
愛しい伯母の死が語られた後、思いは母へとつながっていく。母はまだ生きており、「ぼく」を愛してくれている。しかしすぐに、彼女もまた、いつかは死んでいく存在であるという未来へと、連想は進んでいく。
Elle m’aimait pourtant… ; et ma mère aussi m’aime,
Et ma mère à son tour mourra ; bientôt moi-même
Dans le jaune linceul
Je l’ensevelirai ; je clouerai sous la lame
Ce corps flétri, mais cher, ce reste de mon âme ;
Alors je serai seul ;
(朗読は3分9秒から)
それでも、彼女はぼくを愛していた。。。 そして、母もぼくを愛している。
でも、母も順番が来て死んでしまうだろう。すぐに、ぼく自身が、
黄色の死装束の中へ、
彼女を葬るだろう。板の下に釘で打ちつけるだろう、その遺体を。
萎れているけれど、愛しい遺体、ぼくの魂の名残。
その時、ぼくはひとりぼっちだろう。
伯母も「ぼく」を愛してくれていたし、母もまた「ぼく」を愛している。
伯母の死を経験した「ぼく」が母のことを思うのは、「愛」が消え去ることへの恐れを示している。さらに、死装束や遺体、棺といった具体的なイメージを思い描くことで、母の死の後にやって来るであろう、自らの孤独へと思考は進んでいく。
人間にとっての孤独とは、単なる物理的な孤立ではなく、「愛の欠如」という心理的な問題であることが、この一節からはっきりと浮かび上がってくる。
Seul, sans mère, sans sœur, sans frère et sans épouse ;
Car qui voudrait m’aimer, et quelle main jalouse
S’unirait à ma main ?…
Mais déjà le soleil recule devant l’ombre,
Et les rayons qu’il lance à mon rideau plus sombre
S’éteignent en chemin…
ただ一人。母も、姉妹も、兄弟も、妻もいない。
そうだとしたら、誰がぼくを愛そうとするだろう、どんな嫉妬に満ちた手が、
ぼくの手と結ばれるだろう?。。。
おや、もう太陽は、影の前で後退している。
そして、暗さを増したカーテンに投げかけられる太陽の光線は、
途中で、消えようとしている。

日本語で「嫉妬」という言葉は、妬みや嫉みといった否定的なニュアンスを帯びるが、フランス語の jalouxは、独占したいという感情においては共通していながらも、大切なものを守りたい、それを何としても保ちたいという愛着を示し、必ずしも否定的な意味に限定されるわけではない。
ここで言われる「嫉妬に満ちた手」とは、「ぼく」の手を決して離そうとしない意志をもつ人々の手を指していると考えられる。
さらに、voudrais、s’unirait といった動詞が条件法で用いられていることからも明らかなように、愛も手も、実際には存在しないことが前提とされている。
そして、たとえ誰かがそばにいたとしても、それでも誰からも愛されず、手を差し出してももらえないだろうという暗い思いに沈み、「ぼく」は孤独感にさいなまれ、その思いは頂点に達しようとしている。
その瞬間、ふと意識は窓のカーテンへと向けられる。
先ほどまで夕方の太陽によって黄色く染まっていたカーテンは、日が沈むにつれて光線が短くなり、もはや届かなくなって、家の影の前で消え去ろうとしている。
次の二つの詩節では、「ぼく」は自分の死をイメージし、死後の視点から、実現しなかった人生、すなわち婚約者や、彼女との間に生まれるはずだった二人の子どもを空想することで、孤独な人生の様相が描かれていく。
Non, jamais à mon nom ma jeune fiancée
Ne rougira d’amour, rêvant dans sa pensée
Au jeune époux absent ;
Jamais deux enfants purs, deux anges de promesse,
Ne tiendront suspendus sur moi, durant la messe,
Le poêle jaunissant.
Non, jamais, quand la mort m’étendra sur ma couche,
Mon front ne sentira le baiser d’une bouche,
Ni mon œil obscurci
N’entreverra l’adieu d’une lèvre mi-close !
Jamais sur mon tombeau ne jaunira la rose,
Ni le jaune souci !
いや、決して、ぼくの名前を耳にしても、若い許嫁は、
愛で顔を赤らめることがないだろう、思いの中で夢見るのは、
実在しない若い夫のことなのだから。
決して、無垢な二人の子ども、約束の二人の天使が、
ミサの間、ぼくの上に掲げることはないだろう、
棺を覆う黄ばんだ布を。
いや、決して、死がぼくを床に横たえるとき、
ぼくの額が、誰かの唇の口づけを感じることはないだろう。
暗くかすんだこの目が、
垣間見ることもないだろう、半ば閉じた唇の別れを。
決して、ぼくの墓石の上で、黄色になることはないだろ、バラも、
黄色いキンセンカも。
十九世紀フランスだけでなく、日本においても比較的最近まで、結婚し、子どもをもうけることが、いわば「普通の人生」と考えられていた。
詩人もここで結婚について思いを巡らせるが、しかし、許嫁がいるという想像をうまく行うことができない。すなわち、「ぼく」を愛してくれる相手が存在するとは思えないため、許嫁を思い描こうとしても、彼女が彼の名前を耳にして喜びや恥じらいに頬を赤らめる姿は浮かび上がらない。
たとえ夢の中で夫のことを思うとしても、それは「実在しない夫(époux absent)」、すなわち、ここに生きている「ぼく」ではない存在なのである。

子どものことを思い浮かべようとしても、「ぼく」は女性と結ばれることがなく、子どもをもつこともないのだから、死後に子どもたちが棺を覆う黄ばんだ布(poêle jaunissant)を掲げる場面もまた、想像されることはない。
死の床に横たわる「ぼく」に口づけをする者も、そっと見守る者も、墓の上にバラやキンセンカの花を手向けてくれる者もいない。
ここまで見てきた詩句では、愛しい伯母の死を起点として、「ぼく」の思考は、母の死の予感、結婚や子どもといった実現しなかった人生、そして自らの死へと連なっていく。
この一連の詩節が描いているのは、死そのものではなく、死によって断ち切られる「愛の連鎖」であり、最終的には、墓石の上に花さえ手向けられない、完全な孤独のイメージへと収斂していく。
そして、ここまで来ると、これ以上の夢想は、「ぼく」をさらに追い詰めるばかりになってしまう。
そこで次の詩句では、「ぼく」は夢想を終え、家の中から外へと踏み出していくことになる。(続く)