釜山にて 古代の東アジア交流圏 1/4 海中にある倭人

たまたま釜山に行く機会があり、市場や海に面した海東龍宮寺(ヘドンヨングンサ)を訪れながら、日本と韓国がまだ国家として成立していない時代のことが、ふと頭に浮かんだ。というのも、釜山は対馬から約50km、博多との距離も約200km程度で、距離的に本当に近く、弥生時代から文化的にも「お隣さん」の関係だったからだ。

紀元前10世紀頃に北部九州に稲作が伝わり、狩猟採集中心の縄文文化から食料生産中心の弥生文化へと転換するきっかけになったが、そのルートの一つは朝鮮半島南部を通過するものだった。
また、6世紀半ばに仏教が伝来したのも、百済の聖明王が欽明天皇に仏像や経典を献上したことが始まりとされている。

このように、稲作や仏教という日本文化の根底を成すものが、朝鮮半島南部から北部九州へというルートを通ってもたらされたこともあり、「日本列島と朝鮮半島は一衣帯水(いちいたいすい)」と表現されることがある。ひとすじの帯のように幅の狭い川や海を隔てて隣り合い、密接な関係にあるという意味だが、ある時期まで、この地域は一つの文化圏を形成していたといっても間違いではない。

さらに、東アジア全体を視野に収めると、これらの地域は、中国(漢・唐など)という巨大な帝国の周辺に位置していた。朝鮮半島は地理的に隣接しているため直接的な影響を強く受ける周辺地域であり、海を越えた日本列島は、その影響がやや弱まる亜周辺にあったと言ってもよいだろう。

領有権争いといった近代国家の狭い視野を離れ、より広い視点から、この地域の歴史を振り返ってみよう。


古代の歴史をたどる際、まず確認しておきたいのは、現存する日本最古級の文献が、8世紀前半に編集された『古事記』(712年)および『日本書紀』(720年)であるという点である。したがって、8世紀以前の日本史については同時代資料がほとんど存在せず、主として中国や朝鮮半島の歴史書に依拠せざるを得ない。

(1)楽浪郡(らくろうぐん)の海の向こうにいる倭人
  ――『漢書』地理志(紀元前1世紀)

(2)倭の奴国王の印綬
  ――『後漢書』「東夷伝」(5世紀成立、記事自体は1世紀)

(3)邪馬台国・卑弥呼の朝貢
  ――『魏志倭人伝』(3世紀末)

(4)倭国の朝鮮半島への関与
  ――石上神社所蔵「七支刀」銘文(369年と考えられている)、
    高句麗「好太王碑(広開土王碑)」(414年建立)

(5)いわゆる「倭の五王」の朝貢
  ――『宋書』「夷蛮伝」所収「倭国条」(6世紀初頭)

こうした史料をたどると、倭国は中国王朝を頂点とする「東アジア交流圏」の中に、次第に、そして積極的に組み込まれていったことがうかがえる。
その際、最も重要な接点となったのが朝鮮半島であった。なかでも、現在の釜山が位置する地域は、日本列島の北部九州と結びつく、半島側の重要な窓口として機能していたと考えられる。

(1)海の向こうに住む倭人(わじん)

紀元前1世紀に成立した『漢書』地理志には、倭人についての簡潔な記述が含まれており、これは中国正史における倭人に関する最初期の記録と考えられている。

楽浪海中有倭人 分為百余国 以歳時通献見

楽浪郡(らくろうぐん)の海の向こうに倭人がいて、百あまりの国に分かれ、年ごと、季節ごとに往来して贈物を献じ、朝廷に拝謁していた。

楽浪郡(らくろうぐん)は、紀元前108年に前漢の武帝(在位:前141〜前87年)が朝鮮半島に設置した四郡の一つで、現在の平壌(ピョンヤン)付近に位置していたと考えられている。

『漢書』によれば、その楽浪郡から海を隔てた先に「倭人(わじん)」が居住していたとされる。なお、ここでいう「海中」とは海の中を意味するのではなく、海を越えた向こう側を指す表現である。

