日本語を漢字で表記し始めた段階 法隆寺金堂 薬師如来像 光背銘 1/2 

漢字仮名交じり文が日本文化の最も大きな特色の一つだとするならば、どうしても調べてみたくなることがある。
それは、文字をもたなかった時代に、中国大陸との交流を通して古代中国語による文語、すなわち漢文を知った私たちの先人が、外国語の書記記号である漢字を用いて、どのように日本語を書き記そうとしたのか、また、その過程でどのような工夫を凝らしたのか、という点である。

まず、古代中国語によって書かれた文、すなわち漢文と、日本語との根本的な違いを見ておこう。

 民不畏死 : フン・フ・イ・シ (『老子』)

語順は、主語+動詞+目的語である。
文法的には、動詞は活用せず、日本語の助詞に相当する形態素は存在しない。また、文中の語の関係は、主として語順や文脈によって示される。
発音は単音節で、一つの漢字に一つの音が対応する。すなわち、民=ミン、不=フ、畏=イ、死=シ、である。

タミハ シヲ オソレ ナイ 

語順は、主語+目的語+動詞(+否定辞)となる。
文法的には、動詞は活用し、文中の語の関係は助詞によって明示される。
発音は、シ(si)のような単音節もあれば、タミ(ta-mi)、オソレ(o-so-re)のような多音節語も存在する。

このように、日本語は漢文とは構造的にまったく異なる言語である。
その日本語を、漢字という別言語の書記体系を用いて表記し、最終的に「民は死を畏れない」という形で、漢字と仮名を交えて書き表せるようになるまでには、数百年に及ぶ歳月を要したであろうことは、想像に難くない。

ここでは、その過程を知るための代表的な例として、法隆寺金堂に収められた薬師如来像の背面に書かれた光背銘(623年)を読んでみよう。

池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳
次丙午年召於大王天皇與太子而誓願賜我大
御病太平欲坐故将造寺薬師像作仕奉詔然
當時崩賜造不堪者小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉

これは90の漢字で記された日本語らしいのだが、全てが漢字で書かれているだけで、日本語ではないと思ってしまう。それほど私たちは漢字仮名交じり文に慣れ親しんでいることになる。

しかたがないので、前の方から少しづつ分解して、理解していこう。


池邊大宮 – 治天下 – 天皇 大御身 – 勞賜 – 時

池邊大宮(いけべのおおみや)に、天下(あめのした)を治(おさ)める、天皇(すめらみこと)の大御身(おほみみ)、勞(つか)れ給(たま)ひし時(とき)

a. 「いけべのおおみや」

このように発音される地名が、どのように漢字で表記されたのかを、具体的に見ていこう。

「いけ」に対しては、意味が対応する「池」という漢字が用いられている。
このように、日本語の語の意味に対応する漢字を当てる用法を「訓読み」と呼ぶ。

同様に、「おお(おほ=大きい)」には「大」、「みや」には「宮」という漢字が用いられており、これらも訓読みの例である。

「いけ」に続く「べ」は、「ほとり・あたり」を意味する語であり、意味の上では「邊」という漢字を当てることができる点で、これも訓読みと考えられる。
一方、その読みが「べ」となっている点については、中国語の音「ヘン」に由来する音が変化したものと考えられ、この点においては音読み的な要素を含んでいる。

「いけべの」の「の」は日本語の格助詞であるが、漢文には助詞という語類が存在しないため、ここでは漢字が用いられていない。

b. 「あめのしたをおさめる」

「治天下」が動詞+目的語(VO)という漢文の語順で書かれていることは、この時代には、漢文そのものが用いられる場合があったことを示している。

しかも、「おさめる」という動詞の活用は反映されず、「治」という一字のみで表されており、その点においても、表現は日本語ではなく漢文的である。

他方で、「あめのした」に相当する部分では、「天(テン)」と「下(ゲ)」という漢字が意味に基づいて訓読されており、日本語の「の」に相当する要素は表記されていない。この点でも、表現は漢文風であると言える。

