザ・ドア効果(foot-in-the-door effect)
b. バンドワゴン効果(bandwagon effect)
芸能人、あるいは何らかの分野で広く名前を知られた人々には、次の二つの心理的効果が期待されている。
a. フット・イン・ザ・ドア効果
「フット・イン・ザ・ドア効果」とは、まず小さな要求を受け入れさせることで、その後により大きな要求も受け入れやすくなる心理的作用を指す。
日本では、とりわけ芸能人に「親しみやすさ」を求める傾向が強い。
彼らを「遠い存在」としてではなく、自分たちと同じ社会の一員のように感じたいという心理が働く。
芸能人の側も、バラエティ番組などで「素の姿」を見せたり、失敗談を語ったりすることで、親近感を意識的に演出する。
同時に、テレビに登場するという事実によって、特別な存在としての魅力も保たれている。
言い換えれば、芸能人は「擬似的な友人」であり、しかも「特別な友人」としての位置を占める。
視聴者が芸能人を「○○ちゃん」などと親しげに呼ぶ習慣は、その心理的な近さを示している。
ニュース番組に芸能人が起用されるのも、彼らの持つ「親近感」を利用し、視聴者が友人を見るような感覚でチャンネルを合わせ、番組を日常生活の一部に組み込むことを意図した構成といえる。
また、キャスターたちも日常会話に近い口調で語りかけることで、「自分たちに近い存在」としての印象を高め、好感度や視聴率の向上を図っている。
従って、芸能人の「親近感」は、フット・イン・ザ・ドア効果の一形態として、視聴者の心を開く第一歩を担っているのだといえる。
b. バンドワゴン効果
「バンドワゴン」とは、もともとパレードで楽隊を乗せる馬車のことを指す。
「バンドワゴン効果」とは、他の人々がその馬車に乗っているのを見ると、自分も乗りたいと感じる心理的傾向を意味する。
言い換えれば、他者がある行動や意見を支持しているのを見て、自分もそれに従いやすくなる傾向であり、その結果として、孤立していないという安心感や、集団への一体感を得ることにつながる。
この心理的傾向は、近年ますます顕著になっている。
何かを選択する際、まず星の数を確認し、たとえば五段階評価で四なら信頼し、二であれば購入を控えるといった行動にその典型が見られる。
その際、星の数の根拠を確かめることはほとんどなく、単に数値だけで判断することが多い。
こうした傾向は、「多くの人が支持しているものは、少なくとも危険ではなく、判断の基準として妥当である」という心理を反映している。
ソーシャルメディア上でインフルエンサーの影響力が極めて大きくなったのも、このバンドワゴン効果の表れである。
テレビにおける芸能人の役割も、同様の構造を持つ。
彼らは「親しみやすさ」という小さな入口を提供すると同時に、「知名度」という形で強い同調圧力を生み出している。
人気芸能人や著名なコメンテーターの発言は、多くの人がその意見に賛同しているという印象を形成し、視聴者が受け入れやすくなる回路をつくり出す。
この回路によって、広範な共感が生まれ、結果として視聴率の上昇へとつながっていく。
このように考えると、マスメディアもソーシャルメディアも、同様の仕組みの上に成り立っていることがわかる。
親しみやすさ(フット・イン・ザ・ドア効果)を基盤とし、知名度(バンドワゴン効果)が信頼性を高める。
その仕組みの中では、短時間に凝縮された簡潔でわかりやすい情報が共感(感情ヒューリスティック)を生みやすく、視聴率や登録者数の増加に結びつく。
こうした過程は多くの場合、無意識のうちに働くため、情報によって導かれた判断や選択を、自分の主体的な意志によるものだと錯覚してしまう。
「同意・不同意」「賛成・反対」「好き・嫌い」といった感情や態度が、受け取った情報の影響によるものであることに気づかず、初めから自分の考えや感情だと思い込んでしまうのである。
その結果、送られてくる情報をますます直感的に受け入れるようになり、その内容の事実性や論理性について、時間をかけて吟味することはほとんどなくなる。
こうしたサイクルは、友人との会話を思い浮かべてみると、ごく自然な心理であることがわかる。
親近感が信頼を生み、情報が拡散する。例えば、友人がある商品を使って効果があったと聞けば、自分も試してみようと思う。食事でも旅行でも同じことだ。その際、論理的な整合性を求めたり、事実を裏づける証拠をあえて確認したりすることはない。
では、このシステムを利用するマスメディアとソーシャルメディアのあいだには、どのような違いがあるのだろうか。
マスメディアは、しばしば「公共性」を持つと言われる。つまり、特定の集団に限定されず、社会全体に開かれていることが原則とされる。
