釜山にて 古代の東アジア交流圏 4/4  倭の五王 勢力拡大と自立の兆し

(5)冊封体制における倭の五王

冊封体制(さくほうたいせい)とは、古代の東アジアにおいて、中国の王朝が周辺の諸民族や諸国と取り結んだ国際秩序を指す。

本来は、皇帝が国内の王や諸侯に対して称号(爵位)を与えて認定する「冊封」を通じ、君臣関係を結ぶ制度であったが、その形式が周辺の夷狄(異民族)にも適用され、朝鮮半島の諸国や倭国もその枠組みに組み込まれていった。
周辺諸国の王たちは、朝貢(ちょうこう)を行うことで、中国皇帝に従属する形を取りながら、「天子」の支配に服する姿勢を示した。
その見返りとして、中国から王号や印章、冊書(認定文書)、豊富な贈答品を与えられ、経済的利益を得るとともに、自国内における政治的・象徴的な権威を高めることができた。

3世紀に魏へ朝貢した邪馬台国の女王・卑弥呼が、魏から「親魏倭王」の称号を与えられたことは、その代表的な例である。
また5世紀になると、倭国の五人の王が宋に朝貢したことが、6世紀初頭に成立した中国の歴史書『宋書』の「夷蛮伝」に収められた「倭国条」に記されている。

『宋書』は、あくまで宋王朝の正史であり、すべての歴史的出来事を客観的かつ網羅的に記録することを目的とした史書ではない。倭に関する記述についても、宋王朝の視点を通して描かれた外交史の一部として理解する必要がある。

それでもなお、これらの記述に描かれた倭の五王の姿をたどることで、5世紀の倭国が次第に勢力圏を拡大し、冊封体制に組み込まれつつも、徐々に自立へと向かう萌芽を見て取ることができる。すなわち、倭国は宋王朝の冊封秩序の中で、しだいに「問題を孕む存在」として認識されるようになっていったのである。

そしてその姿勢は、一世紀以上の時を経て、7世紀初頭に聖徳太子が隋の煬帝(ようだい)に送ったとされる国書の一節――「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや」――に象徴される精神へとつながっていく。

A. 倭国の朝鮮半島南部への勢力拡大

414年に建立された高句麗の「好太王碑(広開土王碑)」には、4世紀に倭国が朝鮮半島南部へ勢力を拡大し、百済や新羅、加羅などを勢力下に置くことがあった様子が刻まれており、倭国は高句麗にとって最大の敵国の一つとして描かれている。

そうした状況は5世紀になっても続き、倭国が高句麗と対抗しうる一大勢力であったことが、『宋書』の記述からも確認できる。

倭國,在高驪東南大海中,丗修貢職(句読点は筆者による)

倭国は高句麗の東南に位置し、大海の彼方にあって、代々中国王朝に朝貢してきた。

ここで注目されるのは、倭国の位置が、朝鮮半島南部の諸国との関係ではなく、半島北部を支配した高句麗との関係において記されている点である。
これは、倭国が百済や新羅よりも、むしろ強国・高句麗に比肩しうる存在として、宋王朝から認識されていたことを暗示している。

その一方で、朝鮮半島を越えた彼方にある倭国からの朝貢を歴史書に記録することは、遠隔の国々をも冊封体制に組み込んでいることを示し、宋王朝の権威を誇示する意味も持っていた。
そこで、この一文には二つの要素が付け加えられている。

一つは「大海中」である。
大海の中、すなわち海を隔てた場所にあるという表現は、『漢書』地理志や『魏志倭人伝』の記述とも共通しており、はるか彼方から来朝する国であることを強調している。

もう一つは「丗修」、すなわち「代々朝貢を続けてきた」という点である。
倭国が宋王朝の冊封秩序に継続的に参加してきたことは、その正当性と権威を示すうえで重要であった。421年から478年にかけて朝貢した五人の王、すなわち讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)が記録されているのも、こうした継続性を強調する意図によるものと考えられる。

『宋書』における、宋王朝自身の正当性を示そうとする意図は、最初の朝貢である421年の倭王・讃に関して、「万里の彼方から誠意をもって朝貢した」「その遠方からの真心は評価されるべきである」といった表現が用いられている点からも確認できる。
しかし、こうした記述からは、『宋書』の編者が意図した以上の情報を読み取ることも可能である。

