
SNS上では攻撃性が増し、発信者が、自分とは全く関係がなく、ネット上で流れてくるごくわずかな情報しか知らないにもかかわらず、そこから偽りの情報を作り出し、特定の人物に向かって激しい言葉を浴びせる状況が続いている。
例えば、妻を殺害された夫が、現場となったアパートを26年間借り続け、犯人逮捕につながった「名古屋主婦殺害事件」が報道された後、ネット空間では、この被害者遺族である夫が誹謗中傷され、新たな傷を負っているという。
名古屋市西区のアパートで1999年に住人の主婦、高羽奈美子さん=当時(32)=が刺殺された事件は、容疑者が逮捕されてから間もなく1カ月がたつ。この間、インターネット上では高羽さんの夫・悟さん(69)への「身内を売った商売」「闇がありそうな人物」といった誹謗(ひぼう)中傷が相次いでいる。虚偽内容の書き込みもあり、悟さんは愛知県警に被害届を出すことを検討している。
(中日新聞、2025年11月29日)
https://www.chunichi.co.jp/article/1171289
なぜ、このような攻撃性がこれほど頻繁に起きてしまうのだろうか。
中日新聞の記事では、ある社会心理学者の見解として、「被害者側には落ち度がないのに、『悪いことをしたから罰が当たった』と思い込むことで、自分は安心したいとの思いがある」とか、「同情を集める遺族と親切にされていない自分を比較し、引きずり降ろしたくなる心理が中傷につながっている」といった分析を紹介している。
では、なぜ全く関係のない人間が、何の根拠もないままに、見知らぬ対象へ「悪を暴く」かのような言葉を発信してしまうのだろうか。
そこには、発信する側の理由と、そうした発言を受信する側の問題があると考えられる。
攻撃の対象となるのは、多くの場合、メディアやネット空間で話題になった人物である。発信者が過剰に反応するのは、その話題性に依るところが大きい。そして、その人物に対して、ひがみや妬みを抱き、劣等感コンプレックスが刺激される。
その結果、「話題になっている事柄の中から悪の要素を作り出し、その悪を暴く正義の味方のように振る舞う」行動へと向かう。根拠はどれほど薄弱でも構わない。名古屋の事件では、被害者の夫に対して「女関係でだいぶ罪をつくっていそう」などという、根拠のない空想が書き込まれているという。
つまり、こうした攻撃性の根底には、劣等感コンプレックスと誤った正義感があると考えてよいだろう。
もう一方には、根拠もなく攻撃対象を深く傷つける言葉や動画に「いいね」を押し、それを拡散する受信者がいる。彼らが存在しなければ、悪意ある情報は反応されることなく消え、発信者のコンプレックスを満たす手段にもなり得ないため、悪質な書き込みや動画は自然に消滅していくはずである。
しかし現実には、攻撃性が強ければ強いほど、フォロワーや再生回数が増えていく。過激さが強い反応を引き起こすからである。受信者は、芸能人のスキャンダルに対する反応と同様に、話題の人物がその地位から引きずり下ろされることに快感を覚え、「悪を暴く」姿勢に自分を重ね、自らを正義の味方の一人であるかのように感じる。
この視点に立てば、受信者もまた発信者と同様の劣等感コンプレックスを抱え、それを解消するための一つの手段として、誤った正義感を満足させているのだと考えられる。
このように、発信者と受信者は同様の心理メカニズムに基づいて行動しているのだが、問題は、彼らが自分たちの「正義」だと信じて発言する中で、対象となる被害者を深く傷つけていることに気づかないか、あるいは「悪」とみなした相手を傷つけることをためらわない点にある。
その結果、過激さが増していけば、「殺す」といった言葉さえ平然と使われることがある。
劣等感コンプレックスを解消するための「正義感の満足」というプロセスにおいて、とりわけ現代的な側面と見なされるのは、攻撃対象が「見知らぬ他人」であるという点である。
「見知らぬ」とは、自分とは何の関係もない対象であり、その出来事についての事実関係に基づいた知識もないまま、たまたまメディアやネット空間で見聞きした断片的な情報から結論を導き出すことを意味する。その際には、俗悪な想像力だけが働き、論理的な思考が介在することはない。
現在の日本では「時短」という言葉が流通し、時間を節約して浮いた時間を自分の好きなことに使うという価値観が肯定されている。千字程度の文章も二十分ほどの動画も「長すぎる」とされ、より短く、分かりやすいものが求められる。結論に至るまでの論理を示す必要も、理解の前提となる基礎的知識も、事実の検証も求められず、ただ結論だけを簡潔に提示しなければ、読者数も再生回数も増えない。
こうした現状を踏まえると、「数」を増やすためには、事実に基づく論理的思考によってもたらされた情報ではなく、「好き・嫌い」の感情を動かし、一体感を生み出す情報の方が効果的であることが見えてくる。
