芭蕉 『笈の小文』 荘子の思想を生きる俳人 2/2

『笈の小文』は、1687年から1688年にかけて、松尾芭蕉が江戸から京都まで旅した際の記録をもとに、芭蕉の死後、1709年に弟子によって刊行された俳諧紀行である。

その冒頭において芭蕉は、荘子に由来する言葉をあえて選び取り、自らが荘子思想を生きる者であることを、ほとんど宣言するかのように語り始める。その言葉が「百骸(ひゃくがい)九竅(きゅうこつ)」である。すなわち、人間の身体とは、百の骨と九つの穴から成り立つものにすぎない、という認識である。
芭蕉はこの身体観を起点として、さらに荘子の「造化」という考えを参照しながら、自らの俳諧の本質である「風雅」へと話を展開していく。

そこでまず、芭蕉が自らを「風羅坊(ふうらぼう)」と名乗る冒頭の一節を読んでみたい。
「風羅坊」とは、芭蕉の葉のように、風に吹かれてたやすく破れてしまう羅(うすもの)を意味し、芭蕉が俳号として用いた語でもある。

百骸九竅(ひやくがいきうけう)の中に物有(ものあり)。かりに名付て風羅坊(ふうらぼう)といふ。誠にうすものゝ、かぜに破れやすからん事をいふにやあらむ。
             (松尾芭蕉『笈の小文』)

(現代語)
人の身体、すなわち百の骨と九つの穴から成るこの身の内に、あるものが宿っている。仮にそれを「風羅坊」と名づける。まことにこれは薄いものが風に破れやすいように、はかなく壊れやすい性質を言っているのだろう。

「百骸九竅」という表現は、『荘子』「斉物論」篇において、自分という存在の不確かさを認識し、その不安定さをそのまま引き受けることを説く、その思考の端緒として用いられている。

そこで荘子は、次のような問いを発する。

百骸九竅六藏賅而存焉 吾誰與為親

百の骨、九つの穴、六つの内臓、それらすべてが備わって、この身体は成り立っている。
では、いったい私は、そのうちの誰(どれ)を、自分にとって最も親しいものとすればよいのだろうか。
             (『荘子』「斉物論」篇)

ここで荘子が問いかけているのは、人間を構成するさまざまな要素のうち、何が最も本質的なものなのかという問題である。さらに言えば、絶えず変化し続ける状態を統べる主体と呼ぶべきものが存在するのかどうかという点にまで、問いは及んでいる。

人は眠っているときには魂が入り交じり、目覚めると身体がはっきりと分かれて現れる。外界と接することで関係が生まれ、日々、心の中で争いが起こる。(中略)
喜び、怒り、悲しみ、楽しみ、思い悩み、嘆き、心の変調やおびえ、軽薄さや気まぐれな振る舞い。そうしたものが次々に現れてくる。楽しみは〈虚〉から生まれ、むっと蒸れるように広がり、菌のように増えていく。それらは昼と夜のように、目の前で入れ替わり続けるが、どこから芽生えたのかを知る者はいない。
もうよい、もうよい。朝から晩まで、人はこのような状態を繰り返しながら、それによって生きているのだ。
あれがあってはじめて私があるのでもなく、私があってはじめて何かを取る対象があるのでもない。この考え方は、かなり真理に近い。しかし、それを動かしている根本のはたらきが何であるかは、わからない。
もし「真の主宰者(真宰)」があるとしても、それを示す確かな証拠は得られない。たしかに働いているらしいと信じることはできるが、その姿は見えない。感情や働きはあるが、形はない。
               (『荘子』「斉物論」篇)

「私」には身体があり、感情は常に揺れ動いている。その動きが現実であることは確かである。しかし、その主体となるのは、百の骨、九つの孔、六つの内臓のうちのどれなのか。あるいは「私」なのか。もし「私」だとすれば、その「私」を動かしているのは、誰であり、あるいは何なのか。

