
奈良時代から鎌倉時代前期にかけて、人々が富士山に託した思いは、「神さびて高く尊き」信仰の対象から、「恋の炎」に象徴される情念の山が加わり、さらに「空し」といった無常観を帯びることもあった。
ここで注意したいのは、富士山の象徴がいつの時代にも多層的であり、いずれか一つの側面が他を排除することはなかったという点である。神聖、燃える恋、儚い恋、そして無常、それらが共存していたことこそ、きわめて日本的な現象であるといえる。
(4)漠とした思い
奈良時代には、富士山に「見通しのきかない不安」といった感情が託されることもあった。その一つの例として、『万葉集』に収録された「霞」を詠んだ歌を取り上げてみよう。

霞(かすみ)いる 布時(ふじ)の山辺(やまのへ)に 我が来(こ)なば いづち向きてか 妹が嘆かむ
『万葉集』14 – 3357
この歌は「東歌」に収められており、東国の人が防人などに徴用され、愛する人を残して旅立つときの心境を詠んだものと考えられる。
富士山の麓は霞に覆われ、まったく見通しがきかない。私がその中に入り込んでしまい、どこにいるのかわからなくなったら、愛する妻(恋人)は、どちらを向いて私の不在を嘆くのだろうか。
このように、別離の哀しみを詠う中で、富士の霞は人の姿を見えなくするものであり、見通しのきかない不安を象徴的に表す役割を担っている。
この歌が空間の不透明さを取り上げているのに対して、次の歌は時間的な不都合さを詠っている。
天の原 不自(ふじ)の柴山 木(こ)の暗(くれ)の 時移りなば 逢はずかもあらむ
『万葉集』14 – 3355
広々とした空の下にそびえ立つ富士山。その麓には「柴山」、つまり木々の茂る丘陵や山裾の林が広がっている。そして今、夜が近づき、木々が闇に包まれていこうとしている。
そうして時が移ろってしまえば、あなたにはもう二度と逢えなくなってしまうのだろうか。
ここでは、夕方から夜へと移る時間の中で、富士山の麓の木々が暗くなっていく情景と、時が過ぎてしまえば愛する人に会えなくなるのではないかという不安な心が重なり合っている。
そして、「天の原」という永遠を象徴する語が、かえって時間の移ろいを際立たせ、感情の陰りをいっそう深く感じさせている。
富士山に時間的な不都合さの思いを託す表現は、『伊勢物語』九段「東下り」にも見られる。
在原業平とされる主人公は、東国へ向かう途中、宇津の山(現在の静岡県あたり)に差し掛かったとき、不安や孤独を感じ始める。

東へ旅を続け、ついに駿河の国に着いた。宇津の山に行き着いたところ、自分がこれから入ろうとする道は非常に暗く細く、葛(つた)や楓(かえで)が生い茂っている。心細く、根拠はないものの、何かとんでもない目に遭うのではないかという漠然とした不安を感じていると、修行者に出会った。そこで、都にいるあの人のもとへ届けてもらおうと思い、手紙を書いて託した。
駿河なる 宇津(うつ)の山辺(やまべ)の うつつにも 夢にも人に あはぬなりけり
富士の山を見ると、五月のつごもり(現在の7月初めごろで夏の盛り)だというのに、雪が非常に白く降っていた。
時知らぬ 山は富士の嶺(ね) いつとてか 鹿(か)の子まだらに 雪の降るらむ
『伊勢物語』「東下り」
「時知らぬ」という言葉は富士の嶺にかかり、いったい今をいつだと思っているのかという「いつとてか」と対応する。そして、夏の盛りにもかかわらず降る季節外れの雪の情景は、作者の思いを伝えている。もし冬に雪が降れば、富士の高嶺は真っ白に覆われ、神々しい姿を見せるだろう。しかし、「時知らぬ」富士に降る雪は、鹿の子の背の斑模様のようにまだらである。
この情景は、都であれば何の不安もなく落ち着いていた気持ちと対照的に、都から遠く離れた駿河の国で、暗く細い道をたどりながら感じる漠然とした不安—「物心ぼそく、すずろなるめを見ることと思ふに」—を映し出す鏡になっている。
さらに、前に置かれた「駿河なる宇津の山辺」の和歌では、「宇津(うつ)」という地名が現実世界を意味する「現(うつつ)」との言葉遊びを成し、その後に続く「夢」と対比される。そして、富士山を背景としたこの地では、夢にも現にも愛するあなたに逢うことはないと詠み、都にいる愛する人が自分のことを思ってくれているのかどうかへの心配が暗示されている。
「時知らぬ富士の雪」は、そうした不安のすべてを受け止め、まだらに降り積もっていくのだ。
「時知らぬ」という表現は、平安時代中期の貴族・藤原良経(ふじわらのよしつね)の和歌にも見られる。
時知らぬ 山さへ時を 知りにけり 富士の煙を 霧にまがへて
(『秋篠月清集(あきしのげっせいしゅう )』1237)

