富士山を通して見る日本人の心情 2/3 燃える富士から富士の煙へ

山部赤人のように、富士山に「神さびて高く貴き」感情を投げかける流れが成立した一方で、より人間的な感情を託す流れも生まれていった。

人間的な感情の代表は、まず第一に「恋」であり、その場合、富士山の噴火から連想される「燃える」という言葉によって表されることが多い。
もう一つの代表的な感情は「無常観」であり、噴火の後の「煙」は、恋だけではなく、無常を象徴することもあった。

(2)「燃える」富士

『万葉集』の時代から、「寄物陳思(きぶつちんし)」と呼ばれる表現法があり、和歌を詠む人々は、自然の事物に自らの感情を託して表現することがあった。
その中でも、富士山の噴火は、激しい恋心を託すものとしてしばしば用いられた。

『万葉集』に収められた次の二首は、燃える恋と燃える富士を直接的に重ね合わせている。

我妹子(わぎもこ)に 逢ふよしをなみ 駿河なる 布尽(ふじ)の高嶺の 燃えつつかあらむ
(『万葉集』11-2695)

「逢ふよしをなみ」の「よし」とは手段や方法を意味し、「無(な)み」、すなわちそれがないために、愛する人と逢うことができない状態を表している。
それでもなお、恋する気持ちは「富士の高嶺のように燃え」続けているのだろうか、と詠嘆する。

この「燃え続けているのだろうか」という詠嘆的推量が、次の歌では「燃え続けよ」という命令に転じている。

妹(いも)が名も 我が名も立たば 惜しみこそ 布仕(ふじ)の高嶺の 燃えつつわたれ
(『万葉集』11-2697)

愛する人の名と自らの名が世間に知られ、噂になってもかまわないという言葉は、恋の激しさを示している。
その激しさは、燃え続ける富士の高嶺に託して表現され、命の尽きるまで燃え続けよと命ずる言葉のうちに、永遠に続くことを願う思いが込められている。


『古今和歌集』にも、富士の峰が燃え、恋の思いを伝える歌がある。

逢ふことの まれなる色に 思ひそめ 
わが身は常に 天雲の晴るる時なく 
富士の嶺の 燃えつつとはに 思へども 
逢ふことかたし なにしかも 人をうらみむ
(『古今和歌集』19-1001)

めったに会うことのできない人を思い始めてから、心が晴れることがない。富士の峰が燃えるように、私はいつでもその人を思い続けている。
会うことは難しいけれど、それでもその人を恨むことなど、どうしてできようか。

このように詠うこの長歌においても、『万葉集』の二首と同様に、「富士の嶺の燃え」という表現に恋の思いが託されていることがわかる。

藤原敏行(ふじわらのとしゆき)の和歌では、燃えているのは富士そのものではなく、「我が恋」である。

君と言へば 見まれ見ずまれ 富士の嶺の めづらしげもなく 燃ゆる我が恋
(『古今和歌集』14-680)

「めづらしげもなく」とは、「珍しそうな様子もなく」、すなわち「ごく当たり前のように」という意味である。
富士の山が燃えるのが珍しいことではないように、私の恋もまた、あなたに会うときも会えないときも、いつでも燃え続けている。

この和歌からは、富士山の噴火に恋の情熱を託す表現が、当時すでに人々の間に定着しており、もはや珍しいものではなかったことがうかがえる。

(3)富士の煙と恋心

燃える富士ではなく、富士の煙に恋の思いが託されることもある。
その場合には、煙の本質である「消える」という性質が加わり、恋の感情は、燃える場合のように一面的なものではなく、より複雑なものとして表現される。

紀貫之は、『古今和歌集』の「仮名序」において、和歌とは「心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて言ひ出せるなり」と定義し、物に寄せて思いを述べることこそが和歌の本質であるとした。そして、その具体例の一つとして、「富士の煙によそへて人を恋ひ」という表現を挙げている。

『新古今和歌集』には、紀貫之が富士山に恋の思いを寄せたとされる次の歌が収録されている。

しるしなき 煙(けぶり)を雲に まがへつつ 夜を経て富士の 山と燃えなむ

(『新古今和歌集』11-1008)

「しるし(験)」とは、効果や報いを意味する。したがって、「しるしなきけぶり(験なき煙)」は、どれほど恋い慕っても報われない思いを暗示している。
その空しく立ちのぼる煙が、雲と「まがふ(交ふ)」、つまり混ざり合いながら、夜を通して上り続けていく。やがては富士の山のように、激しく燃え上がってしまうだろう、というのである。

この歌では、報われないほどに募る恋の思いを富士山の噴火に託しているが、一方で煙は、やはり「空しさ」の予兆でもある。
どれほど大きく燃え上がっても、最後には空しい煙として消えてしまうかもしれない。その不安が、常に伴っている。
そうした複雑な感情が、「煙」と「燃える」という語を通じて、見事に表現されている。


紀全子(きの ぜんし)の歌では、「燃える」という動詞が重ねられると同時に、「煙」には「空し」という形容がなされ、紀貫之の「しるしなき」の和歌に劣らず、複雑な感情を伝えている。

富士の嶺の ならぬ思ひに 燃えば燃え 神だに消たぬ むなし煙を

(『古今和歌集』19-1028)