こうした動きを荘子は「造化」と呼ぶが、その「造化」を司るものについての問いに対して、荘子は率直に、「それを動かしている根本のはたらきが何であるかは、わからない」と答える。

この荘子の思考を受け止めながら、芭蕉は、百の骨と九つの孔から成る身体の中に、「風羅坊(ふうらぼう)」を置く。
それは何らかの実体として把握されるものではなく、「薄いものが風に破れやすいように、はかなく壊れやすい性質」を持つものとされている。荘子の言葉を借りれば、それは「たしかに働いているらしいと信じることはできるが、その姿は見えない」存在なのである。

したがって、「風羅坊」は、荘子が「姿が見えない」と述べる不可知なはたらきと対応している。ただし、芭蕉はそれを哲学的な思想として抽象的に理解するのではなく、旅の途上において具体的な身体感覚として受け取り、それを俳諧の真髄として引き受けたのである。

ここで改めて想起しておきたいのは、『野ざらし紀行』の旅立ちにおいて、芭蕉が千里の旅に出るにあたり、壊れかけの家を出立したその瞬間に、「風の音がひとしお身にしみるほど寒く感じられた」と記している点である。そこでは、風はまだ身体の外部から旅人を打つものとして捉えられていた。

それが『笈の小文』に至ると、その風は旅人の身体の内に入り込み、内側から旅人を動かしているものとして感じ取られるようになったと理解することができる。


そして、「風羅坊」精神の創り出すものが、次に言及される「狂句」であると言える。そして、ここでは狂句と呼ばれる俳諧の道に生涯を費やすと決めるに至るまでの足跡が描かれていく。

かれ狂句を好(このむ)こと久し。終(ついひ)に生涯のはかりごとゝなす。ある時は、倦(うん)で放擲(ほうてき)せん事を思ひ、ある時はすゝむで人にかたむ事をほこり、是非(ぜひ)胸中にたゝかうて、是(これ)が為に身安からず。しばらく身を立(たて)む事をねがへども、これが為にさへられ[さえぎられ]、暫(しばら)ク学(まなん)で愚(ぐ)を暁(さとら)ン事をおもへども、是が為に破られ、つひに無能無芸にして、只(ただ)此一筋に繋(つなが)る。
      (松尾芭蕉『笈の小文』)

(現代語)
彼は狂句を好むこと久しく、ついにはそれを生涯の企てとしてしまった。
ある時には、疲れてこれを捨て去ろうと思い、またある時には、積極的に人に語り伝えようと誇らしく思う。そうした是非が胸中で争い、そのため心身が安らぐことがない。
しばらくは身を立てようと願っても、これが妨げとなり、しばらく学んで愚かさを悟ろうとしても、これによって打ち砕かれる。結局、何の才能も技もなく、ただこの一筋にのみ縛られて生きることになる。

1.伊賀上野での青春時代、退屈して俳諧の道をやめようと思ったこともあった。

2.深川に隠棲する以前、江戸市中で俳諧の宗匠として人々を導こうとした時期もあった。
 その際には、句の良し悪しに心を砕き、心身ともに安らぐことがなかった。

3.伊賀上野にいた頃には、仕官して出世しようという思いにとらわれたこともあった。

4.寺院で仏教を究め、自身の愚かさを悟る、すなわち悟りの道に入ろうとしたこともあった。
 しかし、出世(3)も悟り(4)も、「風羅坊」であるがゆえに果たされることはなかった。

こうした生涯を振り返ったうえで、結局のところ、自らを「無能無芸」と規定するほかなく、そのために俳諧をするしかなかったのだ、と述べている。

この一節に見られる「是非胸中にたゝかうて、是が為に身安からず」と「無能無芸」の対比も、また荘子的である。

荘子は、心を乱す最大の原因を是非・好悪の分別に求め、「斉物論」篇において、分別こそが苦を生み出すものであると説く。そして、是・非や有用・無用といった対立は、いずれも絶対的なものではなく、相対的に成り立つにすぎないとする。

