面白い話と事実の確認 — 考えるためのベース 琵琶湖と淡路島

ある人から、面白い話を聞いた。

知っていますか? 琵琶湖だったところの地面が飛んでいって、淡路島になったんですよ。

普通なら誰も信じない話なのだけれど、その話の主の仲間内では、エジプトのピラミッドは縄文時代の日本の技術で作られた、などという説がごく普通に流通している。そんな環境なので、「もしかすると?」と思ってしまったりもする。

確かに、琵琶湖と淡路島は形がよく似ているし、大きさも同じくらいに見える。ところが、そこですぐに次の言葉が続いた。

でも、琵琶湖の深さと淡路島の高さは違いますよね。琵琶湖の深さは6メートルくらいだし、淡路島の山は200メートルくらいある。合わないですよね。

話はこれで終わりなのだが、あまりにも面白かったので、それを使って、話題を楽しむことから情報の事実確認へと進むという、認識法について簡単に考えてみることした。

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日本的とは?

長くフランスやヨーロッパ的なものを学んできた。その後、「日本的なもの」に、ようやく関心を抱くようになった。そして、いつかフランスで、「日本的とは何か」ということを紹介してみたいと考え、ここ数年は意識的に日本へと立ち返ろうとしている。
しかし、正直に言えば、いまだ「これだ」と言えるところまで辿り着けずにいる。

その大きな理由の一つは、現存している最古の文字資料が八世紀の書物であるという事実にある。しかも、その時代にはすでに大陸からの影響が色濃く、日本固有のものが何であるのかを、はっきりと線引きすることが難しい。日本的なものを探ろうとすればするほど、外からもたらされた思想や文化と深く絡み合っていることに気づかされる。

たとえば、日本文化の大きな特徴の一つとして、「無」に価値を置く姿勢を挙げることができるだろう。しかし、その「無」は、インド仏教の「空」や、中国思想における「無」と、どのようにつながり、またどこが異なっているのか。そうした関係を丁寧に解きほぐそうとすると、たちまち困難に突き当たる。

それにもかかわらず、「無」は日本人にとってきわめて身近な概念でもある。「何かを成し遂げたければ、意識的にあれこれ考えるのではなく、無になるのが一番だ」と言われれば、多くの人は違和感なく受け止めるだろう。
ところが一方で、「無とは何か」と問われると、言葉にして明確に答えることは容易ではない。

説明しようとすればするほど、外来の宗教や思想との関係を踏まえたうえで、「日本的な無」とは何かを問わざるをえなくなる。しかし、そこでは思考の糸が複雑に絡み合い、一筋縄ではもつれをほどくことができない。
この一点を取ってみただけでも、「日本的なもの」を解明することがいかに難しい営みであるかは、十分に伝わるのではないだろうか。

そうした中で、これは日本的だと言ってよいのではないか、と思われる事柄に、時折出会うことがある。それらは、日本人にとってあまりにも当たり前すぎるため、意識されにくいものでもある。
そのいくつかを、以下で簡単に見ていこう。

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言葉で伝えることの難しさ — 選挙や財政政策について考える

長い間、同業者の間でしか通じない言葉を使い続けてきたために、多くの人々に自分の言葉を伝えることの難しさを、日々痛感している。
論理的な整合性を重視し、主張を正当化するために論点を積み重ね、具体的な例を取り上げて分析し、結論を導き出すことで説得力を持たせることを目指してきた。こうした論の展開では、どうしても文章は長くなってしまう。
しかも、正確さを期そうとすればするほど、面白みは失われ、退屈なものになりがちである。

しかし、SNSの時代においては、一般書であっても一読してさっと理解できることが、読者を獲得するための最低限の条件となっている。分かりやすくなければ、読まれないのである。

とここまで書いてきて、既に文字数はすでに300字を超えている。すでに長く、言いたいことは何?と感じられるだろう。

で、何を言いたいのかと言えば、「言葉を読むことの難しさ」ということだ。
ここでは、(1)選挙、(2)積極財政と消費税、という二つの点について書いてみよう。

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土佐・桂浜で坂本龍馬像を前にして 「日本の夜明け」について考えた

高知に行けば、桂浜に行く。桂浜に行けば、龍馬の像を見上げる。たいていの人が、たぶん、そうなる。

いまの日本で坂本龍馬は、よく知られ、よく愛されている。薩摩と長州を結び、幕府を倒す流れに関わった人物であり、しかも明治維新の直前に暗殺されて、あっけなく人生が途切れる。史実だけでも十分に劇的だ。
けれど、人気の芯は別のところにあるのかもしれない。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で語られる「たとえどぶの中でも前向きに倒れて死ね」のような言葉や、「日本の夜明けぜよ」といった台詞のイメージが、彼の輪郭をいっそう明るく照らしている。龍馬はいつしか、前向きに生きることの代名詞になった。

そんなことを思いながら、桂浜の空を背にして立つ像の前に立った。潮の匂いと風の音のなかで、どうでもよさそうで、しかし一度浮かぶと消えない疑問がよぎった。
明治維新は、本当に日本の「夜明け」だったのだろうか。もし夜明けなら、その前の江戸時代は「闇」だったのだろうか。

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 4/4

孤独と死への思いを具体的なイメージとして夢想したことを終点として、自分の内面を見つめる場面は終わりを迎え、意識は外に向く。夜が来たことに気づき、そして、部屋から下に降り、通りに溢れる群衆の中へと入って行く。

— Ainsi va ma pensée, et la nuit est venue ;
Je descends, et bientôt dans la foule inconnue
J’ai noyé mon chagrin :
Plus d’un bras me coudoie ; on entre à la guinguette,
On sort du cabaret ; l’invalide en goguette
Chevrote un gai refrain.

