ジョン・レノンと荘子 Imagine Nowhere

古代中国の思想家・荘子を読んでいて、ふとジョン・レノンの「イマジン(Imagine)」の歌詞が頭に浮かんだ。
「天国も地獄もなく、頭の上には空があるだけ。そして、みんなが今日だけを生きる。そんな世界を想像してみよう。」という一番の歌詞はおおよそそんな内容だが、それは荘子が説く「万物が斉(ひと)しく、境目のない世界観」と響き合っている。

こうした類似、あるいは一致に気づくと、ビートルズが1965年に発表した「Nowhere Man」も思い出される。(「ひとりぼっちのあいつ」という日本語題が付けられているが、内容を的確に表していないため、ここではその題名は用いないことにする。)
「彼は本当にNowhere Man(どこにもない場所の男)だ。」という一節から始まり、否定形の表現が続いていく。しかしそれは単なる否定ではなく、一つの固定した視点がつくり出す区切りや差異を消し去ろうとする態度だとも解釈できる。ここにも荘子の「斉物(さいぶつ)論」と通じる精神が感じられる。

そんなことを意識しつつ、まず Imagine と Nowhere Man を聴いてみよう。

ジョン・レノンが『荘子』を読んでいたかどうかは分からない。しかし、鈴木大拙らによって紹介された禅の思想に興味を示し、『チベット死者の書』といったスピリチュアルな書物を読み、若いころからルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』を愛読していたという。そうした背景を考えると、物事を二分し、善悪・左右・前後・上下・美醜といった対立によって世界を理解しようとする西欧的思考とは異なる何かに、彼が惹かれていたと推測することはできる。

(1)Imagine

Imagine(想像してみよう)という呼びかけは、西欧的思考がつくり出した天国と地獄の絶対的な区分を前提として現実を認識しようとするのではなく、むしろそうした区分が存在しない世界を思い描くために、現実から離れた「どこにもない世界を想像しよう」と誘っているのである。

Imagine there’s no Heaven
It’s easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today…

想像してみよう、天国なんてないと。
簡単さ、やってみればわかる。
ぼくらの下には地獄もない。
上にあるのは、ただ空だけ。
想像してみよう、みんなが
今日という日のために生きているところを。。。

この一番の歌詞を荘子的に考えてみることにしよう。
頭の上に空は、天国(Heaven)と地獄(Hell )という区別のない世界。

それと同じように考えるとしたら、今日(today)はどうなるだろう。
それは、昨日(過去)とか明日(未来)とかいった区別のない時間であり、それはまさに自分たちが生きている「今」だといえる。
その「今」を捉えようとすると、もう「今」ではなく過去になってしまう。そうした区別を作らないためには、今日という日のために生きる(Living for today)しかない。

こんな風に、「空(そら)という空間」や「今日という時間」を何の区切りもせずに、ただ生きること。それは頭で考えると難しいかもしれないけれど、でも、意外と簡単(easy )かもしれない。もしやってみれば(if you try)。

荘子も、現実の世界では確かに区別があると認める。しかし、それは人間的な価値基準から見た区別であり、それを超えたところではすべてが一つであると見なす。

万物には、確かに“そうなる”ところがあり、確かに“そうできる”ところがある。“そうならない”ものはなく、“そうできない”ものもない。だから、細い茎と柱、厳しい顔と(美女の)西施、広がりや曖昧さ、奇妙なものを取り上げても、道(どう)によってすべてが通じ、一つとなる。(中略)真に物事の本質を理解する者だけが、万物の道理が一つに通じていることを知る。しかし、その知をむやみに用いることはせず、日常生活のささやかな行動の中に自然に落とし込み、活かしている。
(『荘子』「斉物論編」)

現実には、大小や美醜など、さまざまな価値判断がある。しかし、そうしたすべては、あるがままの自然の相から見れば「一」にすぎない。
そして、そのことを理解している人にとっては、すべてが一つで区別がないことは、日常生活に自然に溶け込む形で表れるのだという。
ジョン・レノンの言葉で言えば、それに気づくためには Imagine するだけで十分であり、試してみれば It’s easy.ということになる。

そして、Imagineの歌詞をたどっていくと、「世界は一つのもののようになるだろう」( the world will be as one)という言葉が出てくる。それはまさに荘子の「通為一(つういち)」、つまりあらゆる対立や区別を超えて一つの根本原理に帰着するという思想と対応する。