この世のものに、「あれではない」ものはなく、また「これではない」ものもない。しかし「あれ(彼)」の立場から見れば、「これは見えない」。けれども「自分(知る側)」の立場に立てば、それを知ることができる。だから言える。「あれ」は「これ」から生まれ、「これ」もまた「あれ」によって成り立っている、と。「あれ」と「これ」は、同時に生まれる区別にすぎない。
とはいえ、生まれたと思えば死に、死んだと思えば生まれ、できると思えばできなくなり、できない思えばできるようになり、正しいと思えば誤りとなり、誤りと思えば正しくなる。このように、「是(正しい)」と「非(誤り)」は、互いによりかかって生じている。
だから聖人は、「どちらかに従う」ことをせず、天(自然そのもの)の立場から、ただ照らすように見る。それもまた、この「是非の成り立ち」に任せているからである。「これ」は「あれ」でもあり、「あれ」は「これ」でもある。「あれ」にも一つの是非があり、「これ」にも一つの是非がある。
では本当に、「あれ」と「これ」という区別があるのだろうか。それとも、本当は「彼と是」など存在しないのだろうか。「あれ」と「これ」が、もはや向かい合わなくなったところ、それを「道の要(かなめ)」という。その要は、輪の中心のようなところにあり、そこに立てば、限りなく変化に応じることができる。「是(正しさ)」もまた無限であり、「非(誤り)」もまた無限である。
だからこそ言う。最もよいのは、はっきりと照らして見ることだ。
    (『荘子』「斉物論」篇)

この思想に従えば、あれとこれ、是と非を分ける必要はないし、聖人の立場からすれば、それを分けること自体が不可能である。
有用と無用についても同様であり、かつての芭蕉は、是非を問い、有用であることを求めていた。しかし、「風羅坊」が彼を動かすようになると、その区別は次第に失われていく。「無能無芸」とは、そのことへの自覚にほかならない。

そして、その自覚が「風雅」への道を開くことにつながる。別の言葉でいえば、「風羅坊」が「風雅」を醸成する。


では、「風雅」とは何か。
それは俳諧の中だけで実現されるものではなく、和歌や絵画、茶道など、さまざまな表現形式において具現化されるものだと、芭蕉は考えている。

西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶におけるものは、其(その)貫道(くわんだう)する物は一(いつ)なり。しかも、風雅におけるものは、造化にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処、花にあらずといふ事なし。おもふ所、月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣(ちやうじう)に類す。夷狄を出(いで)、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり。

西行の和歌においても、宗祇の連歌においても、雪舟の絵においても、利休の茶においても、それらを貫いている道は一つである。
しかも風雅とは、造化の働きに従い、四季を友とするものだという。
見るところ、花でないものはなく、思うところ、月でないものはない。形が花でないときは夷狄に等しく、心が花でないときは鳥獣に等しい。夷狄を出て鳥獣を離れ、造化に従い、そして造化へと還れ、というのである。

ここで芭蕉は、西行、宗祇、雪舟、利休の名を挙げ、表現形式は異なりながらも、風雅の道を究めた芸術家の典型として示している。
そして風雅とは、「造化の働きに従い、四季を友とする」営みであると位置づけている。

この「造化」という言葉も、荘子に由来する。とりわけ、「大宗師(だいそうし)」篇で語られる子来(しらい)の死に関する寓話においては、「造化」という語が重要なキーワードとして用いられている。

「大宗師」篇の最大の主題は、人間にとって最も根源的な区分である生と死の別を消し去ることにある。荘子にとって、生と死とは、夜と昼が交替するのと同様に、自然に巡ってくるものであり、それは天の働きであり、万物に共通するあり方である。それは外的な自然の事物に限られたことではなく、人間の存在そのものにも当てはまる。

そもそも大地は、私にこの身体を与え、生において私を働かせ、老いにおいて私を休ませ、死によって私を安らかにする。だからこそ、私の生をよいものとして受け入れることは、そのまま、私の死をもよいものとして受け入れることにほかならない。
(『荘子』「大宗師」篇)

