(3)大泊瀬稚武天皇と雄略天皇
「籠もよ み籠持ち」の長歌には、「雜歌/泊瀬朝倉宮 御宇 天皇代〔大泊瀬稚武天皇〕/天皇御製歌」という題詞が付けられている。
御宇(ぎょう)の「御(ご)」は尊敬を表す接頭語であり、「宇(う)」は本来「覆うもの」を意味する語で、そこから転じて「天下を覆い治める」、すなわち「統治する」という意味を持つようになった。したがって、御宇(ぎょう)とはここでは、天皇が天下を治めることを意味し、この長歌が大泊瀬稚武天皇の御代の歌として位置づけられていることを示している。

その天皇名「大泊瀬稚武(おおはつせわかたけ)」のうち、「泊瀬」は、現在の奈良県桜井市周辺に比定される地名であると考えられている。これを前提とすれば、「大泊瀬稚武」という名は、「大泊瀬」と「稚武(わかたける)」という二つの要素に分けて理解することも可能であろう。その場合、この名称は、泊瀬を拠点とする稚武(わかたける)という人物像を示すものと解釈することができる。
ただし、「大」という語が具体的に何を意味するのかについては明確ではなく、宮殿の規模を直接示すものと断定することはできない。地名的修飾、尊称、あるいは他の王との区別を意図した表現である可能性も考慮する必要がある。
そして、「稚武(わかたける)」という名称は、その音形が「ワカタケル」であること、また「武」という漢字が用いられていることの両面において、五世紀に活動した人物との関係を強く想起させる。この点は、金石文資料に見える「ワカタケル大王」との比定が有力視されていることとも関わっており、記紀における大泊瀬稚武天皇像を考えるうえで重要な手がかりとなっている。
A. 獲加多支鹵(ワカタケル)
埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣と、熊本県の江田船山古墳(えたふなやまこふん)から出土した太刀には、「ワカタケル」という音を想起させる漢字表記をもつ「大王(おおきみ)」の名が刻まれている。
熊本県の江田船山古墳から出土した鉄刀の銘文は全体で七十五文字からなり、その冒頭部分には
「台天下獲□□□鹵大王世」
と記されている。このうち「台」の字は「治」と解釈されるのが通例であり、「獲(ワ)□□□鹵(ル)大王が天下を治めていた時代」と読むことが可能である。ただし、□□□に当たる三字は判読不能であり、名称の完全な復元には至っていない。

これに対して、埼玉県の稲荷山古墳(いなりやまこふん)から出土した鉄剣には、「獲加多支鹵(ワカタケル)」という表記が明瞭に確認できる。さらにこの鉄剣には制作年が記されており、銘文冒頭の「辛亥年七月中記」という記述から、その年次は四七一年とみなすのが現在の通説となっている。これにより、「ワカタケル」と称される大王が五世紀後半に実在した可能性が、考古学的資料によって強く裏づけられることとなった。
また、この鉄剣の銘文には、地方に拠点を置く首長層が大王に仕え、その奉仕関係が代々継承されてきたことが語られている。この点は、剣の製作意図を述べる銘文末尾の一節からも読み取ることができる。
獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
獲加多支鹵(ワカタケル)大王が斯鬼(しき)の宮におられて天下を治めておられた時、私は命を受け、この百回鍛えた鋭利な刀を作らせた。ここに、私が大王にお仕えしてきた由来を記す
ここに見える「治天下」という表現は、大王が「天の下」を治める存在であるという政治的観念が、少なくとも五世紀後半の段階で、地方社会にも共有されていたことを示唆している。この観念は、7〜8世紀の天皇家が用いた天下統治の理念とも通じるものがある。
さらに、同様の内容をもつ銘文資料が、九州中部(熊本)と関東南部(埼玉)という広範な地域から出土している事実は、獲加多支鹵(ワカタケル)大王に代表される政権の影響力が、少なくとも九州中部から関東地方南部にまで及んでいた可能性を示している。
このような五世紀後半の政治的状況は、7〜8世紀に記紀や万葉集を編纂した大和政権の側にも、何らかの形で把握されていたと考えられる。そうした認識を背景として、古代天皇の御代を賛美する歌の作者として、「稚武(わかたける)」という音を含む天皇名が用いられたと考えることも、あながち無理な推測ではないだろう。
B. 『宋書』に記された倭王・武
「稚武」の音(ワカタケル)ではなく、「武」という漢字そのものに注目すると、この人物の歴史上の実在性が、よりはっきりと浮かび上がってくる。

