
松尾芭蕉が若い頃から荘子の寓話に親しみ、その思想を愛好していたことは、よく知られている。その受容は、単なる書物上の知識にとどまらず、芭蕉の生き方そのものに強い影響を与え、彼の俳句の核心を貫いている。
ここでは、芭蕉の二つの紀行文集である『野ざらし紀行』と『笈の小文(おいのこぶみ)』を手がかりとして、「旅を栖(すみか)」(『奥の細道』)とした芭蕉が、荘子をどのように受容し、それを俳句の根底に据えたのかを、簡単にではあるが考察していく。
(1)『野ざらし紀行』

『野ざらし紀行』は、芭蕉が貞享元年(1684年)八月に江戸を発ち、上方各地を遊歴して、翌年四月に江戸へ帰るまでの旅を素材とした紀行文であり、「蕉風」が開眼していく過程を示した作品であると考えられている。
その冒頭の一節からは、新たな俳諧の世界を切り拓こうとする芭蕉の強い意欲が感じられる。
千里に旅立て、路糧(みちかつ)をつゝまず、三更(さんこう)月下(げっか)無何(むか)に入(い)ると云けむ、むかしの人の杖にすがりて、貞亨甲子(じゃうきゃうきのえね)秋八月江上の破屋(かうじゃうのはをく)をいづる程、風の聲そヾろ寒氣也。
(現代語訳)
千里の旅に出るのに、道中の食糧も用意せず、「夜更け、月の下で無何有(むかう)の郷に入るのだ」と言ったという昔の人の言葉を杖代わりにして、貞享元年(1684年)秋八月、川のほとりにある壊れかけの家を出立した。その折、風の音が、ひとしお身にしみるほど寒く感じられた。
この冒頭部分は、『江湖風月集』に収録されている中国の禅僧・広聞の漢詩をほぼそのまま踏まえたものである。
路粮(かて)ヲ齋(つつ)マズ 笑ツテ復(ま)タ歌フ。三更(さんこう)月下(げっか)無何(むか)二入ル
旅の道中の食糧も用意せず、笑いながら再び歌う。夜更け、月の下で〈無何有の境地〉へと入っていく。

しかし同時に、「千里に旅立て」という一句は、明らかに『荘子』の寓話を直接下敷きにしている。
というのも、千里の旅に出るのに道中の食糧を準備しないという発想は、『荘子』「逍遥遊」編に見られる寓話に由来するからである。
百里ほどの旅に出る者は、一晩分の食糧を用意すれば足りる。千里の旅に出る者は、三か月分の食糧を蓄えなければならない。だが、その違いを、あの小さな虫たちがどうして理解できようか。小さな知恵は大きな知恵には及ばず、短い寿命のものは、長い時間の広がりを知ることができない。なぜそう言えるのか。
朝に生じて夕方には消える菌は、月の満ち欠けを知らず、夏のあいだだけ鳴く蝉は、春や秋を知らない。これが、「短い時間に閉じ込められた存在」である。
荘子は、百里の旅と千里の旅を対比し、それぞれにふさわしい準備があることを示す。しかししばしば、百里の旅をする者は、千里の旅をする者の準備を理解できず、その必要性を否定してしまう。小さな虫には大量の食糧は不要であり、寿命の短いものには、永遠という時間の感覚は理解できないのである。
存在のスケール、すなわち寿命・視野・経験が異なれば、世界の理解もまた異なる。昼のあいだしか存在しない菌は、夜の月の満ち欠けを知らず、夏しか生きない蝉は、それ以外の季節を知ることがない。小さな立場や短い時間の中にある者には、大きな世界や長い時間を生きる存在の感覚を理解することができないのだ。
芭蕉は、この寓話を十分に理解したうえで、「千里の旅」という表現をあえて用い、三か月分の糧が必要であることを承知しながら、なお食糧を準備しないと宣言する。
では、その意図はどこにあるのだろうか。
荘子はここで、あえて「大」の視点に立ち、「小」は「大」を理解することができないと述べている。これに対して芭蕉は、その論理を意識的に反転させ、「大」の旅であるにもかかわらず、「小」の量の食糧さえ準備しないと語る。すなわち芭蕉は、荘子の思考を表層的に受け取るのではなく、その最も本質的な地点にまで入り込み、「大」と「小」という区別そのものを超え、すべてが等しく斉しいとする「万物斉同(ばんぶつせいどう)」の境地に身を置くことで、「旅」という「逍遥」の世界へと踏み入ろうとしたのだと考えられる。
そして、その「旅」は、禅僧・広聞が詠んだように、「無何(むか)に入る」ことにほかならない。この「無何」とは、「逍遥遊」編において語られる寓話に現れる「無何有の郷」を指す。そこは、何かが「有る」と想定されることのない場であり、有るか無いかという区別すら成立しない世界である。したがって、その世界においては、「大」と「小」も、「長」と「短」も、あらゆる差異や区別が消滅している。
このように理解すれば、「無何に入る」とは、「百里の旅には一晩分の食糧が必要であり、千里の旅には三か月分の食糧が必要である」といった区別そのものから自由になった旅へと出立することを意味していると言える。
以上の点から、芭蕉は荘子の寓話に示された言葉の水準を超え、その思想の核心を生の体験として生きていると考えることができる。言い換えれば、芭蕉は荘子を観念的に理解したのではなく、生の実践として「逍遥」を生きた、と表現するほうがより適切だろう。
そして、その旅に出立したとき、芭蕉が身をもって感じ取った感覚が、「風の聲そぞろ寒氣也」だった。
それまでは、家の内と外を隔てる壁によって、身体に直接風が当たることは防がれていた。しかし、その区切りが失われたことで、秋の冷たい風が肌に直接吹き付けてくる。そこには、現実的な生存条件や功利から離れ、自由の境地に身を置こうとする精神的高揚が確かに感じられる一方で、同時に、否応なく「寒さ」が立ち現れている。
だが、この寒さは、決して否定的なものとして描かれているわけではない。むしろそれは、身体が世界と直に触れた感覚であり、存在そのものが研ぎ澄まされていく感覚である。
言い換えれば、「旅」という無何有の境地に踏み入ったことによって生じた、世界との直接的な接触の瞬間を、芭蕉自身にはっきりと自覚させる感覚であったと言える。

