日本語を漢字で表記し始めた段階 法隆寺金堂 薬師如来像 光背銘 2/2 

推古天皇と聖徳太子の前で行われた請願の内容が次に記されていく。

我大御病太平欲坐故

A. 「われ」— 我

ここでは、日本語の一人称「われ」あるいは「わが」という概念に対して、漢字「我」が充てられている。読みは訓読みで「われ」とする。

光背銘では、寺や仏像を建造する側の人間を指す主語として使われていると解釈できる。したがって、ここでの「我」は天皇ではなく、天皇の命令を受けた側の人間を示す。

B. 「おほみやまい」— 大御病

「やまい」という日本語の概念、すなわち天皇の病を表す言葉に対して、「病」という漢字が充てられている。

その病が天皇に関わるものであるため、尊敬を込めて「おほ」と「み」という言葉を重ね、「大御」という漢字を冠している。
そのことで、「大御病」は「天皇の病」を敬意をもって表現することになっている。読みは訓読みで「おほみやまい」とする。

C. 「たいへい ましますことを ほっす ゆえに」 — 太平欲坐故

「たいへい」という日本語の概念(天下の平安・世の安定)に対して、漢字「太平」が充てられている。

「まします」という日本語の意味(治まる・存在する)を表すために「坐」が充てられ、天下が安定している状態を示す。

さらに、「ほっす(望む・願う)」という日本語の動作を表すために、「欲」という漢字が用いられ、動詞「坐」を修飾する補助動詞的役割を果たしている。

最後に、「ゆえ(〜のために・だから)」という日本語の意味を表すために、「故」という漢字が充てられている。

したがって、「我大御病太平欲坐故」は、「「私は(造像者として)、天皇が病にかかっておられるので、天下が太平に治まりますようにと願うゆえに」といった意味だと解釈できる。


将造寺薬師像作仕奉詔

A. 「まさにてらをつくり」— 将造寺

「まさに」には、未来や意志を表す「将」(ショウ)の漢字が充てられ、これから何をしようとするのかがはっきりと示されている。

「てらをつくり」に関しては、動詞と目的語の関係が逆転され、漢文風に「造寺」と動詞+目的語の順に置かれている。

この寺が法隆寺を指すことは言うまでもない。

B. 「やくしぞうをつくり」—薬師像作

ここでは、「やくしぞうをつくり」の動詞と目的語の順番がそのまま保たれ、「薬師像作」と記されている。

前の「造寺」の語順と一致しないところにも、日本語を漢字で書き表す際に、まだまだ一定した書記法が定まっていなかった形跡を見て取ることができる。

その一方で、もう一つの興味深い点は、「造」と「作」を使い分けている点である。
「造」は、国家的事業としての建立するといった含意があり、寺院建立や伽藍整備の際に用いられる。
「作」は、仏師などの人の手による制作を前提にし、仏像や画像や工芸品などに対して使われる。
ここでは、寺に対して「造」、仏像に対して「作」が使われ、この文章を書いている人間は、しっかりとした漢文の素養を持っていたことがうかがわれる。

C.「つかえまつらむとのたまへり」—仕奉詔

この部分は、「天皇の命を受けて、寺の建築と薬師像の制作に関わる職務を果たす」という、この銘文の核心を成す表現である。日本語を単に漢字で書き留めたものではなく、漢文の表現をそのまま用いたものと考えられる。

「仕」(シ)は、官職に就き、上位の者に仕えることを意味する。

「奉」(ホウ・ブ)は、上位者の意志や命令を謹んで受け、それを実行することを表す。「詔」(ショウ)は、訓読みで「みことのり」と読み、天皇の公式命令を意味する。
この二字が連続する「奉詔」は、天皇の命令を敬意をもって受けることを表す、漢文として固定した成句である。