五世紀に中国南部を支配した王朝の一つである宋の正史『宋書』の「夷蛮伝」には、五世紀に倭国から「倭の五王」と呼ばれる王たちが相次いで朝貢したことが記されている。そして、その最後に現れる王の名が「武」である。
ここに「若い」「幼い」といった意味をもつ「稚」という文字を付すことによって、五世紀の「武」が、七〜八世紀の視点から見れば、いわば「若き時代」、すなわち「古代」に属する大君であったことを暗示しようとしたと考えることもできるだろう。
『宋書』に名が見えるという事実は、当該人物の歴史的実在性を裏づける重要な根拠となる。
また、舒明天皇以降へと連なる天皇家の系譜の正当性を示すという点においても、5世紀の「武」との連続性を強調することは、編纂者にとって有効であった可能性が高い。
しかも、『宋書』に引用される武の上表文には478年という具体的な年紀が記されており、同じく5世紀後半に比定される「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」とも、時代的に整合している。

このように、日本列島に伝えられてきた過去の記憶と、『宋書』に記された中国側の史実とを重ね合わせることで、「獲加多支鹵(ワカタケル)」という名と、「武」という漢字とから、「大泊瀬・稚武」という天皇名が構成され、『古事記』・『日本書紀』においては、これに雄略天皇という追号を与え、古代を代表する天皇像が造形されていったのではないか、と考えてみたい。
その際に重要なキーワードとなるのが、「治天下」という観念である。倭王・武もまた、自らの上表文の中で、「東は毛人、西は衆夷、渡りて海北を平定した」と述べ、天の下をあまねく治める王であることを強くアピールしている。
封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰躬擐甲冑,跋渉山川,不遑寧處,東征毛人五十五國,西服衆夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歳。(『宋書』。句読点は筆者による)
わが国は辺境に位置し、中国王朝の外縁にあって藩属をなしてきました。祖先たちは自ら甲冑をまとい、山川を踏破して戦い、安らかに暮らす暇もありませんでした。東方では毛人と称される諸国五十五国を征し、西方では衆多の夷国六十六国を服属させ、さらに海を渡って北方においても九十五国に及びました。王道は広く行き渡り、版図は遠方にまで広がり、代々朝貢を怠ることはありませんでした。
このように、武勇をもって東国・西国を服属させ、さらには朝鮮半島にまで勢力圏を広げ、「王道」を天下に行き渡らせた王として描かれる倭王・武の姿は、記紀における雄略天皇像を強く想起させる。
逆に言えば、記紀編纂にあたって、編者たちが『宋書』の記述をある程度であったとしても参照しつつ、雄略天皇の人物像を造形していった可能性は、十分に考えられるだろう。
(4)『記紀』における雄略天皇

『日本書紀』における雄略天皇の描き方は、一方においてきわめて残忍である。王位継承をめぐる争いの中で多くの殺害を行い、また女性たちに対する振る舞いも苛烈であったとされ、「大悪天皇」と称される所以である。
しかしその一方で、庶民の困窮を目の当たりにして租税の免除を行ったり、葛城山において一言主神(ひとことぬしのかみ)と遭遇し、ともに狩猟を楽しむといった逸話も語られる。これらの行為は、天皇が神と対等に交わり得る存在であることを示すものとして理解され、「有徳天皇」と讃えられる側面をも併せ持っている。

これに対して『古事記』では、雄略天皇の残酷な行為が描かれる場面があるものの、それ以上に、数々の求婚譚や宮廷儀礼の描写が目立つ。そこでは、国を治め、祭祀を司る「祭政王」としての姿が強調され、「高光る日の御子」と称される天皇像が前面に押し出されている。
このような描かれ方は、『万葉集』における雄略天皇像と、より近い性格を持つものだと考えられる。
こうした差異は、三つの書物が想定していた読者層の違いによるものと理解することができるだろう。

720年に成立した『日本書紀』は、天武天皇の命を受けて編纂が開始され、その完成は、持統天皇の後を継いだ元正天皇の代に至った国家的歴史書である。
その編纂意図は、本書が日本語ではなく漢文によって書かれている点からも推測される。
当時の漢文が東アジア交流圏における共通の書記言語であったことを考えれば、『日本書紀』は、単に国内向けに歴史を叙述したものではなく、漢字文化圏に属する諸国に対して、天地開闢から神代を経て持統天皇に至るまでの王統の正統性を示そうとした書物であったと理解することができる。

