
日本は言うまでもなく、フランス本国においてさえ、フランス・ロマン主義文学に親しむ人は今ではごく少数になっている。サント・ブーヴ(Sainte-Beuve)の詩を読む人となると、なおさら少ないだろう。
そうした中で、彼の代表的な韻文詩の一つとはいえ、なぜ「黄色い光線(Les Rayons jaunes)」を取り上げるのかと、少し意外に思われるかもしれない。
今回この詩を取り上げるのは、その主題である「黄色(jaune)」という色が、現代人の心の動きとどこかで重なって見えるからだ。
ネット社会の中で、私たちは日々、多くの情報に囲まれて過ごしている。その流れに身を任せながら、ときどき理由もよく分からないまま、ふと気持ちが沈むことがある。何かを信じたいと思いながら、どこかで信じきれない気持ちが残る。楽しい時間を過ごしているはずなのに、それをあらかじめ「思い出作り」と言葉にしてしまう。そうした感覚に、心当たりのある人も少なくないのではないだろうか。
「黄色い光線」は一八二九年に発表された詩で、今からおよそ二百年前の作品である。それでも、この詩には、時代を超えて今の日本人の感覚にそっと触れてくる何かがあるように思われる。
そのことは、詩の冒頭に置かれたエピグラフからも感じ取れる。そこには、古代ローマの詩人ルクレティウスの『物の本質について』から、「さらに、あらゆるものは陰鬱で不気味な様相を帯びてくる」という一節が引かれている。
この言葉は、サント・ブーヴの詩の世界に静かな陰影を与えると同時に、読む側の心にもゆっくりと染み込んでくるように思われる。
また、せっかくフランス語で詩を読むのだから、その形式にも目を向けておきたい。
一つの詩節は六行からなり、最初の二行は十二音節、三行目は六音節である。続く三行も同様に、十二音節の二行と六音節の一行が反復される。
韻の構成は、最初の二行が平韻(AA)で、次の四行は抱擁韻(BCCB)となっている。
このように形式が非常に整っているので、フランス語詩特有の音とリズムの美しさを感じ取ることができる。
Les Rayons jaunes
Les dimanches d’été, le soir, vers les six heures,
Quand le peuple empressé déserte ses demeures
Et va s’ébattre aux champs,
Ma persienne fermée, assis à ma fenêtre,
Je regarde d’en haut passer et disparaître
Joyeux bourgeois, marchands,
Ouvriers en habits de fête, au cœur plein d’aise ;
Un livre est entr’ouvert, près de moi, sur ma chaise :
Je lis ou fais semblant ;
Et les jaunes rayons que le couchant ramène,
Plus jaunes ce soir-là que pendant la semaine,
Teignent mon rideau blanc.
「黄色い光線」
夏の日曜日、夕方、六時ごろになると、
せわしなく人々が家を出て、
野原へ遊びに向かうころ、
鎧戸を閉めた窓辺に座り、
ぼくは上から、通り過ぎては消えていくのを眺めている、
楽しげな市民たち、商人たち、
お祭りの服を着て、心は安らぎに満ちている労働者たちを。
一冊の本が、ぼくのそばの椅子の上で、少しだけ開いている。
ぼくは読んでいるか、あるいは読むむりをしている。
そして、沈みゆく夕日が運んでくる黄色い光線が、
そんな夜は、平日のどの日よりもいっそう黄色く、
白いカーテンを染めている。
この二つの詩節について、個々の語句や表現をとりわけ詳しく解説する必要はないように思われるが、それは、十九世紀後半、いわゆる象徴主義の時代に入って、詩の内容そのものが理解しにくいものへと変化していくことと関係している。つまり、ロマン主義までの詩は、ある意味では散文に近く、詩句をたどっていけば、何が書かれているのかを理解できるものが大多数だったと言える。
そのため、私たちにとっての難しさは、多くの場合、詩の表現そのものよりも、時代の違いによる世界観や価値観の隔たりから生じる。例えば、語り手が窓辺から下を眺める場面で登場する人々は、bourgeois、marchands、ouvriers という言葉で表されている。ここで、bourgeois を「市民」と訳しても、あるいは「ブルジョワ」とカタカナで表しても、現代の日本に暮らす私たちには、なお実感を伴って理解しにくい。
十九世紀のフランスにおいて、この三つの語の列挙は明確な社会階層の反映であり、ある程度の資本を持つ市民階級、その下に位置する商業に携わる人々、さらにその下に置かれた労働者という、上下関係を含んだ構図を成している。
そして、最後の ouvriers に対して、「祭りの服をまとい」(en habits de fête)、「心は安らぎに満ちている」(au cœur plein d’aise)とわざわざ付け加えられているのは、日曜日には仕事から解放され、とりわけ労働者にとって、それが貴重で幸福な時間であったことを、さりげなく示しているためだろう。
こうした点が見えてくると、日々は厳しい生活を送っている人々でさえ、日曜日の夕方には気持ちをゆるめて外へ出かけているのに対し、語り手である「ぼく(Je)」は、窓の鎧戸を閉め(Ma persienne fermée)、部屋の中に閉じこもっている。その対比によって生まれる孤独感やメランコリーが、いっそう強く表現されていることが読み取れるようになる。
そして、鎧戸を閉めているとはいえ、羽板のすき間から、夕日の光はなお差し込んでくる。その細い光が、室内の白いカーテンを黄色く染めるのである。
J’aime à les voir percer vitres et jalousie ;
Chaque oblique sillon trace à ma fantaisie
Un flot d’atomes d’or ;
Puis, m’arrivant dans l’âme à travers la prunelle,
Ils redorent aussi mille pensers en elle,
Mille atomes encor.