一方で、ソーシャルメディアは、特定の集団をターゲットとし、同質性を高めながら自らの「色合い」を強く打ち出すことで、より大きなインパクトを狙い、結果的に集団の拡大を目指す。
具体的に言えば、マスメディアでは、テレビの視聴者や新聞の読者層をできるかぎり広く設定し、その数を確保することが求められる。
そのため、極端に偏った意見や感情を刺激する言葉は避け、社会的な「良識」を示すことが重視される。
これに対して、ソーシャルメディアでは、「バズる」や「炎上」といった言葉に象徴されるように、あえて過激な表現を用いて話題性を作り出し、視聴者数を爆発的に増やそうとする傾向がある。
その際には、賛同者だけでなく、意図的に反対者を生み出すことで議論を活性化させ、結果的に注目度を高めるという計算も働いている。
テレビなどのマスメディアで知名度を得た人々が、YouTubeなどで個人チャンネルを開設すると、その発言がテレビ時代よりも過激で刺激的なものになることが多い。
この変化は、ソーシャルメディアが「公共性」という建前を持たないメディアであることを、端的に示していると言える。
注意すべきは、マスメディアとソーシャルメディアから流れる情報が明確に分離されているのではなく、相互に循環しているという点である。
多くの場合、マスメディアでニュース番組がある事件を報じると、その後、ワイドショーの話題として取り上げられ、ニュースとは異なる、より主観的で身近な視点から提示される。
その際、コメンテーターたちは、その場で簡潔なコメントを自由に述べ、視聴者の「感情ヒューリスティック」を喚起する役割を担う。
視聴者はそれを受けて、「○○が言っていた」という形で共感の輪を広げ、情報の伝達者となる。
もちろん、あるコメンテーターの意見に同意できないこともあるだろう。
そのため、ワイドショーでは複数のコメンテーターを配置し、あらかじめ一定の対立構図を想定して、番組内での「多様性」を確保する。
こうして取り上げられた話題は、すでに多くの人々の知るところとなっているため、ソーシャルメディアでその話題を扱うことは、自ら新たな話題を生み出す手間を省くという点で、非常に効率的である。
しかも、ソーシャルメディアは「公共性」という枠組みを持たず、むしろ独自性を強く打ち出すことで、同質の感情を共有する場を形成する。
そのため、時には事実を軽視し、感情を強く刺激する言葉をあえて用いることもある。
ターゲットとされるのは、第一義的には、同じ考えを持ち、同じ感情を共有する人々であり、そこで求められるのは論理による説得ではなく、短く明確な言葉で印象的な結論を提示することなのである。
このようにしてソーシャルメディア上で大きな話題となった事柄は、「話題性がある」という理由で再びマスメディアに取り上げられ、両者のあいだで相互乗り入れが起こる。
この循環構造のなかで、マスメディアとソーシャルメディアの双方に利益が生まれていると言える。
若年層は主としてネットを通じて、より上の世代はテレビ・新聞・雑誌などを通じて情報を得ているとしても、どちらもこの循環の輪の中に含まれている点に変わりはない。
もし違いがあるとすれば、ネット世代のほうが、より「尖った」情報に接し、同一性を強く求め、自らの主張の正当性を強く感じやすいということだろう。
結論はあらかじめ定まっており、感情的に「受け入れるか・受け入れないか」が判断基準となる。
一定の長さを持つ文章を「長すぎる」と感じ、短く明確な表現を好む傾向は、そのことをよく示している。
マスメディアとソーシャルメディアにおける情報のループ(循環構造)について考えると、特にソーシャルメディアの側には無自覚さが見られる。そのために、しばしばマスメディアを「オールドメディア」と称し、自らこそが正義であると一方的に結論づける傾向が強い。そうした姿勢は、その結論が「感情ヒューリスティック」によって無意識のうちに植え付けられたものであることを、暗に示している。
実際に情報や主張の内容を検証していくと、ソーシャルメディアが「オールドメディア」として批判するマスメディアの一部と、同質の情報を扱っていることが明らかになる。
日本のマスメディアは、新聞・テレビ・スポーツ紙などで構成されているが、それらは少数の系列に分類できる。
- 読売新聞社 日本テレビ系 スポーツ報知
- フジ・メディア・ホールディングス
産経新聞 フジテレビ系列 サンケイスポーツ ニッポン放送 (文化放送は提携関係) - 毎日新聞社 TBSテレビ系列 スポーツニッポン TBSラジオ
- 朝日新聞社 テレビ朝日系列 日刊スポーツ
- 日本経済新聞社 テレビ東京系. デイリースポーツ(関東限定)
- 中日新聞 東京新聞 東京スポーツ(東スポ)
- 神戸新聞 デイリースポーツ
