
高知に行けば、桂浜に行く。桂浜に行けば、龍馬の像を見上げる。たいていの人が、たぶん、そうなる。
いまの日本で坂本龍馬は、よく知られ、よく愛されている。薩摩と長州を結び、幕府を倒す流れに関わった人物であり、しかも明治維新の直前に暗殺されて、あっけなく人生が途切れる。史実だけでも十分に劇的だ。
けれど、人気の芯は別のところにあるのかもしれない。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』で語られる「たとえどぶの中でも前向きに倒れて死ね」のような言葉や、「日本の夜明けぜよ」といった台詞のイメージが、彼の輪郭をいっそう明るく照らしている。龍馬はいつしか、前向きに生きることの代名詞になった。
そんなことを思いながら、桂浜の空を背にして立つ像の前に立った。潮の匂いと風の音のなかで、どうでもよさそうで、しかし一度浮かぶと消えない疑問がよぎった。
明治維新は、本当に日本の「夜明け」だったのだろうか。もし夜明けなら、その前の江戸時代は「闇」だったのだろうか。
江戸時代には、元禄の華やかさがあり、浮世絵や琳派があり、町人文化の活気がある。もちろん、理想郷ではない。けれど、暗黒と呼ぶには、あまりにも色が多い。
ただ十九世紀になると、話は急に重くなる。欧米列強の植民地政策のうねりが押し寄せ、ペリーの黒船に象徴されるかたちで開国を迫られ、日本は難しい判断を突きつけられた。幕府は開国に傾き、薩摩や長州などは「尊皇攘夷」を掲げて外国人排斥を強く主張する。国全体が、硬い殻の内側から揺さぶられていた。
面白いことに、倒幕を果たした薩長連合が明治維新政府の中心となると、それまでの「攘夷」とは反対に開国へと道を開き、欧米に使節を派遣して近代化政策を推進した。
その変わり身の早さは、第二次世界大戦の敗戦後まで「鬼畜米英」と叫び、原子爆弾を投下されるに至ってなお戦い続けた大日本帝国が、昭和天皇の玉音放送で敗戦を知った後には、「ギブ・ミー・チョコレート」と米兵に駆け寄った、そうした変化とも響き合う。
そして、こうした現実主義は決して否定されるべきものではなく、日本という国が欧米を中心とする、いわゆる国際社会の中で生き抜くための生存術として、一つの知恵にほかならない。
そう考えると同時に、では1868年の明治維新から昭和20年(1945年)の終戦までの日本は、本当に「夜明け」の後に、夜の闇から抜け出していたのだろうか。そんな疑問が浮かんできたのだった。
明治維新政府は、十九世紀の清が半植民地化されていく姿を目の当たりにした。自国が同じ運命をたどらないためにも、文明開化と呼ばれた近代化政策を、息つく間もなく押し進めた。
その柱となったのが「富国強兵」と「殖産興業」である。国力を高め、「脱亜入欧」を合言葉に、植民地化される側のアジアの国という立場から抜け出し、植民地主義を推進する欧米列強の側へ回ろうとした。そうした選択が、驚くほどの速度で現実になっていったことは否定しにくい。
それは、明治維新以降、日本がどれほど頻繁に国外へ武力を行使してきたかを見るだけでも、はっきりする。ここで言う武力行使には、宣戦布告を伴う「戦争」だけでなく、出兵や事変と呼ばれた軍事行動も含まれる。名称は違っても、いずれも国境の外へ兵を送り、力によって現状を変えようとした点では共通している。
一八九五年以降、日本は台湾を領有し、一九一〇年には朝鮮半島を併合した。さらに満洲へと影響力を拡大し、日中戦争へ、そして太平洋戦争へと進んでいく。戦場は近隣諸国にとどまらず、第二次世界大戦ではドイツ(ヒトラー)、イタリア(ムソリーニ)と三国同盟を結び、連合国と戦うまでに至った。
主な出来事を並べておく。
- 1874年 台湾出兵 (→琉球の日本への帰属)
- 1875年 江華島事件 (釜山での軍事活動など)
- 1876年 日朝修好条規(不平等条約)
- 1894〜1895年 日清戦争(下関条約、台湾割譲=植民地化)
- 1904〜1905年 日露戦争
- 1910年 韓国併合(朝鮮半島の植民地化)
- 1918〜1922年 シベリア出兵
- 1927年 山東出兵
- 1931年 満州事変
- 1932年 満洲国建国(1934年に帝制)
- 1937年 日中戦争
- 1941年 太平洋戦争(真珠湾攻撃)
- 1945年 敗戦

この間、日本が領有・支配した地域は、台湾、朝鮮半島、南樺太、関東州、そして太平洋戦争期の東南アジア各地へと広がっていった。
