雄略朝と舒明朝の二重化作業


雄略天皇に象徴される古代の王権と、舒明・斉明天皇の御代との重ね合わせは、『万葉集』に収録された一つの和歌の存在によって、当時の人々に強く意識されていたことが示唆される。
『万葉集』巻九は、「泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に天の下知らしめしし大泊瀬幼武(おおはつせのわかたける)天皇の御製歌一首」(9-1664)として、雄略天皇の歌を冒頭に掲げて始められている。

この歌では、今夜は鹿が鳴かず、眠っていると詠まれている。一般に、鳴く鹿は愛する人を求める心を象徴するものと考えられるため、鳴かない鹿が静かに眠る姿は、愛がすでに満たされている状態を示すと解釈できる。したがって、ここに描かれる雄略天皇は、武勇に秀でた君主としてではなく、愛を詠う歌人としての姿で捉えられていることになる。
夕されば 小倉の山に 伏す鹿の 今夜は鳴かず 寝(い)ねにけらしも
この歌には、左注として「或る本に、『崗本天皇の御製なり』といへり。いづれが正しきか知らず。因りて、並べ載す」と記されている。すなわち、この歌の作者については、雄略天皇とする伝承と、崗本天皇の作とする伝承の双方が伝えられており、編者はそのいずれかに決することなく、併記する態度をとっている。
さらに、鹿が「伏す」か「鳴く」かという語の違いを除けば、ほぼ同一内容の歌が、巻八に「崗本天皇の御製歌一首」として収録されているのである。
夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寝(い)ねにけらしも
「岡本天皇」という名の天皇は実在しないが、舒明天皇およびその後を継いだ斉明天皇が、飛鳥の地に岡本宮(おかもとのみや)を営んだことから、その宮号にちなみ、「岡本天皇」と呼ばれることがあった。
したがって、これらの歌を介して、雄略天皇と舒明・斉明天皇とが、意図的に結び付けられていると理解することができる。

この関係性は、舒明天皇の陵墓が置かれた場所と、雄略天皇の泊瀬朝倉宮の所在地とが近接している点からも、いっそう強調されている。
『日本書紀』によれば、舒明天皇は643年に「押坂陵」に改葬されたとされ、その陵墓の所在地は、現在の奈良県桜井市付近に比定されている。一方、泊瀬朝倉宮も、同じくこの地域に所在していたと考えられている。
こうした地理的な近接は、単なる偶然とは考えにくく、雄略天皇の御代と舒明天皇の御代とを重ね合わせようとする意図のもとに、記憶が再編成された結果であった可能性が高い。
このようにして、八世紀の天皇家に連なる人々は、古代の大王である雄略天皇と自らとを、史書や和歌という媒体を通して記録し、表現することによって、「壬申の乱」以降に確立された権力基盤を補強し、自らの王朝の正統性と安定性を、より確かなものとして示そうとしたのだと考えられる。
言葉には必ず何らかの意図が込められている!
和歌・歴史書・考古学資料、そして『記紀』の記述を照合し、八世紀に編纂された書物を通底する意図を読み取ることによって、本文をより正確に解釈することが可能になるだけでなく、編纂意図を考慮せずに行われる恣意的な解釈の余地を、ある程度まで限定することにもつながる。
ここでは、その一例として「神功皇后の三韓征伐」を取り上げてみよう。
『古事記』『日本書紀』によれば、神功(じんぐう)皇后は第十四代天皇・仲哀天皇の后とされている。仲哀天皇の在位期間は、おおよそ二世紀末から三世紀初頭にかけてと比定されることが多い。

「三韓征伐」の物語は、天皇が九州で熊襲征討を行っていた際、神が神功皇后に憑依し、海の向こうにある国々を授けるという神託を下したにもかかわらず、仲哀天皇がこれを信じなかったために崩御する、という場面から始まる。
その後、神功皇后は神の命に従って海を渡り、朝鮮半島へ向かう。このとき、風神が風を起こし、海神が波を鎮め、さらには海中の魚が浮かび上がって船を助けたため、皇后の軍勢は速やかに新羅へと到達する。新羅王は戦うことなく降伏し、百済王も自発的に服属を申し出たとされる。
『古事記』では、新羅は天皇の馬飼いとなり、百済は海の向こうの「屯家(みやけ)」と定められたと記される。
一方、『日本書紀』では、新羅・百済がともに服属を申し出て、「西蕃」と称されつつ朝貢を誓ったとされている。
以上が、神功皇后が海を渡って朝鮮半島に遠征し、「三韓」を支配下に置いたとする『記紀』の物語である。
しかし、この物語が史実とは考えがたいことは、神功皇后の活動時期とされる三世紀初頭には、高句麗・百済・新羅という「三韓」がまだ成立していなかった点からも明らかである。
また、卑弥呼の朝貢を記す『魏志倭人伝』や、倭の五王の朝貢を伝える『宋書』などの中国史書にも、倭国が朝鮮半島諸国を軍事的に支配したとする記述は見られない。
こうした史料状況を踏まえるならば、神がかりした神功皇后が朝鮮半島の諸国を「征伐」したとする物語は、史実の反映というよりも、後世の政治的・思想的要請に基づいて構成されたものと理解すべきだろう。