この歌では、「時知らぬ」は直接富士にかかるのではなく、「山」にかかる言葉である。一方、富士のほうは「煙が霧とまじわる」ものとして描かれている。そして、かつて「時を知らぬ」とされた山が、その富士の煙と霧の交わる情景を通して、「時を知る」に至ったと詠まれている。
では、なぜ煙が霧に溶け込み、おぼろげになった様子が、「時を知る」こと、すなわち季節の移り変わりを悟ることに結びつくのだろうか。
その理由は、「霧」が秋の風物とされるからである。富士の煙が霧に紛れる情景は、秋の深まりを知らせる自然の兆しと捉えられる。もしそれが「霞」であれば春を思わせ、「雪」であれば冬を意味する。
このように、「時を知る」とは、季節の変化を感じ取ることである。
さらに言えば、「時を知る」ということは、季節の推移に応じて目に映る情景が移ろっていくことを暗に示し、その変化が、恋の哀しみや人生の儚さといった感情の象徴へとつながっていく。

『源氏物語』三十八「鈴虫」には、富士山の頂から立ち上る煙についての言及がある。
その箇所は、蓮の花盛りの夏の日、女三の宮の持つ仏像に魂を入れる法要が催される場面である。その儀礼の準備の中で、源氏は集まった女房たちに様々な心得を説いていく。
女房たちが香炉をいくつも用いて、煙が立つほど扇であおいでいたので、光源氏は近くに寄ってこうおっしゃった。
「空薫物(そらだきもの)は、どこから匂ってくるのか分からぬくらいがよいものだ。富士の峰からさらにひときわ立ちのぼる煙のように、もうもうと満ちているのは、感心しない。僧侶がお経を説くときは、静かにして、落ち着いて心を聞き分けられるようにし、衣の音も控え、人の気配も静かにするのが望ましい。」
かくして、いつものごとく、分別の浅い若い女房たちに、心構えを諭されたのであった。
(『源氏物語』「鈴虫」)

光源氏の言葉によれば、お香は空中に漂わせるように焚き、部屋全体に香りを広げるのがよい。もし「煙(けむ)たきまで扇(あほ)ぎ散らせば」、富士の煙のように「くゆり満ち出でたる」ものになってしまい、望ましい香の焚き方とはいえない。
このことは逆説的ではあるが、富士山の威厳や美しさも、過剰な現象(煙が立ちすぎること)によって損なわれると考えられていることを示している。つまり、富士の峰から立ちのぼる煙も、控えめで穏やかな状態のほうが好ましいという価値観が示され、宮廷文化の美意識が中庸や節度に重きを置いていたことを暗示する。「くゆり満ち出でたるは、本意なきわざ」とあるように、過剰は神聖さや美しさを損なうのである。
したがって、「富士の嶺よりもけに」と表現される、富士の頂からいっそう激しく立ち上る煙は、ここでは過剰さの象徴であり、その対比として中庸の美意識を陰画的に浮かび上がらせる働きをしているといえる。
こうした「富士の煙」に秘められた恋が託されると、『新古今集』に収められた清原深養父(きよはらの ふかやぶ)の歌のように、しみじみとした趣をもつ富士となり、「わぶ思ひ」が美の契機として現れてくる。
煙立つ 思ひならねど 人知れず わびては富士の ねをのみぞ泣く
『新古今集』 11-1009
私があなたに寄せる恋の炎は、高く立ち上る煙のように外へ向かって激しく燃え上がるものではなく、誰にも知られぬように秘められたもの。しかし、内心ではわびしさを抱え、富士の嶺(ね)から聞こえる声(ね)が絶えないように、いつもただ声をあげて泣いてばかりいる。
「煙立つ思ひならねど」という言葉は、この歌における煙が、光源氏の口にする「富士の峰よりもけに立ちのぼる煙」とは異なることを示している。むしろその反対に、煙が立ち上るのは「人知れずわびた」富士からであり、そこからは、秘めた恋の切なさのゆえに発せられる哀しみや嘆きの声が聞こえてくる。
この歌で富士に託されたのは、そうした抑えられた情念であり、「どこから匂ってくるのか分からぬくらいがよいものだ」という『源氏物語』の美学にふさわしいものだといえる。
(5)無常観