こうしたメディアから流れてくる情報は、系列ごとにおおよそ同じ傾向を示しており、大きく分けると「保守(右翼)的」か「非保守的」かという二つの方向に分かれる。
週刊誌の場合も、新聞社系メディアと同様に保守・非保守の傾向が見られるが、それ以上にセンセーショナルな記事を通じて話題を作り、いわゆる「バズる」ことによって販売部数を上げようとする傾向が強い。
週刊文春(文藝春秋)/週刊新潮(新潮社)/週刊現代(講談社)/週刊ポスト(小学館)/フライデー(講談社)/女性自身(光文社)/週刊女性(主婦と生活社)
以上のように、マスメディア(いわゆる「オールドメディア」)の中でも、保守的な傾向をもつ媒体の情報は、しばしばソーシャルメディアで簡潔かつ断定的に発信される内容と重なっている。このことから、ネット上の世論と呼ばれるものが、実際には保守的なマスメディアの情報の反映であることがわかる。
したがって、ソーシャルメディアの発信は、結果的に保守(右翼)的な方向へ傾く傾向が強い。にもかかわらず、そのことに自覚的ではなく、マスメディアを一括して「オールドメディア」と呼び批判する点にこそ、ソーシャルメディアが「感情ヒューリスティック」によって動かされていることが、もっとも明確に示されている。
しかし、ソーシャルメディアの発信者たちは、自らの意見形成を「自立的で主体的な行為」と信じており、「マスメディアの影響を受けている」と指摘されると、それを「自分の独立性への否定」と受け取り、強く反発する可能性がある。その原因は、「自分たちは真実を見抜いている」という確信が揺らぐことへの心理的抵抗であったり、「支配されている」「操作されている」といった指摘への防衛反応であったりする。その結果、「そうした指摘こそが旧来の価値観に縛られている」と、批判を逆転させる形で応答することも考えられる。
事実を検証し、論理に基づく対話を試みるのではなく、最初から結論ありきで他の意見を断罪するような反応自体が、まさに論理的反証よりも「自分の立場を守る感情」が優先されたものであり、「感情ヒューリスティック」の典型例であると言える。
10〜30代の若い世代は、一日に何時間もスマートフォンの画面を眺め、年齢を重ねた人々は、同じように何時間もテレビを「流し見」しながら過ごすと言われる。
そのどちらも、気づかぬうちに情報の流れに身を委ねているという点では、そう大きな違いはないのかもしれない。
私たちは日々、マスメディアやソーシャルメディアから次々と流れてくる情報に触れながら、無意識のうちにその影響を受けている。
感情が少し動いたり、誰かの意見に共感したりするたびに、知らず知らずのうちにその流れの中へ取り込まれていく。
そして、そのことに気づかないまま、それを自分自身の考えや感情だと信じてしまうのだ。
現代の「世論」と呼ばれるものは、そうした日々の小さな感情や同意の積み重ねから、いつのまにか形づくられていく。
それは、私たち一人ひとりの中で静かに進む、ほとんど自覚されることのない出来事なのかもしれない。
こうして形成される世論にもし問題があるとすれば、それは事実の確認が十分に行われず、しばしば論理性が問われないまま受け入れられてしまうという点にあるだろう。
短くまとめられ、直感的に受け入れやすい情報ほど、事実の裏づけがなされにくい。
情報は瞬く間に流れ去り、それを後から検証することは、日本ではとりわけ少ないと言われている。
その背景には、親密さや好感を重んじる文化があるのかもしれない。
好意を寄せる人の情報が誤っていたとしても、それを後から指摘することは、共感の上に成り立つ小さな共同体を壊してしまうような気がして、ためらわれるのだ。
また、正確な知識に基づいて論理的に考えようとすれば、どうしてもある程度の長さの言葉が必要になる。
しかし、その筋道をたどるには時間がかかり、感情よりも理性を働かせる努力が求められる。
それを「まだるっこしい」と感じてしまう感覚が定着すると、思考は次第に「感情ヒューリスティック」だけで動くようになってしまう。
学校教育では、「考える力の育成」が一つの柱とされている。
「知識偏重型から『考える力』重視型へ」という言葉がよく聞かれるが、知識と思考力を対立させるような見方は、やや残念に思える。
それでも、一つの問いに時間をかけて向き合おうとする姿勢が重んじられるようになっているのは、心強いことだ。
時間をかけて言葉を吟味し、感情を揺さぶるだけの言葉と、考えを導くための言葉を見分ける力を身につけること。
その過程で、自分なりの根拠を探し、結論を導き出す習慣が育っていくのだと思う。
そして、そうした思考の積み重ねの上に世論が形づくられていくなら、世界は少しずつでも、よりよい方向へ向かっていくのではないだろうか。