ここでは、425年に倭王・讃が再び朝貢し、その死後、弟の珍が兄に代わって即位した際の記述を見てみよう。

太祖元嘉二年,讃又遣司馬曹達奉表獻方物。讃死,弟珍立。遣使貢獻,自稱使持節、都督倭・百濟・新羅・任那・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正,詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正。(句読点は筆者による)

宋の文帝(太祖)の元嘉二年(425年)、倭王の讃は、司馬(しば。軍事と行政の実務を担う中核官僚)の曹達を再び派遣し、上表文を奉って土地の産物を献上した。
その後、讃が死去すると、弟の珍が王位を継ぎ、あらためて使者を派遣して朝貢した。珍は自らを「使持節・都督、倭(わ)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)・任那(みまな)・秦韓(しんかん)・慕韓(ぼかん)の六国諸軍事、安東大将軍、倭国王」と称し、その正式な任命を求めた。さらに、正規の制度や序列から外れた特別な扱いを求めて上表した。
これに対して宋の皇帝は、詔によって「安東将軍・倭国王」の号を授けた。しかし珍は、それでもなお、正規の序列を超えた扱いを求め続けた。

珍(ちん)が宋の文帝に要求した官職には、「百済・新羅・任那・秦韓・慕韓」という、朝鮮半島南部に存在した諸国の名が含まれている点が注目される。

「使持節」とは、皇帝の節(割符)を携え、その権威を代行して行動する権限を与えられた者を指す。
また「都督○○諸軍事」とは、○○に列挙された地域に対する軍事を統轄する立場にあることを意味する。
したがって珍は、倭国のみならず、百済・新羅・任那・秦韓・慕韓を含む六国を統率する「安東大将軍」、すなわち東方を安定させる将軍としての地位を、宋の皇帝に認めるよう求めたのだった。

倭国が高句麗と対抗しうる勢力として認識されていた可能性についてはすでに見てきたが、425年の朝貢に関する記述は、冊封体制の枠内において、倭国が朝鮮半島南部に対する軍事的な権限を主張するところまで、自国の力を誇示する段階に至っていたことを示している。

ただし、この時点で、その要求が受け入れられることはなかった。
宋の皇帝は、「安東大将軍」という称号を認めず、「大」の字を削除して「安東将軍」とした。また、百済・新羅・任那・秦韓・慕韓といった六国の名を含む統轄権的な表現も退け、称号は「倭国王」にとどめられた。この対応は、当時の倭が置かれていた二つの状況を示している。

第一に、宋王朝が、倭王に官僚的・軍事的序列を示す名目的な官職を授けることで、倭国を冊封体制の枠内に組み込むこと自体は容認していたという点である。
その一方で、倭国の位置づけが、朝鮮半島諸国よりも高いものではなかったことも、同時に示されている。実際、百済や新羅に与えられた官号は倭国と同じく「将軍」級にとどまり、高句麗にのみ、それより上位の「大将軍」の官号が授与されていた。したがって倭国は、百済・新羅と同格に位置づけられ、高句麗より一段低い序列の国として扱われていたと理解することができる。

宋王朝の冊封体制の中における、倭と朝鮮半島諸国との勢力関係は、概ねこのようなものであったと考えるのが、事実に即した理解だろう。

ところが、倭国の王は、このような位置づけにとどまることを望まなかった。ここに、倭国の対外姿勢の一つの特徴を見ることができる。
朝鮮半島が中国王朝の「周辺」に位置づけられるとすれば、日本列島はそのさらに外側にある、いわば「亜周辺」の位置にあった。そのためもあってか、倭王・珍は、自らに与えられた序列に納得せず、425年の記事の末尾に見られるように、「正規の序列を外すよう」求め続けたのである。

冊封秩序に参加しながらも、その原理から逸脱する例外的な扱いを要求した珍の姿勢は、宋王朝の側から見ればきわめて異例であった。そのため、この行動があえて記録されたのだと考えられる。
こうして倭国王は、夷蛮(中国王朝を中心とする世界秩序の周縁に位置づけられた諸族)として冊封秩序に位置づけられながらも、その枠組みに容易には収まらない、異質な存在として認識されていくことになったのである。