それに対して『万葉集』は、万葉仮名を用いて記されている。万葉仮名とは、日本語の音を、漢字を借用して表記する方法であり、日本語を母語としない者にとっては理解が困難であった。
そのため、『万葉集』の主たる読者層は、日本語を日常的に用いる人々に限定されていたと考えられる。したがって、『万葉集』は基本的に国内向けであったと言える。
『古事記』の編纂意図もまた、性格としては『万葉集』に近い側面を持っていたと考えられる。
確かに、『古事記』は『日本書紀』と同様、天武天皇の命によって編纂された史書であるが、その表記は完全な漢文ではなく、日本語的表現を漢字で書き留めようとする試みが随所に見られる。言い換えれば、中国的な記述体系を踏まえつつも、その枠内で日本神話や天皇の系譜を表現しようとした書物であり、想定されていた読者もまた、日本語を理解し使いこなす人々であったと推測される。
このような読者層の違いを考慮すると、雄略天皇に関する記述の差異が生じた背景についても、一定の理解が可能となる。
東アジア交流圏全体を意識した『日本書紀』において、倭国から日本国へと国号を改め、新たな国家として承認を得ようとする過程では、王権の基盤となる軍事的実力の存在が強調される必要があったと考えられる。その文脈において、古代の王を代表する存在としての雄略天皇は、まず何よりも「強大な王」として描かれることが求められた。「大悪天皇」と称される数々の行為も、単なる道徳的悪としてではなく、圧倒的な権力と武力を象徴する表現として理解する余地がある。
一方、国内に向けては、武力のみならず、民に対する統治の正当性や、天皇が神と通じる存在であるという側面を示すことが、より重要であったと考えられる。
葛城山における一言主神との遭遇譚は、その象徴的な例であり、天皇が神と並び立つ存在であることを示す物語として機能している。
とりわけ『万葉集』は、そのような「現人神」的天皇像を、和歌という表現形式を通じて、より明確に伝えている。
剣に刻まれた銘文や、中国史書に見える記述といった史料に基づいて雄略天皇像を再構成する場合であっても、どのような読者を想定して語るかによって、強調される側面が異なることは、以上の検討からも明らかである。

そのうえで、これらすべての描写を貫いている一つの理念があるとすれば、それは「天皇が天の下において神的な存在である」という観念であると言えるだろう。この観念こそが、「うまし国 大和」を治める王朝の正統性を支える基盤だった。
その理念に貫かれた雄略天皇の姿は、現代の私たちの感覚から見れば、あまりにも苛烈で残忍に映る行為を含んでいる。しかし当時の人々にとっては、巡幸・国見・求婚・狩猟・新嘗といった王者の祭政を体現し、「高照らす日の御子」という称号によって、地上と天上の権威を併せ持つ天皇像と重なっていたのである。
そしてその姿は、『記紀』の編纂を命じた天武天皇自身の理想像、あるいは自己像の反映でもあったと考えることができよう。
このように捉えるならば、古代の大王としての雄略天皇像は、現代的価値観によって単純に評価されるべきものではなく、7〜8世紀の人々の視点に立って理解されるべき対象であることが、より明確になるのではないだろうか。
以上を踏まえるならば、雄略天皇とは、史料ごとに異なる評価を受ける「多面的な人物」であるというよりも、むしろそれぞれの書物が想定した読者層や政治的文脈に応じて、異なる側面が選択的に強調され、構成された存在であると理解すべきであろう。
『日本書紀』においては対外的正統性を支える強大な王として、『古事記』や『万葉集』においては神と通じ、祭政を司る現人神的な王として描かれる雄略天皇像は、いずれも史実の単純な反映ではなく、7〜8世紀における王権理念を体現する象徴的存在であったと考えられる。
その意味で雄略天皇は、5世紀に実在した可能性のある大王であると同時に、『記紀』編纂期の王権が自らを語るために要請した「古代の王」の姿であったと言っていいだろう。
その姿が、舒明天皇と重ね合わせられ、天皇家の正当性を保証するものとなる。その二重化について、『万葉集』を通して見ていこう。(続く)