この歌は、「富士山 — 燃える火 — 恋の炎」というモチーフに基づきながら、「燃えば燃え」と、恋の思いの激しさをとりわけ強調しているように見える。
しかし、ここで燃えている「火」は「ならぬ思ひ」の火であり、思い通りにならない恋の炎である。
いくら愛しても報われない恋であれば、そこから立ちのぼる煙が空しいのも当然といえる。しかも、その「むなし煙」は、神でさえ消すことができない。
このように読み解くと、「燃えば燃え」は、「どうせ報われないけれど、燃えたければ燃えればよい」という、諦めにも似た心情を表現していることになる。その感情は無常観や諦念へとつながる。

しかし、他方では、「神でさえ消すことができない煙」は、どれほど報われず空しいものであっても、恋の思いそのものが決して消えることのないことを示しているとも読める。
その場合には、富士=不尽=不滅の山の高嶺は、どのような運命にあろうとも、燃え続ける恋の象徴でもありうる。
このように解釈するならば、「神だに消たぬむなし煙」は、「諦め」ではなく、恋の永遠性や不滅性を象徴する表現として捉えることができる。

富士の煙」に恋の思いを託す場合には、「燃える富士」の場合のように一義的な情熱の表現ではなく、より多層的で複雑な感情が描かれることを、これら2つの例から見て取ることができる。


9世紀後半に成立したと考えられる『竹取物語』では、物語の最後を富士の煙が締めくくっている。

月から地上へと下ったかぐや姫は、五人の求婚者の求めを退けたのち、帝(みかど)から愛を告げられ、次第に心を通わせるようになる。しかし3年後、彼女は月へ帰らなければならない。そのとき、月からの使者は「天(あま)の羽衣」と「不死」の薬を授ける。

天の羽衣は喜怒哀楽の感情を消す力を持ち、かぐや姫が昇天する際に、育ての親である翁と媼、そして帝への情愛を消し去るための道具となる。
一方、不死の薬は姫から帝への贈り物とされ、手紙とともに帝のもとに届けられる。しかし帝は、「かぐや姫のいないこの世で永遠の命を得ても意味がない」と言い、不死の薬を天上に最も近い山に捨てるよう家臣に命じる。

帝(みかど)は大臣や公卿たちをお召しになり、「どの山が最も天に近いであろうか」とお尋ねになった。すると、ある者が申し上げた。「駿河の国にある山が、都からも近く、また天にも最も近い山でございます」と。
帝はその言葉を聞かれて、次のような歌をお詠みになった。

逢うことも 涙に浮かぶ 我が身には 死なぬ薬も 何にかはせむ
(会うこともかなわず、涙に沈むこの身にとって、不死の薬など何の意味があろうか)

帝は献上された不死の薬に壺と手紙を添えて、使者に託された。勅使には「調(つさ)のいはかさ」という者をお召しになり、駿河の国にあるという山の頂上まで運ばせるよう命じられた。そして、その山の頂でどうすべきかを詳しくお伝えになった。手紙と不死の薬の壺を山の頂で火をつけて燃やすように、と命じられたのである。
その命を受けた「調のいはかさ」は、多くの兵(つはもの)を従えて山に登った。そのことから、「富士の山」と呼ばれるようになったという。そのときの煙は、今もなお雲の中に立ちのぼっていると伝えられている。
(『竹取物語』)

ここでは、「不死(ふし)」と「富士(ふじ)」という同音異義の掛詞による言葉遊びが行われており、不死の薬を捨てられた山が「富士の山」と呼ばれたという語源説が物語の前提として示されている。
しかし、実はもう一つの語源を読み取る仕掛けもなされている。薬を捨てるよう命じられた「調(つさ)のいはかさ」は、「士(つはもの)もあまた」従えて山に登った。つまり「士(つはもの)が富む(あまた)」という発想から、富士山の名を導く漢字表記に基づく語源説も暗示されているのである。

ちなみに、「富士」という漢字表記の初出は、延暦16年(797)成立の『続日本紀』であり、それ以後、「ふじ」という語には「富士」の字が公的記録に用いられるようになったと考えられている。

こうした言葉遊びに基づきながら、物語の最後に立ちのぼる富士の煙は、どのような象徴的役割を担っているのだろうか。
かぐや姫のいない地上で永遠に生きても意味がないと考え、不死の薬を捨てるという筋から見れば、その煙は「不死の消滅」を暗示しているとも考えられる。
一方で、姫からの贈り物が煙となって天に昇っていくとすれば、それは帝の恋心が、月へ帰った姫に向かって今もなお昇り続けている象徴とも読み取れる。

このように、『竹取物語』の「富士の煙」は、永遠性と喪失、鎮魂と執念という相反する意味をあわせもつ多層的な象徴である。そこには、紀貫之や紀全子の歌に見られるように、富士に託された人々の思いが単一ではなく、多元的に展開していることが示されている。


「燃える富士」から「富士の煙」へと移行するにつれて、そこに託された恋心も、変わることなく燃え続ける感情だけではなく、報われることなく消え去ってしまう恐れや儚さをも含むようになる。

さらに一歩進めば、富士の煙が恋を離れ、おぼろげな心情や、さらには人生の無常を投影するようにもなっていく。
その過程を辿ることが、次の課題となる。

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