まず「わかりやすさ」「親しみやすさ」を入り口とし(フット・イン・ザ・ドア効果)、間口の広い入口からできるだけ多くの人を招き入れ、その流れに「一緒に乗りたい」という気持ちを生み出す(バンドワゴン効果)。そこで働くのは感情的な「好き・嫌い」であり、情報の受信者は気づかぬうちに、感情に基づいて物事を判断するようになる(感情的ヒューリスティック)。
「推し」という言葉が、好きな対象のためであればどれだけの費用や時間をかけても満足する心理を生み出すのと正比例して、「時短」という言葉もまた、意識しないまま事実や論理を飛ばし、感情に従って判断するよう促す効果を持っている。
こうした構造を前提にすると、短く刺激の強い言葉や動画が受信者を強く動かし、同じ感情の流れへと導きやすい理由が理解できる。
テレビのワイドショーで「コメンテーター」と呼ばれる人々の発言にしても、根拠が問われることはほぼない。その意味では、ネット空間の匿名の発信と同質である。しかしコメンテーターには知名度があり、繰り返し画面に登場することで得られる親近感があるために、それほど過激な言葉を使わなくても、一定の共感を獲得することができる。
他方、匿名の発信者にとって重要なのは、再生回数やフォロワー数といった「数」を獲得することであり、そのためには過激で攻撃性の強いメッセージを発信する必要が生じる。彼らには知名度がないため、話題になった人物に対する劣等感コンプレックスがより強く働き、その対象を「悪」として描き、自らを「正義の味方」と位置づける。
その明快さが「感情的ヒューリスティック(共感に基づく判断)」を引き起こし、多くの賛同者を生む。彼らが「悪を見出した」と考える対象に対して鉄槌を加えれば加えるほど、同様の劣等感コンプレックスを抱える人々に訴える力は強くなる。その際、根拠は問われず、攻撃された相手がどれほど深く傷つくかについても顧みられない。
現代の病の病原は、まさにここにあるといえる。
見知らぬ他人を根拠もなく裁き、自らの正義感を満足させるために攻撃性を発揮するという現代の病に対して、何か処方箋はあるのだろうか。
まず考えられるのは、「攻撃の背後には傷ついている人がいる」という事実を意識化することである。しかし、問題の行動が“正義感”に基づいている以上、倫理観を問うだけでは効果を持たない。
とすれば、正義感そのものの出所を探る必要がある。
ここで、攻撃対象が「見知らぬ他人」である点に注目すると、問題は対象そのものではなく、正義感を抱く当人の内側にあることになる。
そして、これまで述べてきたように、無根拠のまま他者を罰しようとする態度の背景には、意識・無意識を問わず、何らかの劣等感コンプレックスが存在し、それを晴らす対象を常に探しているのだと考えられる。要するに、攻撃対象は誰でもよいのであり、だからこそ話題になった出来事に飛びつき、そこに攻撃を向けるのである。
この劣等感コンプレックスは、現代社会で拡大しつつある貧富の格差と無関係ではない可能性がある。
野村総合研究所(NRI)のデータによれば、2023年の推計で、純金融資産3,000万円以上の「アッパーマス層」から「超富裕層」に属する世帯は約1,145万世帯、これに対し、3,000万円未満の「マス層」は約4,424万世帯である。純金融資産合計では前者が約1,084兆円、後者が約711兆円となる。
このような富の偏りは、上場企業の給与体系にも反映され、賃上げといってもその恩恵を受けるのは主に大企業の社員であり、中小企業では大幅な収入増加は期待しにくいのが現状である。
(実は、このような統計自体が「自分はどの層に属するか」を測る指標となり、優劣を意識させることで、劣等感コンプレックスを生み出すことにもなるのだが…)
最近では、東京都内の新築マンションの平均価格が1億5,313万円に達したとの報道があった。一般の人々にとって到底手の届かない価格であるにもかかわらず、発売と同時に売り切れるというニュースが流れると、1億円を超える資産を持つ層にさえ、社会的不公平感が生じる可能性がある。つまり、購入できる人が存在するにもかかわらず、その層に入ることができないことで「自分は恵まれていない」と感じる人々の数は、構造的に増加していくことになる。
もちろん、問題は資産だけに限られない。無根拠な正義感に基づく攻撃性の背景には、個人の心理的要因や情報環境の影響も複合的に関わっている。しかし、富のバランスが崩れることは、一部の人間に「自分は不遇な立場にある」という感覚を抱かせ、劣等感コンプレックスを強める一因であることは間違いない。
その視点からは、資本主義社会における富の配分を再考することが、「無根拠な正義が人を傷つける」という現代病を軽減する、一つの有効な処方箋となるのではないかと考えられる。