感情的即断(感情ヒューリスティック)の時代

マーケティングの世界では、「感情(情動)ヒューリスティック」という言葉がよく使われる。人の感情に訴えることが、ビジネスの成功につながる重要な要素だと考えられているからだ。

しかしその一方で、SNSで見られる攻撃的な言動と、この「感情(情動)ヒューリスティック」が結びついている可能性について語られることは、あまり多くない。

「感情ヒューリスティック」は Affect Heuristic を日本語化した表現だが、「ヒューリスティック」というカタカナ語は少しわかりにくい。
そこでここでは、これをもっと身近な言葉である「即断」と言い換え、「感情的即断」と「攻撃性」の関係について、少しだけ考えてみたい。

感情的即断

ヒューリスティック(heuristic)」という言葉は、次のように定義できる。

何かを判断する際、論理的な思考を重ねるのではなく、それまでに蓄えた経験的な知識にもとづいて、いくつかの選択肢の中から最適なものを選び取る、発見的な問題解決、あるいは決断の仕方。

ここでのポイントは、経験則に応じて決断に達することで、直感的に素早く結論を下すという点にある。その能力のおかげで、私たちは何かを判断するたびにいちいち時間をかけて考え込むことなく、生活をスムーズに進めることができている。

したがって、「感情ヒューリスティック(affect heuristic)」とは、判断の基準が「感情(affect)」となり、判断が瞬時に行われることを意味する。まさに「感情的即断」である。

実際、即断を促すのは、「好き・嫌い」や「快・不快」といった感情であり、正確な知識や分析、論理といった過程はショートカットされ、素早く結論が下される。

その典型的な例が、インフルエンサーの影響力だ。好きなインフルエンサーが勧める商品であれば、その情報の客観性を確認することなく、即座に「良い」と感じ、購入する。
反対に、嫌いな人物の話であれば、それがどれほど理路整然としていても、耳を傾けようとしない。

「好き・嫌い」の感情が瞬時の判断を導くこうした過程は、脳が膨大な情報をいちいち論理的に検討する負担を省き、効率よく処理するという意味で、大きなメリットを持っている。

しかしその一方で、この即断は意識的で主体的な行為というより、無意識のうちに高速で下される判断である。そのため、自分の判断でありながら、その主体性が十分に意識化されないという側面を持つ。

そして、この点こそが、SNSにおける攻撃性と結びついているのではないか、ということに注目したい。

攻撃性

「感情的即断」では、論理的な情報処理能力は十分に働かず、対象に対する「好き・嫌い」や「快・不快」といった感情だけが前面に出る。その結果、私たちは感情に支配された状態に置かれることになる。

そうした状況では、相手が何を考えているのか、言葉の内容が何を意味しているのかを検証する余裕がなくなる。好きな相手であれば無条件に受け入れ、嫌いな相手であれば敵対するという、ほとんど二択の反応になってしまう。

そこで起こるのが、自分と違う意見や、自分の思い通りにならない状況に対して、「ムカつく」「気に入らない」といった否定的な感情(ネガティブ・アフェクト)が瞬間的に立ち上がるという事態である。
気に入らないことがあれば、すぐに「ムカつく」。

この不快感は、多くの場合、さまざまなストレスに由来する。
家庭や学校、職場などでストレスが溜まっているとき、そのはけ口として、ムカつく対象を直感的に「悪い」と決めつけ、攻撃的な感情を抱き、ときにはそのまま行動に移してしまう。

その際、感情バイアスによる認知の歪み、つまり「嫌いな相手は何をしても憎い」といった感情が激化し、攻撃の対象に対して危険性やリスクを過大に評価することも起こりうる。
さらに進めば、自分の抱いている不快な感情を、相手からの「敵意」として解釈してしまう可能性さえある。

しかも、こうした感情の動きは、主体的な判断の結果というより、「感情的即断」によって無意識のうちに生じる。そのため、本人には自覚されないまま、感情が人を動かすということが起こってくる。
つまり、攻撃の正当性が意識に上ることはなく、「相手は悪であり、それを攻撃する自分は正しい」という構図が自動的に成立してしまう。
あるいは、そこまでの意識すらなく、ムカつく対象があれば攻撃を繰り返すだけ、という場合もある。

その中でも驚くべき例が、オリンピック選手に対する誹謗中傷だ。
2026年にイタリアで行われる冬季オリンピックに向けて、日本オリンピック委員会がSNS上の悪質な投稿を24時間体制で監視し、選手をサポートすると発表している。すでに1月19日から2月3日の間に、不適切な可能性のある投稿を約2000件検知したという。

こうした誹謗中傷を行う人々は、その場で行為の善悪を判断する思考を働かせる前に、攻撃へと突き動かされているのだろう。それはまさに「感情的即断」に促されている状態だ。

攻撃性はときに、レイプや殺害予告といった悪質な形を取り、さらに進めば現実の暴力にまで及ぶことさえある。

そして繰り返すことになるが、それらが「感情」に支配され、意識を伴った主体的な行為として認識されないところに、最大の問題がある。

アルゴリズムの働き

SNSにおいて「感情的即断」が加速される背景には、アルゴリズムの存在がある。

SNSは単なる情報の掲示板ではなく、ユーザーが何を見て、何に反応するかを常に計算しながら、表示する投稿を選び取っている。つまり私たちが見ているタイムラインは偶然ではなく、「長く滞在し、反応しやすい情報」が優先的に並べられている。