ぼくは、黄色い光線が、窓ガラスやブラインドを貫きとおすのを見るのが好きだ。
それぞれの斜めの光の筋が、ぼくの思いにままに、
黄金の原子の流れを描き出す。
そして、瞳を通ってぼくの魂の中に達し、
そこにある千の思いを再び金色に染め、
さらにまた、千の原子も金色に染める。
« m’arrivant dans l’âme » について、ここで文法的な説明をしておこう。
フランス語では、身体や精神の部位を表す語には、所有形容詞ではなく定冠詞が用いられるのが一般的である。そのため、この箇所でも mon âme ではなく l’âme が用いられている。さらに、それが誰の魂であるかを示すために、間接目的語として me が添えられる。
すなわち、m’arriver によって「誰に到達するのか」がまず示され、その到達点が「魂の中である」ことが dans l’âme によって、より具体的に限定されているのである。
最終行の encore が encor と綴られ、語末の「e」が省かれているのは、韻文における音節数を明確にするためである。フランス語詩では語末の e(いわゆる e muet)は、位置や文脈によって一音節として数えられることもあり、その扱いには揺れが生じうる。
そこで詩人は、読みの曖昧さを避けるため、あらかじめ encor という詩語を用いて音数を固定している。
この行は、発音上 « mil / a / to / mes / en / cor »と分かれ、六音節行として成立している。
内容的には、窓の外から差し込む黄色い光線が、瞳を通って魂の中にまで入り込み、そこでうごめく数多くの思い(pensers)を金色(or)に染め上げる様子が描かれている。しかも、それだけにとどまらず、光は思いの内部にまで浸透し、それを構成する原子(atomes)にまで及んで、すべてを金色に変えてしまうのである。
このように魂の原子にまで黄色い光が差し込んだあと、今度は、それらの原子が再構成されていく具体的な場面が、次第に描き出される。それが、子ども時代の思い出(Des souvenirs d’enfance)である。
Ce sont des jours confus dont reparaît la trame,
Des souvenirs d’enfance, aussi doux à notre âme
Qu’un rêve d’avenir :
C’était à pareille heure (oh ! je me le rappelle)
Qu’après vêpres, enfants, au chœur de la chapelle,
On nous faisait venir.
La lampe brûlait jaune, et jaune aussi les cierges ;
Et la lueur glissant aux fronts voilés des vierges
Jaunissait leur blancheur ;
Et le prêtre vêtu de son étole blanche
Courbait un front jauni, comme un épi qui penche
Sous la faux du faucheur.
それはぼんやりした日々で、それらの織りなす模様が再び浮かび上がってくる。
それは子ども時代の思い出であり、私たちの魂にやさしいのは、
未来の夢と同じほどだ。
まさにそんな時刻だった。(ああ! それをはっきりと思い出す。)
夕べの祈りの後、ぼくたち子どもは、礼拝堂の聖歌隊へと
呼び寄せられた。
ランプは黄色く燃え、ロウソクもまた黄色く灯っていた。
その光が、ヴェールに覆われた少女たちの額の上を滑り、
彼女たちの白さを黄色く染めていた。
そして、白いストラをまとった司祭が、
黄色く染まった額を垂れていた。ちょうど稲の穂が、
刈り手の鎌の下で傾くようだった。

ここで描かれているのは、記憶を形づくる「原子」が再構成され、次第に明確な像を結んでいく過程である。その様子は、緯糸、あるいは物語の構造を意味する la trame という語によって表現されている。
ぼんやりとした子ども時代の記憶の中から、教会の聖歌隊という一つの場面が、徐々に織り上げられていくのである。

この場面が一様に黄色を帯びているのは、出発点に夕日の黄色い光があるからだが、その光は、魂の内部では金色として感じられていた。
それが現実的な像を結ぶとき、ふたたび「黄色」として現れる。
ランプも、ろうそくも黄色であり、少女たちの白い肌も、司祭の白い祭服も、すべてが黄色に染められている。
最後に示される、稲の穂がその下で頭を垂れる刈り手の鎌(la faux du faucheur)は、何らかの切断を暗示し、次に来る展開を予告している。(続く)