(朗読は5分18秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 3/4

愛しい伯母の死が語られた後、思いは母へとつながっていく。母はまだ生きており、「ぼく」を愛してくれている。しかしすぐに、彼女もまた、いつかは死んでいく存在であるという未来へと、連想は進んでいく。

Elle m’aimait pourtant… ; et ma mère aussi m’aime,
Et ma mère à son tour mourra ; bientôt moi-même
Dans le jaune linceul
Je l’ensevelirai ; je clouerai sous la lame
Ce corps flétri, mais cher, ce reste de mon âme ;
Alors je serai seul ;

(朗読は3分9秒から)

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フランス人女性歌手(?)

これまで耳にしたことのなかったフランスの女性歌手を、YouTubeでたまたま聴いた。名前も経歴もよく知らないまま、ただ曲だけが流れてくる。それぞれに雰囲気があって、声の質も、歌い方も少しずつ違う。

最初に見つけたのは、Camille Brise(カミーユ・ブリーズ)。

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 2/4

子ども時代の教会の思い出は、まず祈りの場面から始まり、そこから伯母の死へと連想がつながっていく。

Oh ! qui dans une église, à genoux sur la pierre,
N’a bien souvent, le soir, déposé sa prière,
Comme un grain pur de sel ?
Qui n’a du crucifix baisé le jaune ivoire ?
Qui n’a de l’Homme-Dieu lu la sublime histoire
Dans un jaune missel ?

(朗読は25秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 1/4

日本は言うまでもなく、フランス本国においてさえ、フランス・ロマン主義文学に親しむ人は今ではごく少数になっている。サント・ブーヴ(Sainte-Beuve)の詩を読む人となると、なおさら少ないだろう。
そうした中で、彼の代表的な韻文詩の一つとはいえ、なぜ「黄色い光線(Les Rayons jaunes)」を取り上げるのかと、少し意外に思われるかもしれない。

今回この詩を取り上げるのは、その主題である「黄色(jaune)」という色が、現代人の心の動きとどこかで重なって見えるからだ。
ネット社会の中で、私たちは日々、多くの情報に囲まれて過ごしている。その流れに身を任せながら、ときどき理由もよく分からないまま、ふと気持ちが沈むことがある。何かを信じたいと思いながら、どこかで信じきれない気持ちが残る。楽しい時間を過ごしているはずなのに、それをあらかじめ「思い出作り」と言葉にしてしまう。そうした感覚に、心当たりのある人も少なくないのではないだろうか。

「黄色い光線」は一八二九年に発表された詩で、今からおよそ二百年前の作品である。それでも、この詩には、時代を超えて今の日本人の感覚にそっと触れてくる何かがあるように思われる。

そのことは、詩の冒頭に置かれたエピグラフからも感じ取れる。そこには、古代ローマの詩人ルクレティウスの『物の本質について』から、「さらに、あらゆるものは陰鬱で不気味な様相を帯びてくる」という一節が引かれている。
この言葉は、サント・ブーヴの詩の世界に静かな陰影を与えると同時に、読む側の心にもゆっくりと染み込んでくるように思われる。

また、せっかくフランス語で詩を読むのだから、その形式にも目を向けておきたい。
一つの詩節は六行からなり、最初の二行は十二音節、三行目は六音節である。続く三行も同様に、十二音節の二行と六音節の一行が反復される。
韻の構成は、最初の二行が平韻(AA)で、次の四行は抱擁韻(BCCB)となっている。
このように形式が非常に整っているので、フランス語詩特有の音とリズムの美しさを感じ取ることができる。

Les Rayons jaunes

Les dimanches d’été, le soir, vers les six heures,
Quand le peuple empressé déserte ses demeures
Et va s’ébattre aux champs,
Ma persienne fermée, assis à ma fenêtre,
Je regarde d’en haut passer et disparaître
Joyeux bourgeois, marchands,

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言葉と沈黙の余韻 仏教、荘子の言語観と和歌・俳句 3/3

(2)日本文学の中の言葉

「言葉には届かない領域がある」という言語観を、荘子と仏教の公案を通して確かめてきたが、ここからは、その意識が、理論や説話ではなく、和歌や俳句といった言語芸術によってどのように表現されてきたのかを、簡単に見ていこう。

和歌の場合は三十一音、俳句ではわずか十七音によって、言葉の直接的な意味だけではとうてい表現不可能な世界が浮かび上がる。そこでは、言葉は常に意味を超えたものを思わせ、「そこにあるもの」から、その奥にひっそりとたたずむ何かを呼び起こす。

その代表的な例の一つとして、まずは藤原定家のよく知られた和歌を読んでみよう。

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 
浦の苫屋(とまや)の 秋の夕暮
(『新古今和歌集』秋上・363)

秋の夕暮れ、浜辺に立ち、ぐるりとあたりを見渡しても、美しい花も紅葉した木々もない。目に入ってくるのは、浦に建つ漁民の粗末な苫屋だけである。
和歌の意味するところを散文で言い表せば、そのような寂しく殺風景な情景への言及にすぎない。

しかし、それにもかかわらず、この和歌は日本的な美の表現としてしばしば取り上げられ、現代の私たちの感性にも強く訴えかける力を持っている。

その一つの鍵は、「なかりけり」という言葉にある。
この語が存在を否定することによって、かえってその侘しく寂しい光景の中に、存在しないはずの花と紅葉が一瞬、心に描き出される。

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