そして、倭人たちは百余りの小国に分かれて暮らし、定期的に使節を派遣して贈物を献じ、前漢の皇帝に「見(まみ)えて」いた。

この記述から、倭人とは「朝鮮半島の海を越えた地域に居住し、複数の集団を形成していた人々」と見なされていたことがわかる。また、彼らが年中行事のように、贈物を携えて漢王朝の皇帝のもとを訪れていたことも読み取れる。

そうした慣習は、倭国が後の時代にみられる「冊封体制」、すなわち皇帝が周辺諸国の君主に爵位を授けることで主従関係を結ぶ政治制度に組み込まれていたことを意味するものではない。むしろ、中国大陸の巨大な帝国との間で、一定期間にわたり外交的接触を維持していたことを示すものと考えられる。

さらに言えば、漢王朝が楽浪郡など朝鮮半島北西部を直接統治する一方で、海を越えた倭からの使節も受け入れていたことから、当時すでに広域的な「東アジア交流圏」が形成されつつあったことがうかがえる。

(2)冊封関係を模索する倭の奴国の王

5世紀に編纂された『後漢書』(ごかんじょ)『後漢書』「東夷列伝」には、1〜2世紀頃の倭国の状況についての記述が残されている。

建武中元二年。倭奴國奉貢朝賀。使人自稱大夫。倭國之極南界也。光武賜以印綬。
安帝永初元年。倭國王帥升等獻生口百六十人。願請見。

建武中元二年(西暦57年)、倭の諸国の一つである「奴国」が、贈り物を携えて中国の都を訪れ、皇帝に朝賀した。使者は自らを「大夫」と称し、奴国は倭国の中でも最も南に位置する国であると述べた。これに対し、皇帝である光武帝は、奴国に印綬を与えたとされている。
その後、安帝の永初元年(西暦107年)には、倭国王の帥升(すいしょう)らが、生口(捕虜)百六十人を献上し、皇帝に直接拝謁することを願い出た。

印綬(いんじゅ)とは、「印章」と、それを下げるための「綬(ひも)」から成り、その材質や色の組み合わせによって、臣下の身分や地位が一目で判別できるようになっていた。

『後漢書』には、光武帝(在位:25〜57年)が奴国(なこく)にどのような印綬を与えたのかまでは記されていないが、博多湾に浮かぶ志賀島で発見された「金印」がそれに該当すると考えるならば、奴国がどのような地位に位置づけられていたのかを推測することができる。

その金印は、文字どおり金で作られた印章であり、綬の色は紫であったとされる。この組み合わせは、将軍や高位の官人、あるいはそれに準ずる功績を立てた者に与えられる、高い身分を示すものであった。

金印に刻まれた「漢/委奴/國王」という文字の解釈については定説がないが、「漢が認めた委奴国の王」と理解することは可能であり、漢が構想した東アジア秩序の中で、倭がその「外縁」に位置づけられていたことが推測される。ただし、この段階で、倭がすでに漢の冊封秩序の内部に明確に組み込まれていたとまでは言えない。

こうした外交関係の性格は、107年、捕虜となった人々(いわゆる「生口」)を後漢の安帝(在位:106〜125年)に献上した倭国王・帥升(すいしょう)に関する記述に見える「願請見」という表現からも読み取ることができる。
これは「拝謁を願い出た」という意味であり、当時の倭国王が、皇帝に自由に拝謁できる立場にはなかったことを示している。すなわち、価値の高い献上物(生口)を差し出しつつ拝謁の機会を求めているのであり、この願い出は、なお冊封秩序の周縁にあった勢力が、皇帝とのより正式な関係を求めて一歩を踏み出した、いわば過渡的段階を示すものと理解できる。


「委」が博多湾岸、志賀島付近に位置していたと仮定するならば、『後漢書』に記された「奴国は倭国の中でも南にある」という表現は、朝鮮半島を起点とする視点から、対馬・壱岐を経て北部九州に至る航路の中で、把握可能な範囲における最南部に位置していたことを意味すると考えられる。

このことは、漢帝国の世界観において、倭が常に朝鮮半島との関係において認識されていたことを示している。すなわち、朝鮮半島諸国が帝国に隣接する「周辺国」であったのに対し、倭はそのさらに外側に位置する、いわば「亜周辺的存在」として捉えられていた。
言い換えれば、倭を認識する枠組みそのものが、常に朝鮮半島を前提としていたことになる。

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