その感覚は、この一節に続く一句によって、見事に言葉として定着させられている。
野ざらしを 心に風の しむ身かな
この一句は、単なる旅の出立に際して生じる不安を情緒的に表現した句ではなく、芭蕉が荘子的「逍遥」を身体の次元で引き受けた瞬間を定着させた一句として読むことができる。
「野ざらし」とは、本来、死体が野にさらされることであり、無縁・無所有・無防備の状態を意味する。芭蕉はそれを身体レベルではなく、「心に」置くと言う。
つまり、苦行として身を痛めるのではなく、大小・長短・生死といった区別を、心のレベルで解消したことを意味すると言ってよい。それは、そうした区別を解除したことの宣言でもある。「野ざらしを心に」とは、「千里の旅」「路糧をつつまず」「無何に入る」という決断と重なっている。
しかし、その一方で、「身」が消滅してしまったわけではない。そこには、なお「風のしむ身」が存在している。
身体は依然として世界の中にあり、その身体に秋の風が直接しみ込んでくる。この「しむ」の感覚は、傷みや苦しみというよりも、世界が遮るものなく身体に入り込んでくる感覚にほかならない。それは、冒頭の「風の聲そぞろ寒氣也」と完全に呼応している。
家という境界を失い、糧という備えを捨て、区切りを超えた結果として、身体がそのまま世界に開かれてしまった。その状態が「風のしむ身」なのである。
そして、この句の核心は、心はすでに「野ざらし」でありながら、身はなお「風がしみる」という、そのずれにある。
結句の「かな」は、嘆きや感傷ではなく、「今、自分はこうして世界の中に投げ出されている」という静かな自覚を示している。その在り方は、荘子のいう「斉同」や、「有用・無用の区別の超克」に直結している。
したがって、この句は、荘子の「逍遥遊」を単なる思想として受け取るのではなく、それを旅という生の実践へと移し、その過程で身体に生じた感覚を、俳句という最小単位の表現に定着させたものと読むことができる。
心はすでに無何有の境地にありつつ、身体はなお世界にさらされている。そのずれを否定することなく、そのまま引き受けることを選んだところに、芭蕉の姿勢がある。芭蕉はこの瞬間、「旅を栖とする」道へと踏み出したのである。
『野ざらし紀行』の冒頭は、その第一歩を記録した、きわめて重要な証言である。