一般に、人間にとって最も悪い事態は死であり、それは生の対極に位置づけられる。しかし荘子は、「斉物論」篇において、是非、美醜、利害、生死といったあらゆる分別を包摂する「道の要」について語り、そうした対立や区別そのものを無化する視点を提示している。

「大宗師」篇では、こうした知的な理解をさらに一歩進め、生と死の区別をしない具体的な実践例として、子来という男の死に際に、人々が示す死への恐れが取り上げられる。

にわかに子来(しらい)が病にかかり、息は荒く、今にも死にそうな状態となった。妻子たちはその周囲を取り囲み、泣き悲しんでいた。
そこへ子犂(しり)が見舞いに訪れ、妻子たちに向かって「しっ、あちらへ行け。変化を恐れるな」と言い、戸にもたれかかりながら子来にこう語りかけた。
「なんと偉大なことか、造化というものは。これからお前を何にしようというのか。どこへ赴かせようというのか。お前を鼠の肝にするのか、虫の腕にするのか。」
子来はこれに答えて言う。
「父母に対する子というものは、東であれ西であれ、南であれ北であれ、ただ言いつけに従うだけだ。陰陽が人に及ぼす力は、父母に劣るものではない。その陰陽が私を死に近づけているのに、もし私がそれに従わなければ、それは私のほうが乱暴というものだ。いったい彼らにどんな罪があるだろうか。
そもそも大地は私に形を与え、生において私を労し、老いにおいて私を休ませ、死において私を憩わせる。だからこそ、私の生をよしとする者は、そのまま私の死をもよしとするのである。
いま、大いなる鋳物師が金属を溶かして鋳ているとして、その金属が跳ね上がり、『私は必ず名剣・鏌鋣(ばくや)になってみせる』と言ったなら、大いなる鋳物師はそれを不吉な金だとみなすだろう。同じように、ひとたび人の形を与えられた者が、『人でなければならぬ、人でなければならぬ』と言い張るなら、造化はそれを不吉な人間だとみなすに違いない。
いま、天地を大きな炉とし、造化を大いなる鋳物師とするならば、どこへ行って悪いということがあろうか。どこへ行っても差し支えはないではないか。」
こうして子来は安らかに眠りにつき、やがて、はっとして目を覚ました。
(『荘子』「大宗師」篇)

子犂(しり)が最初に家族たちに向けて語る「変化を恐れるな」という言葉は、「造化」がすなわち「変化」であることを端的に示している。生から死への移行もまた、造化による一つの変化にすぎない。

その変化が、死に向かう子来(しらい)をどこへ運び、どのような姿に変えるのかは、まったく予測がつかない。鼠の肝や虫の腕という表現は、その予測不可能性を奇想天外な比喩によって示すことで、造化の働きの偉大さを、どこか滑稽さを帯びたかたちで描き出している。

子犂の言葉を受けて、子来は、生であろうと死であろうと、それが造化に従うものである以上、受け入れてよしとするほかないと語る。「もし私がそれに従わなければ、それは私のほうが乱暴というものだ」という言葉は、「造化にしたがひて四時(しいじ)を友とす」とする芭蕉の姿勢と深く対応している。

「人でなければならぬ」と人間であることに固執する必要はなく、鼠の肝になろうと、虫の腕になろうと、差し支えはない。生きていようと、死んでいようと、同様である。ただ、すべてをあるがままに受け入れるだけなのだ。

その根底にあるのは、子来の比喩に従えば、人間の生きる天地が大きな炉であり、造化とは鋳物師、すなわち炉の中で起こる動きそのものだという理解である。
ただし、鋳物師と言っても、それは主体的に対象へ働きかけて形を作り出す主体ではない。万物が自然に出来上がっていく、その運動そのものを指している。別の言い方をすれば、造化とは、世界が自ずからそうなっている働きである。