そのように考えると、歌詞の中で繰り返される、noやnotで示される否定は、そこで示されるものが無いこと、例えば、countries(国々)やreligion(宗教)が存在しないことを意味するのではないことがわかってくる。不在を繰り返すのは、そうした言葉で示される事象がもたらす区別を取り払い、all(すべて)やonly (唯一)であることが、殺すこと(kill)も誰かの為に死ぬ(die for)こともなく、greed(貪欲)やhunger(飢え)のないpeace(平和)を願う祈りとなるからに他ならない。


Imagine

Imagine there’s no Heaven
It’s easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today…

Imagine there’s no countries
It isn’t hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace
 
You may say I’m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will be as one
 
Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world
 
You may say I’m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will live as one

(2)Nowhere Man

ジョン・レノンはあるインタビューの中で、Nowhere Man について次のように語っている。

その朝、意味のある良い曲を書こうと5時間取り組みました。しかし諦めて横になったのです。すると Nowhere Man がふと浮かび、歌詞もメロディも、横になったままの状態で全て形になりました。

この言葉を日本的に解釈すれば、あらゆる努力を尽くした末に「無の状態」に到達したとき、突然インスピレーションが閃き、一気に書き上げられた、ということになる。

そして「無」と響き合うように、nowhere, nobody, not といった否定の語が繰り返される。ただし「Imagine」の場合と同様、それは存在そのものの否定ではなく、「ここ」と「あそこ」、「私」と「あなた」、「得る」と「失う」といった区分が「無い」ということを示している。

このような状態は、荘子の言葉でいえば「無何有の郷(むかゆうのさと)」にほかならない。『荘子』の英訳では the Village of Nowhere や Nowhere land と訳されることもある。したがって、a nowhere man は、荘子的に言えば「無何有(Nowhere)の郷に住む人」ということになる。

He’s a real nowhere man
Sitting in his nowhere land
Making all his nowhere plans for nobody

Doesn’t have a point of view
Knows not where he’s going to
Isn’t he a bit like you and me ?

彼は本当のどこにもない場所の男。
どこにもない土地に座り、
誰のためでもなく、どこにもない場所の計画を立てている。

考え方が定まっていない。
どこに行こうとしているのかもわからない。
ちょっと、君や僕に似ていないだろうか?

ジョン・レノンの a nowhere man は、文字通り「どこにもない郷の人」であり、nowhere land に座り、nowhere の計画を立てている。その計画は誰のためでもない(for nobody)。

もし一つの視点(a point of view)を持っていれば、どこに歩いて行くのかという方向性もはっきりするだろう。しかし視点がないため、彼がどこへ向かおうとしているのかも分からない。

普通に考えれば、こうした状態は目的を見失い、見渡す限りの土地で迷子になっているような、混乱した状態といえる。そんなとき、もしかすると、自分は意味のない、無用な存在だと感じるかもしれない。

しかし荘子は、そうした「無用」こそが人間を自由にするのだと説く。例えば「逍遙遊(しょうようゆう)」編の最後に置かれた挿話では、ある人が大きな木を持っているが使い物にならないのでどうしたらよいかと問いかける。ちなみに「逍遙」とは、気ままにぶらぶら歩き回ることを意味する。荘子の答えは次の通りで、ここに「無何有の郷」が登場する。

今、あなたは大きな木を持ちながら、その役に立たぬことを憂えている。しかし、なぜそれを「無何有の郷」、広く果てしない原野に植えようとしないのか。そのそばで、あてもなく歩き回り、無為に気ままに逍遙し、木の下に横たわって、寝たり休んだりしながら過ごせばよいではないか。そうすれば、斧で伐られることもなく、何ものにも害されることもない。用いどころがないということにもならぬ。いったい、何を悩む必要があろうか。
(『荘子』「逍遙遊編」)

「何かがある(『何有』)」場合、そのものはまず他と区別され、限られた役割や用途が求められる。つまり、目的や有用性が前提となる。
一方で、「無何有」とは、そうした制限や条件が一切ない状態を指す。何かのために存在しなければならないという縛りがなく、あらゆる限定から解放されている。
そのような世界では、人為的な区別や目的に縛られることなく、ただ無為に逍遙しているだけで、それ自体が自然であり、ありのままの状態となる。

ジョン・レノンが良い曲を作ろうとして疲れ果て、諦めて横になったとき、彼は「無何有」の状態になり、まさに a real nowhere man だったのかもしれない。だからこそ、「ゆっくりと時間を取って(Take your time)、急がなくていい(Don’t hurry)」と言う。それは、ある意味で「逍遙すること」でもある。

「無為」に、何もしないでぶらぶらしていると、有益なことが何もできないまま、時間だけが過ぎてしまうように感じる。だから、a nowhere man は、自分が何を失いつつあるのかも分からないままでいる(You don’t know what you’re missing)。
また、見たいものしか見ない(Just sees what he wants to see)のは、彼ができる限り(as he can be)見ない(blind)ようにしているからだ(He’s as blind as he can be)。

