
ラフカディオ・ハーンが強く日本に惹かれたことはよく知られているが、来日当初、彼の眼には日本人の姿がどのように見えていたのだろうか?
その疑問の回答となる一節が、1894年に刊行されたGlimpses of Unfamiliar Japan(『なじみのない日本を垣間見る』)に収録された« From the Diary of an English Teacher »(英語教師の日記から)と題された章の中にある。
それは、松江中学に英語教師として赴任したハーンが二度目の新学期の印象を綴ったシーンで、以下のように書き始められる。
Strangely pleasant is the first sensation of a Japanese class, as you look over the ranges of young faces before you. There is nothing in them familiar to inexperienced Western eyes; yet there is an indescribable pleasant something common to all.
日本の教室に入ってまず感じるのは、不思議なほど心地よい感覚だ。目の前にずらりと並んだ若い顔を見渡すときだ。未熟な西洋人の目には、どの顔にも見慣れた特徴は何ひとつない。それなのに、すべての顔に共通して、言葉では言い表せないような心地よい何かが感じられるのだ。

日本人同士では気づかない何かが、日本での経験がない(inexperienced )西洋人には感じられる。しかも、それが心地よい(pleasant)。としたら、それはどんなものだろうかと、自然に興味が湧いてくる。
Those traits have nothing incisive, nothing forcible: compared with Occidental faces they seem but ‘half- sketched,’ so soft their outlines are—indicating neither aggressiveness nor shyness, neither eccentricity nor sympathy, neither curiosity nor indifference.
それらの顔立ちには、鋭さもなければ、力強さもない。西洋人の顔と比べると、それらはまるで「描きかけの素描」のように見え、輪郭がとても柔らかい。― 攻撃性も恥じらいもなく、エキセントリックさも共感も、好奇心も無関心もない。
彫りの深い西洋人の顔に比べて、日本人の顔はのっぺりとしている。そのため、ハーンは日本人の表情から意志や感情を読み取ることができなかったらしい。現在でも、日本人はいつもニコニコしているだけで、何を考えているかわからないと言われることがあるが、それも同じことなのだろう。
ハーンの日本人観でとりわけ注目したいのは、「攻撃性(aggressiveness)」という点である。それが、日本人に対する好印象につながったものと思われる。
Some, although faces of youths well grown, have a childish freshness and frankness indescribable; some are as uninteresting as others are attractive; a few are beautifully feminine. But all are equally characterized by a singular placidity—expressing neither love nor hate nor anything save perfect repose and gentleness—like the dreamy placidity of Buddhist images.
いくつかの顔は、立派に育った青年の顔でありながら、言葉では言い表せないほど子どものような清らかさと素直さをたたえている。いくつかの顔は印象が薄いが、他の顔はそれと同じくらい魅力的だ。
少数の顔は、女性的な美しさをたたえている。しかし、どの顔も、独特の静けさによって共通して特徴づけられている ― それは、愛も憎しみも、完全な安らぎとやさしさ以外の何も表していない ― まるで、仏像の夢見るような静けさのようだ。
攻撃性がないことに続き、今度は女性的な特徴と、とりわけ「静けさ(placidity)」に言及される。
その静けさが「仏像の夢見るような静けさ(dreamy placidity)」のようだという表現からは、来日当初のハーンが日本人をどのようなイメージで理想化していたのかがうかがえる。
At a later day you will no longer recognise this aspect of passionless composure: with growing acquaintance each face will become more and more individualised for you by characteristics before imperceptible. But the recollection of that first impression will remain with you and the time will come when you will find, by many varied experiences, how strangely it foreshadowed something in Japanese character to be fully learned only after years of familiarity.
やがて日が経つにつれて、この情熱を伴わない冷静さを、もはや同じようには感じなくなるだろう。人々と親しくなるにつれて、それぞれの顔が、以前には気づかなかった特徴によって、少しずつ個性的に見えてくるだろう。しかし、第一印象の記憶は、心に残り続ける。そしていつか、さまざまな経験を通じて、その第一印象が、何年もかけてようやく十分に理解できる日本人の性格の中にある何かを、驚くほど正確に予兆していたのだと気づく時が来るだろう。
人々と親しくなるにつれて、かつてはみんな同じに見えていた顔つきが少しずつ異なって見え、個人として識別できるようになる。
それはごく普通のことだが、ハーンは、最初に集団として見たときの第一印象(first impression)が、日本人の性格の一面を非常に正確にとらえていたと確信している。
つまり、ハーンにとって、日本人は攻撃性がなく、静けさを備えた民族だと感じられていたのだった。
You will recognize in the memory of that first impression one glimpse of the race-soul, with its impersonal lovableness and its impersonal weaknesses—one glimpse of the nature of a life in which the Occidental, dwelling alone, feels a psychic comfort comparable only to the nervous relief of suddenly emerging from some stifling atmospheric pressure into thin, clear, free living air.
その第一印象の記憶の中に、民族の魂を垣間見ることになるだろう。それは、非個性的な愛すべき性質と非個性的な弱さを備えているのだが、そこで見えてくるのは、西洋人が孤独に暮らす中で感じる、生活の安らぎの性質である。その安らぎは、息苦しい空気の圧力から、薄く澄んで自由で生き生きとした空気の中へ突然抜け出したときに感じる、神経を和らげるような解放感とだけ比べられるものである。
ラフカディオ・ハーンは、イギリスやアメリカにいた時、人々の中にいる時には神経が高揚し、神経の安らぎ(nervous relief)を感じられる場所は一人の時だけだったのかもしれない。
ところが、日本、とりわけ出雲では、学校の中で生徒たちといても、あるいは町の中で人々に囲まれているときでも、日本民族に魂の静けさのおかげで、精神的な居心地のよさ(psychic comfort )を感じることができたに違いない。
ラフカディオ・ハーンが日本人の女性と結婚し、子どもをもうけ、日本に定住することになった大きな理由が、彼が日本人から受けた第一印象にあったと推測しても、決して間違いではないだろう。
もちろん、ハーンの第一印象が日本人の民族の魂を的確にとらえていたのか、あるいは百年以上を経た現在の日本人が同じような印象を外国人に与えるのかは、また別の問題である。