B. 倭王・武(ぶ)の冊封体制を揺るがしかねない要求 

五王の最後の王である武(ぶ)については、『宋書』「夷蛮伝・倭国条」の中でも、特に手厚い扱いがなされている。

順帝の昇明二年(478年)、武は使者を派遣して上表文を奉った。この朝貢に際しては、単に「将軍」ではなく「大将軍」の官名が与えられただけでなく、提出された上表文の全文が、そのまま史書に引用されているのである。

この上表文は、遠隔地の強調 → 先祖の忠勤と武功の誇張 → 外敵による秩序攪乱の訴え → 私情(父の死)の政治化 → 再起の決意(義戦) → 僭越な行為の自己正当化 → 最終的な皇帝への帰結、という流れで展開しており、弁論術的な観点から見ても、非常に高い整合性を備えている。
以下では、歴代の朝貢の事実確認と領域拡大の主張、高句麗との戦いの経緯、そして冊封体制の序列を逸脱する階位の要求という三つの部分に分け、順に読み解いていきたい。

封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰躬擐甲冑,跋渉山川,不遑寧處,東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歳。(句読点は筆者による)

わが国は辺境に位置し、中国王朝の外縁にあって藩属をなしてきました。祖先たちは自ら甲冑をまとい、山川を踏破して戦い、安らかに暮らす暇もありませんでした。東方では毛人と称される諸国五十五国を征し、西方では衆多の夷国六十六国を服属させ、さらに海を渡って北方においても九十五国に及びました。王道は広く行き渡り、版図は遠方にまで広がり、代々朝貢を怠ることはありませんでした。

まず、倭王・武は、自らが遠隔の地にありながら、古くから中国王朝に仕えてきたことを強調しつつ、自身の勢力圏が東は五十五カ国、西は六十六カ国、北は九十五カ国に及ぶと主張している。

これは、具体的な地理的実態を正確に示したものではなく、とりわけ海を越えた北方地域の国数を最大限に誇張することによって、高句麗に対抗しうる勢力であることを誇示しようとしたものと考えられる。言い換えれば、宋王朝に対し、高句麗に匹敵する政治的序列へと引き上げるよう求めるためのアピールにほかならない。

臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道遥,百濟装治船舫,而句驪無道,圖欲見呑,掠抄邊隷,虔劉不已,毎致稽滯,以失良風。
雖曰進路或通或不,臣亡考濟,實忿寇讎,壅塞天路,控弦百萬,義聲感激,方欲大舉,奄喪父兄,使垂成之功,不獲一簣。
居在諒闇,不動兵甲,是以偃息,未捷至今,欲練甲治兵,申父兄之志,義士虎賁,文武效功,白刃交前,亦所不顧。(句読点は筆者による)

私自身は不肖ではありますが、先祖の事業を受け継ぎ、配下を率いて、はるか遠い道を越えて天子に帰順しております。しかし、百済が航路を整えているのに対し、高句麗は無道にも侵略を企て、辺境を荒らし、略奪を繰り返してやみません。そのため朝貢の道はたびたび塞がれ、正しい外交の流れが失われてきました。
進路というものは通じる時も通じない時もあるとは申しますが、亡き父・済は、敵が朝貢の道を塞ぐことを深く憤り、弓を引く者百万人とも称される軍勢を擁し、義憤に駆られて大挙出兵しようとしました。しかし志半ばで父や兄を相次いで失い、完成しかけていた事業も、あと一歩のところで成し遂げられませんでした。
私は喪に服していたため兵を動かさず、その後も休兵を余儀なくされ、今日に至るまで戦果を挙げられずにいます。しかし今こそ兵を整え、父や兄の志を継ぎたいと考えています。義に殉ずる精鋭や勇士が文武の力を尽くし、白刃が交わる戦いであっても、決して顧みることはありません。

この部分で倭王・武は、まず自分を「不肖な者」と低く位置づけながらも、先祖の事業を受け継ぎ、家臣たちを率いて、遠い海路を越えて中国皇帝に仕えてきたことを強調している。こうした言い方は、実際に自分を無能だと言っているというより、皇帝に対する礼儀として用いられる、決まり文句に近い表現である。