漢文においては、「王治天下」が正統な表現として広く用いられていたため、「治天下」という表現も、そうした漢文の用例に従ったものと考えられる。

c.「すめらみことのおほみみ」

「すめらみこと」の「すめ」は、「清い」「高貴」「神聖」といった性格を表す語であり、「ら」は称号・尊称を形成するための接続的な要素であると考えられる。
「みこと」は、本来「言葉」や「命令」を意味する語であるが、転じて神や天皇に対する尊称として用いられた。
したがって、「すめらみこと」という称号は、宗教的・祭祀的権威を帯びた首長に付与された称号であったと考えられる。

その首長に対して「天皇」という漢字を充てることは、音読みでも訓読みでもなく、中国に対して日本の支配者の存在を位置づけるために作り出された表記である。

七世紀以降、日本は律令国家を目指し、中国の天子と対等の立場にあると主張しようとしていた。その際、「王」は皇帝の臣下という序列に置かれ、「皇帝」や「天子」は中国皇帝の専用語であるため、用いることができなかった。
その結果、天の下すべてを統べる尊く大いなる存在という意味を込めて、「天皇」という名称が作り出されたと考えられる。

「天皇」という名称が、「日本」という国名とほぼ同じ時代に使用されるようになったことはよく知られているが、これらが日本国内に向けられたものではなく、東アジア漢字文化圏の中で自己の存在を強く主張するためのものであったことを、ここで改めて確認しておきたい。

一方、「おほみみ」の「おほ」は、「大きい」「重要である」といった意味を帯びた敬意表現であり、「み」も神聖な対象に付される敬語接頭辞であると考えられる。
漢文には、このように敬意を接頭辞や接尾辞として重ねて表す表現は存在しない。そのため、天皇の身体を敬って表現する「大御身」という語は、きわめて日本語的な表現であると言える。

d. 「つかれたまいし」

「つかる」は、単に疲れるという意味にとどまらず、体調を崩すことや、病にかかることを含意する語である。

「たまふ」は、ここでは尊敬の補助動詞として用いられており、「(目上の方が)〜なさる」という意味を付け加える働きをもつ。
漢文には、このような尊敬の補助動詞は存在しないため、この部分の表現もまた、きわめて日本語的であると言える。 


こんな風に、最初の15文字を読むだけでも、頭がくらくらするほど複雑だと感じられる。面倒だな、もういいや、と思ってしまいそうになる。

しかし、そうした思いに駆られれば駆られるほど、文字のなかった日本語を漢字で書き表そうとした当時の人々の創意工夫や苦労の大きさが、ひしひしと伝わってくるのも事実である。

そんなわけで、辛抱しながら、もう少し読解を続けてみよう。


歳次丙午年召於大王天皇與太子而誓願賜

歳次(さいじ)、丙午(ひのえうま)の年(とし)、大王天皇(おほきみ すめらみこと)の御前(ごぜん)において召し、太子(たいし)とともに、誓願(せいがん)を賜(たま)ふ。

a. 「さいじ、ひのえうまのとし」

「さいじ」に充てられた「歳」は、暦の上の「年」を意味し、「次」はその配列・序列を示す語であることから、「歳次」は「年次」を表す形式語と考えてよいだろう。

「ひのえ」は火の陽(=兄)、「うま」は動物の馬であり、前者は漢字の「丙」に、後者は「午」に対応する。「午」については、中国では十二支の一つを示す記号であるが、日本では動物「馬」を代表するものとして用いられた。