あくまで仮説にとどまるが、天武天皇以降の時代精神を考慮に入れると、この三韓征伐の物語は、663年の「白村江(はくすきのえ)の戦い」における敗戦の記憶を反転させる意図を持っていた可能性が考えられる。

この文脈において、神功皇后は女性天皇である斉明(さいめい)天皇の姿と重ね合わされていると見ることができる。斉明天皇は舒明天皇の皇后であり、天智天皇・天武天皇の母、持統天皇の祖母にあたる。
661年、斉明天皇は滅亡した百済の復興を支援するため、自ら九州へ赴いたが、その地で崩御した。
後を継いだ中大兄皇子(のちの天智天皇)は朝鮮半島へ軍を進めたものの、663年、倭国・百済連合軍は白村江で唐・新羅連合軍に大敗し、以後、倭国は朝鮮半島における軍事的影響力を失うことになる。
『記紀』に描かれた朝鮮半島征服の物語は、この敗戦の記憶を覆い隠すための物語として構想されたと考えることができるのではないか。斉明天皇の死を、神がかりした神功皇后の勝利へと置き換え、「大君は神にしませば」という観念を体現する存在として描くことで、神意によって海を渡り、三韓を瞬時に屈服させるという物語が創出された。そのように考えることもできる。
さらに、この神功皇后像は、武威に満ちた古代の大王である雄略天皇のイメージとも連続し、「うまし国大和」を治める舒明天皇の新たな王権の正統性を強調するとともに、斉明天皇の魂を慰撫する役割を担っていた、という想像も成り立つ。
このように捉えることで、「神功皇后の三韓征伐」を語る『記紀』の編纂意図は、より明確に浮かび上がってくるように思われる。
その意図を理解することの必要性は、後の時代にこの物語が史実とみなされてきたことの危うさからも明らかになる。


その一例が、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役、1592〜1598年)である。秀吉は、当時中国を支配していた明の征服を最終目標に掲げ、朝鮮半島へ二度にわたって大軍を派遣し、大規模な戦争へと突き進んだが、結果的には敗北を喫した。
この際、「神功皇后の三韓征伐」が歴史的事実であるかのように語られ、武将たちのいわゆる「神国日本」意識を高揚させたとされている。
すなわち、本来は過去の敗戦の記憶を覆い隠すために構成された物語が、後世において戦意を鼓舞する物語として再解釈され、戦争を正当化・促進する役割を果たしたことになる。そしてその帰結は、日本側の立場から見ても、さらなる敗戦という結果であった。

同様の構図は、1910年の韓国併合においても、形を変えて繰り返されたと指摘することができる。
近代日本は、帝国主義的拡張を進める過程で、朝鮮半島への支配を正当化する歴史像を必要とした。その際、「神功皇后の三韓征伐」は、古代においてすでに日本が朝鮮半島を支配していたかのような根拠として利用されることがあった。
こうした歴史解釈は、近代的な史料批判に基づくものではなく、国家的イデオロギーに奉仕するかたちで再構成された過去像であったと言える。その結果、神話的・伝承的性格をもつ『記紀』の物語は、歴史的文脈や編纂意図を切り離されたまま、近代国家の対外政策を正当化する言説として動員されていった。
このように見てくると、「神功皇后の三韓征伐」を単なる古代の物語として読むのではなく、その成立背景や後世における受容のされ方を含めて理解することが、歴史を過去の出来事としてではなく、現在に影響を及ぼし続ける認識の問題として捉えるために不可欠であることがわかってくる。

『古事記』『日本書紀』『万葉集』は、世界に誇りうる日本の貴重な文化遺産である。
その価値を現代に生きる私たちが正しく理解し、今日の文化の中に生かしていくためには、現代的な価値観に引き寄せた恣意的な解釈を施すのではなく、それらが編纂された時代の精神や歴史的背景を踏まえて読み解く姿勢が欠かせない。
とりわけ、多様な情報が過剰なほど流通する現代においてこそ、そのような態度は、私たちに最も強く求められていると言える。
言葉には必ず何らかの意図が込められている。その意図を読み取ろうとすることこそが、言葉を理解するための第一歩である。そのことを、私たちは常に忘れずにいたい。