続いて武は、百済が朝貢のための航路整備に協力的であるのに対し、高句麗は侵略や略奪を繰り返し、朝貢の道そのものを妨害していると非難する。ここで重要なのは、単なる戦争行為ではなく、「中国皇帝に礼を尽くす道を塞ぐ」という行為が、最も許されない「無道」だと訴えている点である。これは、中国の冊封秩序を重んじる価値観に合わせた言い方だといえる。

さらに、武の父・済については、朝貢を妨げる高句麗への怒りから、大軍を率いて出兵しようとしたと語られる。「弓を引く者百万人」という表現は、実際の人数を示すものではなく、軍事力の大きさを強調するための誇張であると考えられる。しかし、その計画は、父や兄が相次いで亡くなったことで実現しなかった。

武自身もまた、父の死によって喪に服していたため、すぐに兵を動かすことができなかったと述べる。これは、孝を重んじる中国的な価値観に沿った行動であったことを示すための説明でもある。そのうえで武は、今こそ兵を整え、父や兄の志を継ぎ、命を懸けて戦う覚悟があると宣言する。たとえ白刃が交わる激しい戦いになっても、決してためらわないという決意表明である。

このように、この部分は出来事をそのまま伝えるための文章というよりも、倭王・武がいかに忠義と孝を重んじ、宋の皇帝の秩序を守ろうとしているかを印象づけるために書かれている。誇張や決まり文句を用いながら、中国皇帝にとって理解しやすい価値観の中で自らを位置づける、よく練られた訴えであったといえる。

こうした自己卑下の言葉を重ねて皇帝の歓心を買おうとしているのは、続く要求が、冊封体制の中では臣下の立場から提出するには不釣り合いであり、朝廷から批判の対象となりかねないものであることを、武自身が十分に理解していたからである。

若以帝德覆載,摧此彊敵,克靖方難,無朁前功,竊自假開府,義同三司,其餘咸假授,以勸忠節。(句読点は筆者による)

もし皇帝の徳が天地のように我を覆い、この強敵を打ち破って地方の混乱を平定することができるのであれば、それは先人の功績を損なうものではありません。本来なら許されないことではありますが、やむを得ず私自身の判断で、すでに仮の政庁を設け、三司、つまり太尉・司徒・司空といった朝廷最高官に匹敵する権限をもつ体制を整えております。さらに、配下の者たちにも官職を仮に授け、忠誠と節義を奨励する措置をすでに講じております。

武の求めは、忠義を誓い、官位の授与を願うだけにとどまるものではなかった。
冊封体制のもとでは、臣下が自らの序列を越える行為は本来許されない。武はその原則を承知したうえで、高句麗の妨害によって朝貢の道が断たれ、皇帝の詔命を待つ余裕がない状況にあると訴える。そして、強敵である高句麗を討つという大義を掲げ、文面上では、すでに朝廷の最高官に匹敵する権限をもつ体制を整え、部下にも官職を与えてたことが示されている。
これらはいずれも忠義のためにやむを得ず先に行った措置であり、正当なものとして認めてほしい。それが武の主張だった。

この要求は、かつて倭王・珍が特例を求めた事例をも上回る、きわめて異例なものであった。

それほどまでに問題の大きい武の要求に対して、宋王朝はどのように対処したのだろうか。
もし要求を退ければ、倭国が宋の冊封体制から離脱する可能性が生じ、それは宋の威信を損なうことにつながる。一方で、全面的に認めてしまえば、冊封体制そのものの序列を乱す結果となる。

詔除武,使持節,都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東大將軍,倭王。

これに対して詔が下され、武は「使持節・都督、倭・新羅・任那・加羅(から)・秦韓・慕韓、六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に任じられた。

これは、宋側が採った一種の妥協的な措置であったと考えられる。
すなわち、朝鮮半島南部の諸国に対する倭王の影響力については一定程度これを認め、そのうえで「安東大将軍」までの官職を授与することによって、武の軍事的役割を公式に位置づけたのである。
しかし一方で、「三司」に匹敵する統率権を与えるといった、すでに行われていた越権行為の追認を求める要求については、これを明確に退けた。冊封体制の枠組みを超えようとする武の野心は認めず、皇帝権限の中枢に踏み込むことは許さなかったのである。

