(3)邪馬台国 卑弥呼の朝貢

3世紀末に成立した『三国志』の「魏書東夷伝(とういでん)」に含まれる「倭人条」は、一般に『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』と呼ばれ、3世紀頃の倭諸国、とりわけ邪馬台国(やまたいこく)について記した史料である。
そこでは、邪馬台国の女王とされる卑弥呼が魏(ぎ)に使者を送り、「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号と印綬を授けられたことが記されている。
ここで中国の歴史を振り返っておきたい。前202年に西漢(前漢)が成立し、紀元25年には東漢(後漢)へと移行しつつ、400年以上続いた漢帝国は、紀元220年に滅亡した。
これにより、中国は魏・蜀・呉が覇権を競う「三国時代」へと入っていく。

卑弥呼が使者を送った相手は、豊かな黄河流域(華北)を押さえ、三国の中で最も強大な国家であった魏である。
地図を見れば分かるように、倭国から魏へ向かうためには、朝鮮半島を経由するのが最も現実的なルートだった。そのため、中国大陸側から倭国の所在を示す際には、海を隔てた先の地域として把握され、必ず朝鮮半島との関係において位置づけられている。
実際、『魏志倭人伝』においても、倭人は海を越えた地域に居住していると記されている。さらに、漢代にも朝廷に朝見する国が存在したことや、当時の倭が百余国から成っていたことにも言及されている。
倭人在帶方東南大海之中 依山㠀爲國邑 舊百餘國 漢時有朝見者 今使譯所通三十國
倭人は、帯方郡(たいほうぐん)の東南に広がる大海の中に住み、山や島々に寄り添うようにして国や集落を形づくっている。かつては百余りの国が存在したが、前漢の時代には、その中に朝廷に出向いて朝見した国もあった。現在、通訳を介して魏と交流している国は三十国である。
倭人の居住地域については、『漢書』地理志では「楽浪海中」と記されていたが、『魏志倭人伝』では「帯方東南大海之中」と表現されている。
帯方郡(たいほうぐん)は楽浪郡(らくろうぐん)の南に隣接する地域であり、そこから東南に広がる「大海の中」とは、海を隔てた彼方を意味すると考えられる。
この点において、両史書はいずれも、倭人の国を朝鮮半島南部そのものではなく、海の向こうに位置づけていると解釈できる。
そして、かつて百余りあったとされる国々は、3世紀頃には三十余りの政治集団へと統合されていたことがうかがえる。
この記述に続いて、『魏志倭人伝』では、朝鮮半島南部を通り、狗邪韓国(くやかんこく)と対馬(つしま)を経由して、邪馬台国に至る経路が示される。
しかし、このあたりの地理的記述は必ずしも正確ではなく、そのことが、邪馬台国の所在地が現在に至るまで確定できない大きな要因となっている。

從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。 始度一海千餘里、至對馬國、(中略)
南至邪馬壹國。女王之所都、水行十日、陸行一月。
帯方郡から倭へ向かうには、海岸沿いを船で進み、韓国(朝鮮半島南部)を経由しながら、南へ行ったり東へ行ったりして進み、倭の北岸にあたる狗邪韓国(くや かんこく)に至る。その距離は七千里余りだった。そこからまず、千里余りの海を渡って対馬国に至る。(中略)
さらに南へ進むと、邪馬台国に至る。ここが女王の都の置かれている国だ。狗邪韓国から邪馬台国までは、水路で行けば十日、陸路で行けば一か月を要した。

狗邪韓国(くやかんこく)の位置については、一般に朝鮮半島南端部にあったと考えられている。
また、『三国志』「魏志東夷伝・倭人条」の直前に置かれている「韓伝」でも、半島南部から南東部に広がる「弁韓(=弁辰)」に属する国として、「弁辰狗邪国(べんしん・くやこく)」が挙げられている。
つまり、「倭人条」と「韓伝」の記述は一致しており、「狗邪韓国」と「弁辰狗邪国」は同一の国と考えられている。
このように、「倭人条」と「韓伝」の双方で同一の地名が言及される例は多くなく、狗邪韓国が当時の対外交通において重要な位置を占めていたことを示唆していると考えてよいだろう。
狗邪韓国は対馬海峡に最も近く、倭へ渡航するための港を擁していたと考えられる。240年に魏が倭へ使節団を派遣した際にも、狗邪韓国を起点として、対馬・壱岐などを経由し、倭に渡った可能性が高い。さらにこの地は、朝鮮半島内外のさまざまな勢力が行き交う、交通と交流の要衝でもあっただろう。
このように、狗邪韓国は国際的な港湾国家としての性格を備えていたと考えられ、現在の地理に当てはめれば、釜山(ぶさん)や金海(きめ)を含む地域に比定される。
(釜山が、邪馬台国の時代から朝鮮半島と日本列島を結ぶ要衝だったと考えると、その地を実際に訪れた経験が、いっそう感慨深いものに感じられる。)
「倭人条」の記述で問題となるのは、狗邪韓国から邪馬台国へ向かう経路として、「水路で行けば十日、陸路で行けば一か月」とされ、水路と陸路の両方が示されている点である。邪馬台国が九州にあったと考える場合でも、あるいは畿内にあったとする場合でも、朝鮮半島から倭の内部へ陸路で進むという想定は現実的ではない。
このような不正確さは、魏にとって、倭人の国の地理を厳密に把握することが主目的ではなかったことを示している。重要だったのは、海を越えたはるか遠方の国から使者が来朝し、朝貢するという事実そのものが、魏王朝の権威を高める点にあった。
つまり、ここで強調されているのは距離や経路の正確さではなく、倭の王が「遥か彼方」からやって来る存在であるという点だった。