そして、そこで最も強く反応を引き出すのは、論理的で穏やかな情報よりも、「怒り」「嫌悪」「不安」「興奮」といった強い感情を伴う情報である。

実際、冷静な説明よりも、挑発的な言葉、断定的な非難、敵味方を分ける単純な構図のほうが、瞬間的に「ムカつく」「許せない」といった感情を呼び起こしやすい。

すると人は即座に反応し、コメントし、拡散する。その反応が多ければ多いほど、SNSのアルゴリズムは「これは人々の関心を引くコンテンツだ」と判断し、さらに多くの人に届ける。

こうして、感情を刺激する投稿ほど可視化され、感情的な即断ほど繰り返されるという循環が生まれる。

さらにSNSの情報は短く、断片的で、流れる速度が速い。そこで求められるのは熟考ではなく即答であり、立ち止まって考える時間そのものが奪われていく。結果として、論理的な検討よりも、「好き」「嫌い」「快」「不快」による反射的な判断がますます優位になる。

加えてアルゴリズムは、ユーザーが好む情報を学習し、似た傾向の投稿を次々に提示する。そのため、自分と同じ感情や価値観が強化され、反対意見は「異物」や「敵」として現れやすくなる。ここでもまた、二択の感情的判断が促進される。

つまりSNSのアルゴリズムは、人間の感情的即断を利用して注目を集め、注目を集めることでさらに感情的即断を増幅する装置として働いている。

攻撃性が拡大する背景には、個人の心理だけではなく、この環境そのものが関わっているのである。

「感情的即断」システムから逃れられない現代社会

現代社会の経済活動には、「感情的即断」が深く組み込まれている。マーケティングでは、そのシステムを稼働させることが商品販売を促進する有効な方法であると説かれ、そのための施策が日々模索されている。

また、簡潔でわかりやすい言葉が「感情的即断」を作動させる仕組みも準備されている。その典型が「推し活」という言葉や、それに付随する「ナラティブ」と呼んでもよい短いフレーズだろう。

「推しが頑張っているから自分も頑張れる」「仕事や勉強のモチベーションになる」「推し活で癒やしを得る」といった短いナラティブが流通することで、時には同じCDを何十枚も買ったり、推しが印刷されているだけのグッズに多額の金額を費やしたりするなど、通常の感覚では無駄と思えることにまで、多大なエネルギーと金銭が注ぎ込まれる。
そして、その動きは若者だけではなくシニア世代にまで広がっている。
そしてこうした例を出しただけで、「何が悪い」「人の自由に口を出すな」「勝手に批判するな」といった反論が数多く出てくるに違いない。
「同じCDを何十枚も買うこと」について合理的に議論することは難しい。そこは理性を超えた喜びの世界であり、その行為が肯定される世界でもあるからだ。
その結果として、「推し活」の経済効果は年間で3〜4兆円に達するという試算もある。

大量の情報がSNSを通じて流通する社会の中で、私たちはこうした「感情的即断」を作動させる仕組みから逃れることは難しい。
もちろん、「反応する前に一拍置く」「タイムラインを閉じて見ない時間を作る」「自分の感情に名前を付け、ムカつきを対象化する」といった対応策は提案されている。しかし、情報を受け取った瞬間に即座に判断が下されるからこそ、それは「即断」なのである。
しかもそれが感情にもとづく判断である以上、いったん下された好悪や善悪の判断に対して、事後的に論理を導入し、時間をかけて考え直すことは容易ではない。

結論から言えば、現代社会の中で「感情的即断」システムから逃れることは非常に難しい、ということになる。

淡い期待

非常に難しいという結論を導いた後で、それでも何か対策があるのかと問われれば、有効な手段を見出すことは本当に難しい。

それでも私としては、一つだけ、学校における「国語」に期待してみたい。
文学作品を読み、あらかじめ結論を導き出すのではなく、生徒たちに多様な視点を提示させるのである。そのことを通して、自分の意見が他者の意見とは異なるものであり、自分の意見は自分自身の姿を映し出す鏡でもあることを自覚させる。

例えば芭蕉の俳句でも、中原中也の詩でも、芥川龍之介や太宰治の短編でもよい。どんな作品でも構わないので、じっくり時間をかけて読ませ、感想を述べさせ、その理由を問い直す。そうした作業を重ねることで、最初に抱いた「感情的即断」を超えた思考へと導くことができれば、最初の感情の動きの背後に、まだ別の何かがあることに気づけるだろう。

学校時代にこうした経験を繰り返しておくことで、経済活動に組み込まれた「感情的即断」システムをくぐり抜け、時間をかけて思考を重ねることのできる人間性を形成できるかもしれない。

なぜなら現代社会では、立ち止まって考える者よりも、即座に反応し、断定し、時に攻撃する者のほうが目立ちやすく、その衝動がアルゴリズムによって増幅されるからである。

だからこそ、感情の即断に飲み込まれず、言葉を読み、他者の視点を受け止め、自分の反応を問い直す訓練だけは、社会の攻撃性に抗うための最後の防波堤になりうる。そんな期待をしてみたい。

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