- 台湾:1895年から1945年まで
- 朝鮮半島:1910年から1945年まで
- 南樺太:日露戦争後に獲得し、1945年まで
- 関東州:1905年以降、租借地として支配
- 太平洋戦争期の占領地:香港、東南アジア(シンガポール、フィリピン、ビルマ、インドネシア、仏領インドシナなど)
こうして振り返ると、大日本帝国は八十年に満たない期間、ほとんど途切れることなく国外で軍事行動を続けていたことがわかる。
そして敗戦に至るまでは、多くの場合、それらの行動は国内では「勝利」として受け止められてきた。
実際、第一次世界大戦後に国際連盟の常任理事国となったことは、日本が列強の一員として国際的に承認されたと感じられた出来事だった。
「脱亜入欧」という目標が、少なくとも当時の日本人の目には達成されたように映ったに違いない。
しかしその一方で、日本が長く近隣諸国と緊張関係を保ち、ときに戦争状態にあり続けたことも、また確かな事実である。勝利と感じられた出来事の積み重ねが、同時に、次の武力行使を呼び込んでいたとも言える。
このように見てくると、明治維新以降の日本は、少なくとも第二次世界大戦の敗北以前において、ほぼ常に戦争や軍事行動を続けていたことがわかる。そうだとすれば、坂本龍馬の「日本の夜明けぜよ」という言葉は、明るい時代の到来を告げるものというよりも、むしろ長い戦争の時代の幕開けを予告する言葉のようにも聞こえてくる。
そして、約八十年にわたって戦争が続き、徴兵制によって駆り出された多くの庶民が、望んでもいない戦場で、どれほど多くの敵対する人々の命を奪い、また自ら命を落としていったのかを思い描くと、「夜明け」など実際にはなかったのではないか、あるいは、江戸時代のままでもよかったのではないかとさえ考えてしまう。
坂本龍馬から離れることになるのだが、現在日本が置かれている状況を少しだけ考えてみよう。
明治維新以降の戦争をめぐる現在の日本人の意識は、大きく分ければ二つに分かれているように見える。ただし、その力関係を考えると、全体としては、欧米の植民地主義を正当化してきた論理と、どこか同じ方向へ傾きがちではないか、という印象を受ける。
正当化の論理は、おおよそ次のような形をとる。
植民地政策には反省すべき点があるにせよ、非文明とされた地域に近代的な制度や産業を導入し、結果として社会や文化の発展に寄与した面もある。功罪は半ばするとしても、文明化という観点から見れば、基本的には正しい政策だったのだ、という考え方である。
日本の場合、これにもう一つの正当化が重ねられる。
それは、日本が欧米列強によって植民地化されていた地域を解放した、という語りである。太平洋戦争において掲げられた大東亜共栄圏の構想は、東アジア・東南アジアを欧米の支配から解放することを目標としていた。そして実際、戦後、それらの国々が独立したのだから、「植民地からの解放」という目標は達成されたのだ、という理解である。
こうした見方に立つ人々にとって、戦争の時代の日本は、基本的に前向きに評価されるべき対象となる。そのため、戦争の負の側面に光を当てたり、軍事力の強化に疑問を呈したりする議論は、批判の対象になりやすい。
その際に用いられる言葉も、すでに一式そろっている。
自虐史観
現実離れした平和主義
お花畑
平和ボケ
戦争の脅威に対する想像力の欠如
理想論で現実の国際情勢を無視した願望
おそらく、こうした考え方に立つ人々は、明治維新以降の数多くの戦争の局面においても、日本の軍事力を信じ、国威発揚の空気に身を委ね、戦争の遂行や継続を支持してきたのだろう。
そして現在においても、軍事力の増強、さらには核武装こそが「自衛」のための最良の方法だと確信しているように見える。
そのため、過去にそうした声が積み重なった結果、日本が敗戦へと至ったのではないか、という指摘に対しても、強い反発が返ってくる。
過去の戦争を肯定的に捉えているのだから、それを批判する声は「自虐的」だとか、「現実を見ていない」とか、現在であれば「中国の脅威に対して弱腰だ」といった言葉が投げ返されることになる。
興味深いのは、植民地支配や戦争に対する意識の底流に、「脱亜入欧」の感覚が今なお生きているように見える点である。アジアの国である中国、北朝鮮、韓国などに対しては厳しい視線を向ける一方で、白人中心の秩序に対しては比較的融和的であり、トランプ大統領を支持する人々も少なくないように見える。