そして日本の暦上には、すでに「ひのえうま」という年の呼称が存在していたため、その対応表記として「丙午」という漢字が充てられ、訓読されることになった。

なお、中国においても丙午は干支の一つではあるが、特別に不吉とされるイメージはない。
他方、日本では、火は災害や戦乱を、馬は制御しにくさや荒々しさを想起させるため、それらが結び付くことで「火が暴走する」イメージが生まれ、古代には天変地異や疫病を連想させる年と理解されるようになった。さらに江戸時代以降になると、丙午生まれの女性は気性が激しく、夫を滅ぼすという観念が形成されていった。

「歳次丙午年」という表現は、おそらく当時「サイジ・ヒャウゴ・ネン」などと発音されたと考えられる。しかし、これは薬師如来像の光背の裏面に刻された90文字の銘文であり、人々はそれを音として読むというよりも、漢字を目で追い、「その年次は、ひのえうまの年である」と理解していたのではないかと推測される。

B. おほきみ すめらみことにおいてめし

「おほきみ(大王)」は、「天皇」という称号が成立する以前に、首長的支配者に対して用いられていた称号である。そこに、「大きい」「尊い」といった意味をもつ「大」と、支配者を表す「王」を組み合わせて、「大王」と表記された。

「すめらみこと」は、すでに述べたように、「天皇」という漢字を用いて表記された称号である。

「大王天皇」と二つの称号を重ねて表現することによって、国内の統治者としての「大王(おほきみ)」が、東アジアの漢字文化圏においては「天皇(すめらみこと)」として位置づけられる存在であることを示そうとした、称号の二重化であると考えられる。

その名称の前に置かれた「召於(においてめす)」は、漢文の語順による表現であり、動詞の「召す」が前に置かれ、「於」によって場所が示されている。
ただし、中国の漢文では、「於」の後には「至朝(朝廷において)」のように場所を表す語が置かれるのが一般的であり、人名を「於」の目的語に取る例は特殊であるとされる。
その点において、ここでの表現は、中国の漢文に依拠しつつも、日本的要素を取り入れた、和製漢文であると考えられる。

C. たいしとともに (しかる後に)せいがんをちかう

たいしとともに」では、漢文的な構文が用いられている。すなわち、「…とともに」を意味する「與」が名詞である「太子」に先行し、「與太子」と記されている点である。
ただし、中国の正統的な漢文では、「與」に続く名詞の後に「共・之・以」などが補われることが多い。それらが用いられていない点は、日本的な漢文の特徴であるといえる。

また、動作の展開を示す接続語「而」(=しかる後に)が、後続の動詞句「誓願賜」の直前に置かれている構文も、日本的である。この「而」を挿入することによって、「~とともに、~する」という日本語の語順が明確になり、「太子とともに」と示された後に、「誓願を賜ふ」という行為が続くことが、はっきりと表現されている。

さらに、「誓願を立て、これを天下に宣する」ということを意味する「誓願賜」は「誓願(目的語)+賜(動詞)」という語順をとっており、これは日本語の語順(OV)に一致する。

なお、「太子」と「誓願」は、いずれも音読みである。
「太子」は中国で用いられていた官職名であり、「太(タイ)」と「子(シ)」から成る漢語である。
「誓願」は「誓(セイ)」と「願(ガン)」から成る仏教由来の専門漢語で、「誓って願うこと」を意味する。

D. 天皇と太子

法隆寺金堂薬師如来像光背銘は、推古天皇・厩戸皇子(うまやどのおうじ)の時代を背景とすることが、ほぼ学界の共通理解となっている。したがって、大王天皇は推古天皇を指し、太子は厩戸皇子、すなわち聖徳太子を指すと考えられる。

この銘からは、推古天皇が最高権威として現れ、太子が仏教的実践の担い手として寄り添う姿が浮かび上がってくる。また、一堂に会した王族・僧侶・仏師たちを前にして、誓願を立て、宣言したことが伝わってくる。

さらに、その誓願が立てられた年は「丙午(ひのえうま)の年」であり、用明天皇元年(586年)にあたるとされる。

では、請願の内容は何か? それが次の一節から明らかになる。(1/2に続く)

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