子来は、まさにその造化を生き、生から死へと向かおうとしている。ただし彼にとっては、「そもそも大地は私に形を与え、生において私を労し、老いにおいて私を休ませ、死において私を憩わせる」のであって、生きていてもよく、死んでもよい。その思想を生きる彼は、この言葉を語り終えたのち、安らかに眠り、そして目を覚ます。すべては、造化の動きのままなのである。

このように造化を理解すると、芭蕉の言う「風雅」とは何かが、自然と見えてくる。
風雅とは、決して美を意図的に目指すものではない。対象にあらかじめ美と醜の区別を設けるのでもなく、ただ造化に従い、その変化の動きに身を委ねること、それだけである。

子来は、まさにそのような意味で風雅を生きている。同様に、「旅人と 我が名呼ばれん 初時雨(はつしぐれ)」と詠む芭蕉もまた、秋の末から冬の初めにかけて、降ったりやんだりする小雨が降り始めるなかで、「古人も多く旅に死せるあり」(『奥の細道』)と知りながら、「四時(しいじ)を友」とする旅へと踏み出していく。

その風雅の旅においては、あらゆるものが花として見え、あらゆるものが月として思われる。
「見る処、花にあらずといふ事なし。おもふ所、月にあらずといふ事なし。」
それは、世界のすべてが美しいという意味ではない。繰り返すまでもなく、そこには美醜の区別は存在しない。芭蕉が語っているのは、見る者の心のあり方によって、すべてが花となり、何を思っても月となるという、見る者と思う者と、見られ思われる対象との密接な関係なのである。

だからこそ、風雅を理解しない夷狄(いてき)や鳥獣にとっては、どのような形も花とはならず、どのような思いも月とはならない。
「形が花でないときは夷狄に等しく、心が花でないときは鳥獣に等しい。」
すなわち、夷狄や鳥獣とは、風雅を失った状態を指している。その状態とは、たとえば、あるものは美しく、あるものは醜いと初めから断定し、世界を細かく分断して捉えるような物の見方にほかならない。

そこから離れ、造化に従うとき、どのようなものも花となり、どのような思いも月となる。
「造化にしたがひ、造化にかへれとなり。」
この態度こそが、西行をはじめ、芭蕉が深く敬意を払った芸術家たちの多様な表現形式の中に、一貫して流れているものなのである。


ある書物を読んでいたところ、『笈の小文』の解説として、「芭蕉が花と言い、月と言うとき、そこには美しいものという限定の意識がある。俳諧が風雅の道であるとすれば、それは当然のことであろう」と述べられていた。

こうした理解は、おそらく一般的なものなのだろう。しかし、芭蕉と荘子との密接なつながりを考慮に入れるならば、「美しいものという限定の意識」そのものが、反荘子的であり、同時に反芭蕉的であると言わざるをえない。

荘子は、「この世のものに、『あれではない』ものはなく、また『これではない』ものもない」と語り(「斉物論」篇)、さらに「いま、天地を大きな炉とし、造化を大いなる鋳物師とするならば、どこへ行って悪いということがあろうか。どこへ行っても差し支えはないではないか」と述べている(「大宗師」篇)。
これらの言葉が示すのは、世界を美醜や是非によって切り分ける視点そのものを解体する思想である。

こうした荘子の思想を踏まえるとき、「美しいものという限定」など、本来どこにも存在しないことが理解される。すべては「造化」の動きのただ中にあり、その動きに従うことこそが、「風雅」なのだ。

旅に病で 夢は枯野を かけ廻る

芭蕉が生前に詠んだこの最後の句もまた、そのことを雄弁に物語っている。病と死の予感を詠んだこの句は、通常の意味では、決して「美しい」情景を描いたものではない。にもかかわらず、この句は美しい。

それは、芭蕉が生と死を分け隔てることなく、造化に従い、時の流れに身を委ねて生きていたからである。この一句は、芭蕉が「風雅」を思想として語っただけでなく、それを生そのものとして生き切ったことの、静かな証しであると言えるだろう。

荘子を知ることで、その意味がいっそう明白となる。

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