富士の煙に託されたおぼろげな思いや哀しみが、無常観へと移行していくこともある。ここではその変遷と思われる過程をたどってみよう。
鎌倉幕府を開いた源頼朝が、旅の途上で富士山を目にし、その折の感懐を詠んだと思われる和歌がある。
道すがら 富士の煙も 分かざりき 晴るる間もなき 空の景色に
(『新古今集和歌集』10-975)

「分かざりき」とあるように、富士の煙をはっきりと見分けることができなかった。それほど空は晴れることがなく、どんよりと曇っていたのである。
一見すればこのように自然の情景を静かに描写した歌のようだが、しかしその背後には、詠み手の心理的な投影が感じられる。
注目すべきは、「富士の煙」という視覚的な景物を、あえて目に見えないものとして詠んでいる点である。見えそうで見えないその情景は、頼朝自身の内面を映し出している。おぼろげで掴みがたい思いや感情は、自分でも明瞭に認識することができない。
心は常に雲や霧や霞のようなものに覆われ、晴れる間もなく、はっきりとした形を取らない。
見えるはずの煙が見えないというこの光景には、そうした頼朝の不安や迷いが投げかけられているように思われる。

頼朝のはっきりとは見えない富士の雲を受け継ぐかのようにして、頼朝の推挙によって天台宗の座主の地位に就いた慈円は、春の夜明けの空に溶け込む富士の雲を詠んでいる。この一節の歌は、頼朝の死を悼み、その霊魂が天に昇ることを祈る心を込めたものだともいわれている。
天の原 富士の煙の 春の色の 霞になびく あけぼのの空
(『新古今集和歌集』1 – 33)
「天の原」で始まり、「あけぼのの空」で終わるこの歌は、富士の煙が春霞のようにたなびきながら穏やかに漂う情景を写し出す。
しかし、それだけではなく、源頼朝の霊魂が春の光の中を静かに昇天していくようにという祈りに込めたものとも考えられる。
この歌に流れる感情は、「天」「春」「あけぼの」といった語が生み出す穏やかで明るい心の動きであり、「分かざりき」「晴るる間もなき」といった表現に見られる不安や曇りを打ち消す方向へと向かっている。
しかし、雲が霞と溶け合うことで実体的な存在感を失い、見えそうで見えないものへと近づいていくという点では、雲につきまとう儚さが残されていることも確かである。
だからこそ、天台宗の僧である慈円が自らの心境を富士の煙に託すとき、富士山の高さには志の高潔さが重ね合わされる。そして、まさにその高さゆえに、俗世界を厭い、そこから離れようとする思いもまた映し出されることになる。
世の中を 心高くも いとふかな 富士の煙を 身の思ひにて
(『新古今集和歌集』17-1614)
ここでいう「世の中」とは、煩悩にまみれた俗世間、すなわち私たちが生きる現実世界を指している。その「世の中」を嫌って離れ、苦しみのない「浄土」を願うことが、すなわち「解脱」であり、また「心高く」とはそうした高い志を意味している。
「身の思ひ」の「ひ」は、噴火の「火」を暗示し、「心高く」の高さは富士山そのもの、そしてそこから立ち上る煙の高さを思わせる。富士の煙のように、慈円の世を厭う思いもまた、強く高く立ち上っていく。
しかしその一方で、「心高くも」には、気位の高さ、すなわち身のほどをわきまえぬ不遜さを自覚する響きも潜んでいると考えられる。自らを富士山のように高い存在とみなすことへのためらい、その感情がこの一語ににじんでいる。
その結果、「解脱」を願う強い思いも、煙のように不確かで、すぐに消えてしまうかもしれないという儚さを帯びる。そこには、俗世を離れることへの不安や、それが本当に可能なのかという自嘲の情が滲んでいる。