一般的な見方をすれば、それは視野が狭く、好ましくない状態とも言えるだろう。しかし、a nowhere man は、一つの視野や効率に縛られないために、失われるものがあるとしても、世界は思いのままで(The world is at your command)、いつか誰かが手を貸してくれる(somebody else lends you a hand)だろう。

なぜなら、彼は君や僕(you and me)と似ているかもしれないし、もしかすると少しは僕のことが見えているかもしれないからだ。だから、「Can you see me at all?」(僕のこと、少しでも見えているかい?)と彼に呼びかけてみることもある。
ここでは、I, you, he の境界さえ曖昧になり、ジョン・レノン自身も nowhere man であり、彼の曲に耳を傾ける私たちも nowhere man の一人になっているのかもしれない。
こう言ってもよければ、nobody でありながら everybody でもあるのだ。


Nowhere man

He’s a real nowhere man
Sitting in his nowhere land
Making all his nowhere plans for nobody

Doesn’t have a point of view
Knows not where he’s going to
Isn’t he a bit like you and me ?

Nowhere Man, please listen
You don’t know what you’re missing
Nowhere Man, the world is at your command

He’s as blind as he can be
Just sees what he wants to see
Nowhere Man can you see me at all ?

Nowhere Man, don’t worry
Take your time, don’t hurry
Leave it all till somebody else lends you a hand

Doesn’t have a point of view
Knows not where he’s going to
Isn’t he a bit like you and me?

Nowhere Man, please listen
You don’t know what you’re missing
Nowhere Man, the world is at your command

He’s a real Nowhere Man
Sitting in his nowhere land
Making all his nowhere plans for nobody
Making all his nowhere plans for nobody
Making all his nowhere plans for nobody


最初に指摘したように、ジョン・レノンが実際に『荘子』を読んでいたという明確な証拠はなく、荘子の思想に関してどの程度の知識があったのかもわからない。しかし、ImagineとNowhere manの歌詞をたどるだけでも、ジョンが荘子的な世界のあり方を夢見ていたことはわかってくる。それは、否定形が存在の否定を意味するのではなく、人間がいつの間にか作り出した様々な区切りや区別を消し去ることを意味する。

そうした区切りについて、荘子はこんな風に語っている。

すべてのものは、ある側面から見れば「あちら」であり、またある側面から見れば「こちら」である。あちらを基準にすれば自分は見えず、自己を知ればあちらを知ることができる。(中略)
「あちら」と「こちら」は互いに結びつき、どちらも一つの是非を含んでいる。あちらもこれも、それぞれ独自の正と非を持っている。では、本当にあちらは正しいのか? それとも正しくないのか?どちらも、完全に対応するものを持たず、その不完全さこそが「道枢(どうすう=道の中心)」である。
この枢は、万物の循環の中心に位置する。中心を得ることで、枢は無限の変化や事象に応じることができる。つまり、完全な一致や決定ではなく、差異や不完全性を含めた中心こそが道であり、すべてのものが自由に変化する基盤なのだ。
(『荘子』「斉物論編」)

「あちら」と「こちら」の区別は、「私」が位置する場所によって決まる。「私」が移動すれば、「あちら」が「こちら」になり、「こちら」が「あちら」になる。
たとえ「こちら」が正しいとしても、立場を変えれば「あちら」が正しくなることもある。
そう考えると、どちらも正しく、どちらも正しくない。そして、そうした違いや不完全さをすべて含んだ中心こそが「道枢(どうすう=道の中心)」である。

そこではすべてが相対的であり、「あちら」と「こちら」、それぞれに独自の是非がある。絶対的な正解は存在しない。また、完全に対応するものはなく、そのずれや差異こそが「道枢」であり、すべては無限に循環し、無限の変化の中にある。
そして、この「道枢」が原理となり、「無何有の郷」が形作られていると考えてもいいだろう。

ジョン・レノンは、そうした制約のない自由の国をthe world will be as one(世界は一つのもののようになるだろう)と感じ取り、私たち一人一人に I hope someday you’ll join us(いつか僕たちと一緒になってほしい)と呼びかけたのだった。Imagine (想像してみよう)と。

I’m a dreamer(ぼくは夢見る人間だ)と歌うジョン・レノンの”Imagine Nowhere”の夢が、古代中国の荘子の夢と共鳴し、私たちを「無何有の郷」に連れて行ってくれる。そんな夢を見るのも悪くない。

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