このような対応は、中国王朝が対外関係においてきわめて慎重かつ巧妙な調整を行いながら、東アジア交流圏における国際秩序を維持しようとしていたことを示している。その意味で、本史料は、冊封体制の統治原理とその柔軟性、さらにはその限界を読み取ることのできる、きわめて示唆に富んだ「教材的」事例であると言えるだろう。

宋側の倭王に対する扱いは、倭という国が冊封体制に入ることを望みながら、他方でその体制を必ずしも遵守しない態度をたびたび示す、問題含みの存在であったことを示しているともいえる。

425年以来、歴代の倭王は、朝鮮半島南部への影響力を認めるよう、宋の皇帝に繰り返し求めてきた。478年になってようやく、名目上ではあるものの、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓に対する軍事的権限が認められることになる。

その中でもとりわけ、釜山(ぶさん)を経て朝鮮海峡へと流れ込む洛東江(なんとんがん)流域に存在した十数か国の小国群を指す「任那・加耶」地域には、日本列島から海を越えて渡来した倭人たちが定着し、現地勢力と同盟を結ぶなどして、強い結びつきを築いていたと考えられる。

倭人たちがこの地域社会の一部として存在していた可能性は、洛東江流域において前方後円墳や倭系土器、武器、装身具などが相次いで発見されていることから、近年ますます高まっている。
また、この地域は良質な鉄の産地でもあり、朝鮮半島の有力諸勢力がたびたび併合を試みた地域であった。そのため、加羅諸国は連合体を形成し、百済や新羅からの侵攻に備えるとともに、倭からの軍事的支援に期待を寄せることもあった。

宋の冊封体制に組み込まれていた百済は、倭と同様に「将軍」級の称号(鎮東将軍)を与えられた国であり、高句麗・新羅と激しく抗争していた。百済は、加羅諸国が新羅の勢力下に入ることを警戒し、倭と同盟関係を結ぶことで、その支援を受けつつ、加羅諸国に対する影響力を維持しようとしたのである。

しかし倭国は、こうした諸国と対等の立場にあることを主張するのではなく、それらの上位に立ち、支配的な権限を認めるよう宋の皇帝に求めた。武が臣下の立場にありながら、高句麗と対抗するために仮の政庁を設けたとされる行為とも重なり、倭国が冊封体制において皇帝によって定められた序列を超えようとする、いわば「問題児」であったことは、この点からも読み取ることができる。

4世紀後半にはすでに高句麗から警戒されるほど勢力を伸ばしていた倭国は、5世紀のいわゆる「倭の五王」の時代になると、朝鮮半島南部に対する自らの影響力を、宋の皇帝に対して公式に認定するよう求めるようになる。そして武の代には、形式上は礼を尽くしつつも、冊封体制の序列を揺るがしかねないほど強い自己主張を示すに至った。

こうした倭国の「個性」は、やがて宋に続く中国王朝である隋の皇帝(天子)に対し、7世紀初頭、聖徳太子が自らを「日出づる処の天子」と称するという外交的パフォーマンスとして表出することになる。これは、後世の歴史を知る者にとっては、ある程度予測可能な展開であったと言えるだろう。


結局のところ、東アジア交流圏において頂点に立つのは常に中国王朝であるという構図に変わりはなかった。しかしその一方で、朝鮮半島と日本列島の諸国は、互いに勢力争いを繰り返しつつ、文化的には相互の往来を続け、時には戦闘を伴う緊張関係の中に置かれていた。

そうした状況の中で、海を隔てた位置にある倭国は、中国と直接国境を接しない「亜周辺」に位置するという条件を利用し、朝鮮半島諸国に比べて相対的に自由な行動をとることが可能であった。その結果、半島南部への影響力を主張すると同時に、冊封体制の秩序から逸脱しかねない行動を取ることもあった。

釜山の町を訪れ、かつてここが加耶諸国の東端にあり、朝鮮半島と日本列島を結ぶ重要な窓口であったことに思いをはせると、こうした古代の交流の記憶がふとよみがえってくる。
そこにあったのは、海が国を隔てるという現代的な国家意識に基づく分断ではなく、海が二つの地域を結ぶ通路となり、人や物が自然に行き交う、一つの文化圏の姿だった。

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