興味深いことに、慈円はあるとき西行法師に「天台の真言」を伝授してほしいと願い出たという。その際、西行は「和歌の心得がなければ真言も得られない」と答えたと伝えられている。
この逸話を踏まえて西行の詠む富士の煙を思い起こすと、そこには「心高くも」といった気負いはなく、ただ漂泊の心のみが感じられてくる。
風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方もしらぬ わが思かな
(『新古今集和歌集』17-1615)

「風になびく」「空に消えて」「行方もしらぬ」、この三つの表現が示すのは、いずれも存在の不安定さ、儚さ、不確かさである。すべては無常に通じる。
そのような無常の中で、「富士の煙」と「わが思い」は流れ、やがて消え去っていく。
「わが思かな」の「かな」は詠嘆の助詞ではあるが、「わが思い」が空に消えていくことを悲しむ響きではない。むしろ、その消滅を静かに受け止める調べをもつ。つまり、この世の空しさを嘆くのではなく、その儚さを受け入れて見つめる心の境地を表している。
そして、その無常を美として甘受するところに、「無常の美」が生成するのである。
西行のこの和歌は、富士の煙に無常観を託した作の中でも、最も美しく、典型的な例であると確信をもって言うことができる。
日本人が富士山に託した思いは、山辺赤人の「神さびて」から西行の「風になびく(…)わが思い」に至るまで、多様である。神仙思想や恋の炎、不安定な恋、不死の放棄など、さまざまな象徴が重なり合う。「時知らぬ」富士が過剰さの印となることもあり、おぼろげな心を映し出すこともあった。
日本的な心性の大きな特色は、こうしたさまざまな様相を常に保ち続け、新たに作り出された象徴がそれまでの象徴を排除しないことである。富士の雪は雲の登場によって排除されず、燃える富士も無常の富士も共存している。次々に新しいものが現れても、古いものは蓄積され、残り続ける。

西行の死の直後に生まれた源実朝(みなもとのさねとも)が詠んだ富士の歌は、日本人の感受性のあり方を明確に示している。ちなみに、実朝は源頼朝の次男で、26歳のときに暗殺され、鎌倉幕府の源氏将軍は断絶した。
見渡せば 雲居(くもい)はるかに 雪白し 富士の高嶺の あけぼのの空
(『金槐和歌集』)

ここでいう「雲居」とは、単なる空の遠さだけでなく、「天上」「浄土」といった象徴的な意味も帯びていると考えられる。実朝は、慈円や西行とは異なり、山辺赤人を思わせる「雪」を再び取り上げ、あけぼのの空を背景にして、白く覆われた富士の高嶺を見渡す。
こうして、私たちの目の前には、夜明けの光を受けて浮かび上がる真っ白な富士の姿が現れる。そこには現世に対する拒絶も後悔もなく、浄化された世界への感嘆と憧れだけがある。
実朝の歌は一例にすぎないが、日本的な精神性では、富士の雪の後に煙が現れたとしても、決して雪が消えてしまうわけではない。日本では、人々はその時々の心のあり方に応じて、多様な思いを富士山に託してきたのである。
現代の私たちも、この伝統の中に生きており、富士の姿を見てさまざまな思いを抱くことがある。そう考えると、富士山にまつわる長い伝統を知ることは、私たちの心に豊かな滋養を与えてくれるに違いない。