その朝貢については、景初二年(238年)六月の出来事として、詳しく記されている。
当時の倭国は、多数の小国(土塁などで区画された政治的共同体)が集まって成り立つ社会だったと考えられている。卑弥呼が登場する以前には、長い間、男の王が立てられていたが、その後、小国どうしの争いが長年にわたって続き、社会は不安定な状態に陥った。
こうした状況の中で、人々は、鬼神をまつる宗教的権威を背景に人心を統合する存在として、卑弥呼を女王に立てたと記されている。このため卑弥呼は、自らの国である邪馬台国の王であると同時に、諸国が共同で認めた「倭女王」として位置づけられる。
景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏將送詣京都
其年十二月 詔書報倭女王 曰
制詔親魏倭王卑彌呼
帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米 次使都市牛利 奉汝所獻男生口四人 女生口六人 斑布二匹二𠀋 以到
汝所在踰遠 乃遣使貢獻 是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝爲親魏倭王 假金印紫綬 裝封付帶方太守假授 汝其綏撫種人 勉爲孝順
景初二年(238年)六月、倭の女王は、大夫の難升米(なしめ)らを郡に派遣し、皇帝に朝見して朝貢することを願い出た。そこで、帯方郡(たいほうぐん)の太守であった劉夏(りゅうか)は、役人を付け、彼らを都まで護送させた。
同年十二月、倭の女王に対して詔書が下され、次のように述べられている。
「詔する。親魏倭王(しんぎ・わおう)卑弥呼に告ぐ。
帯方太守の劉夏(りゅうか)は使者を派遣し、そなたの大夫・難升米(なしめ)と、次の使者である都市牛利(とし ぎゅうり)を伴って来朝させた。そなたが献上した男の生口((せいこう)四人、女の生口六人、文様の施された織物二匹二丈を、確かに受け取った。
そなたの所在はきわめて遠方であるにもかかわらず、使者を遣わして貢物を献じた。これは、そなたの忠誠と恭順の表れであり、朕はこれを深く評価する。よって今、そなたを『親魏倭王』と任じる。金印と紫綬を与えることとし、封印のうえ帯方太守に預け、仮に授与させる。そなたは、その地の人々をよく治め、努めて忠誠を尽くすように。」

この一節は、倭の王が魏の皇帝・明帝(在位:226〜239年)との間で、広義の「冊封関係」に入ったことを示す重要な史料である。
女王・卑弥呼は、使者を派遣し、男女の生口(せいこう)や高価な布を献上している。
生口とは、捕虜や被征服民など、国家や支配者に隷属する人々を指す語であり、卑弥呼がそうした人間を差し出すことは、人的資源としての価値を示すと同時に、人を支配する政治的能力の表れだった。
また、織物は、反物を織り染める高度な技術を有していることによって、富を象徴する。
したがって、生口や織物を贈る行為は、邪馬台国が人を支配し、衣を生産することのできる、秩序ある政治体制を備えた国であることを裏づけるものだった。
これに対して、魏の皇帝は、倭の王に対し、紫綬を付した金印とともに、「親魏倭王」という称号を与えている。金印は王としての正式な承認を表し、紫綬は高位にあることの証とされた。
この儀礼的な交換によって、魏にとっては、邪馬台国が魏に帰順し、その秩序の一部に組み込まれたことを内外に示すことができた。
一方、卑弥呼にとっては、邪馬台国内において「中国皇帝に認められた王」という権威を誇示することが可能となり、さらに、倭の諸国のみならず、朝鮮半島の諸国に対しても、統治の正当性を示し、交易・外交ルートを確保することにつながった可能性が高い。そのことは、倭を統合・支配するための強力な象徴となった。
このように考えると、「親魏倭王」の称号と「金印紫綬」は、倭国が初めて、古代東アジアの国際秩序の中に正式に組み込まれたことを示すものだといえる。
この点から見ると、卑弥呼と魏との関係は、倭国と中国王朝との間にとどまらず、朝鮮半島の諸国との関係にも大きな影響を及ぼしたと考えられる。
すでに朝鮮半島南部の諸国は、楽浪郡・帯方郡を通じて中国王朝の影響下に置かれており、一定程度、冊封秩序の枠組みに組み込まれていた。そうした中で、倭の王が魏から「親魏倭王」の称号と金印紫綬を授けられたことは、倭国が半島諸国と同列、あるいはそれに準じる外交的地位を与えられたことを意味した。
とりわけ、対馬海峡を挟んで往来の要衝に位置する狗邪韓国などの港湾国家にとって、魏に承認された倭王の存在は無視できないものだったと考えられる。倭国は、単なる海の彼方の未開の地ではなく、中国王朝の権威によって位置づけられた政治体として認識されるようになり、朝鮮半島の諸国との交易や外交においても、一定の正統性と発言力を持つようになった可能性が高い。
このように、「親魏倭王」の称号と金印紫綬は、倭国を中国と直接結びつけるだけでなく、朝鮮半島を含む東アジア交流圏の中において、その位置づけを相対的に高める役割を果たしたと理解することができる。