現在は、幸いなのか不幸なのかはわからないが、「核抑止力」という概念が、かろうじて機能しているようにも見える。核を保有することで、敵国からの攻撃を防ぐことができるのだと、多くの人が信じている。
この考え方は、核大国であるアメリカ合衆国とソ連が対峙した冷戦期に、「核は抑止力である」という思想として広く共有されるようになった。実際、核開発を放棄したリビアのカダフィ政権が軍事介入によって倒れ、またウクライナが侵攻にさらされている現実を前にすると、核抑止には一定の実効性があるようにも思えてくる。
しかし、ウクライナ戦争の初期には、プーチン大統領による核兵器使用の可能性が、繰り返し議論された時期があった。実際に核が使用されることはなかったものの、核戦力の即応態勢に言及する発言が相次ぎ、世界が強い緊張に包まれたことは記憶に新しい。
また、インドとパキスタンという核兵器を保有する国家同士が、過去に何度も軍事衝突の瀬戸際まで進んだことも事実である。全面戦争には至らなかったとはいえ、誤算や偶発的な衝突次第では、核保有国同士の戦争が現実になりかねない局面が、たしかに存在してきた。
もし一歩判断を誤れば、広島や長崎に投下された原子爆弾をはるかに上回る威力をもつ核兵器が、実際に使用される可能性は決してゼロではない。核抑止が「機能している」と言われる現在においても、その均衡はきわめて不安定なものにすぎない。
その危険を想像しないまま「お花畑」と言い放つのだとすれば、少なくとも、想像力の欠如を他人にだけ帰すことはできないだろう。
さらに「防衛」という言葉について言えば、どの国でも、軍事力の強化を進める際には、たいてい「防衛力」という言い方が用意される。相手を攻撃するためではなく、自国を守るための武力なのだ、と。そう言い換えた瞬間、先制攻撃でさえ「防衛」の名のもとに正当化されやすくなる。危険の除去を掲げるなら、国際法の枠組みさえ脇へ置いてよい、という発想が顔を出す。
実際、2025年6月には、トランプ政権下の米軍がイランの核施設を攻撃したと報じられた。 国際法で禁じられている核施設に対するその攻撃に対する反応は、支持・理解を示す声もあれば、強い懸念や批判もあり、一枚岩ではなかった。 それでも、「防衛」や「抑止」という語りが、武力行使への心理的な抵抗を薄めてしまうことはある。
「攻撃は最大の防御」という言葉が示すとおり、「防御」を主張することが、いつのまにか「攻撃」へと接続されることがある。その意識を欠いたまま、「防御」という言葉だけで軍事力の増強を語るなら、それ自体が戦争を誘発する危険をはらむ。そこは、どうしても意識しておきたい点である。
防衛省のパンフレットには、「なぜ、いま防衛力の抜本的強化が必要なのか」の理由として、次のような、ごく当たり前にも思われる言葉が見られる。
「他国との外交によって戦争を未然に防ぐことが最も重要です。しかし、外交努力を尽くしても戦争に至ってしまうことがあります。戦争を未然に防ぐためには、他の国に『日本を攻めても目標を達成できない』と思わせることが必要です。」
しかし、仮想する敵が圧倒的な軍事力を持つ場合、私たちはいったいどうするのだろう。
たとえば、もし現在のアメリカ合衆国の攻撃にさらされるとしたら、どれほど防衛力を強化したところで、同じ論理がそのまま通用するとは思えない。
そう考えると、軍事力の強化は結局、相手次第ということになり、どこまでいっても際限がなくなってしまう。
としたら、逆転の発想に立つことも可能ではないか。
防衛省のパンフレットで言えば、「しかし」以前の前提、すなわち「他国との外交によって戦争を未然に防ぐことが最も重要です」という部分に立ち戻ることである。
また、人を殺さないためには、殺人のための武器を持たないことだ。武器を持てば、いざというときに使いたくなる。それが人情というものだろう。
そんな発想は確かに、「お花畑」的思考に見えるかもしれない。しかし、「力による平和」といった言葉に無自覚にうなずくよりも、世界全体が軍事力の削減へと向かい、話し合いによる解決を目指す方が、はるかに健全であることは間違いない。
そして、それを「お花畑」と呼ぶのだとしたら、むしろ、美しい花を眺めることのできない人間の想像力こそが問われるべきではないだろうか。
力を持てば、相手を力で屈服させようとする。その発想に疑問を抱かず、争いを「現実的」だと信じてしまう思考のあり方そのものを、一度想像してみる必要がある。