その前に「仕」が置かれることで、詔(みことのり)を一時的に受けるのではなく、官人としての職務として遂行するというニュアンスが付け加えられている。

こうした公式表現が用いられていることは、書き手が漢文の官僚語彙を理解し、中国の詔勅文体を強く意識していたことを示しており、その漢文能力がきわめて高かったことの証拠だといえる。

別の言い方をすれば、紀元7世紀前後に、日本語を漢字で表記した人々は、単に漢字を借用したのではなく、十分な漢文能力を前提として、その知識を応用しつつ、日本語の書き言葉の実践を模索していたのである。
そうした姿が、法隆寺金堂薬師如来像光背銘を読むことで、きわめて鮮明に浮かび上がってくる。


然當時崩賜造不堪者

この一節から、「しかしその当時、天皇が崩御されたため、天皇の御命令によって進められていた造営事業を続けることができなくなった」ということが読み取れる。

A. 「しかれどもとうじくずれ」—然當時崩

   用命天皇

「しかれども」に「然」(ゼン)、「とうじ」に「當時」という漢字を充てるのは訓読であり、日本語の語に漢字を当てはめた表現である。

「くずれ」は、天皇が崩御することを婉曲的に表す語であり、ここでは「崩」(ホウ)の字が用いられている。

この天皇は、すでに病に伏していたことが記されている用明天皇である。
用明天皇は在位2年目(587年)5月頃に発病し、その後急速に病状が悪化して、6月に崩御したと伝えられている。

B. 「たまひつくるにたへざるもの」—賜造不堪者

造営が行われることを単に表すのであれば、「つくる」に「造」を当てるだけでも十分である。
しかしここでは、それが天皇の命によって進められる事業であることを示すために、「たまひ」が前に置かれ、「賜造」という表現が用いられている。
この語によって、寺の造営が天皇の意志に基づく国家的事業であったことが明確に示されている。

「不堪」は「堪えず」、すなわち「続けることができない」という意味を表す。

末尾の「者」は、ここでは特定の人物を指すのではなく、「〜であるところのもの」「〜という事情・状態」を示す名詞化の語尾として機能している。
そして、このように「者」で文を閉じる用法は、正格な中国漢文にはあまり見られず、訓読を前提とした日本的な表現といえる。

以上のように、この一節に用いられている漢字はすべて訓読され、日本語の音で読まれることを前提としている。したがって、この一節は漢文の形式を借りながら、日本語的な発想によって組み立てられた表現であると考えられる。


小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉

A. 「おはりだのおほみや あめのしたをおさめる すめらみことのおほみみ」— 小治田大宮治天下大王天皇

おはりだの(おほ)みや」は、推古天皇が603年(推古11年)に新宮として造営したとされ、奈良県明日香村付近に所在した宮殿の名称である。「おは」は、すでに検討したように、敬意を込めて用いられた語である。

その後に続いて、推古天皇の称号として、「あめのしたをおさめる—治天下」「おほきみ—大王」「すめらみこと—天皇」といった表現が重ねられている。
これらは統治者への敬意を高める修辞的効果を持つと同時に、この銘文が中国の正統的な古典漢文というよりも、漢字によって日本語を筆記しようとする過渡的段階に属することを示している。
つまり、漢文的語彙を用いながらも日本語的な発想や称号体系が混在しており、その重層的な表現は、文字の存在しなかった日本語を漢字で記そうとした当時の試行錯誤の一端と考えられる。

B.「および とうぐうのひじりのきみ」 — 及東宮聖王

ここでは「および」に「及」が用いられ、訓読では「および」と読まれる。

また、「東宮聖王(とうぐうのひじりのきみ)」は、皇太子を意味する「東宮」を音読しつつ、「聖王」を訓読によって「ひじりのきみ」と表現したものであり、音と訓が併用された形となっている。

「東宮」は本来、皇太子の居所(宮殿)を指す語であるが、転じて皇太子その人を意味する呼称ともなる。ここでの「東宮」は、前段に「太子」と記されていた聖徳太子を指す。

さらにそこに、「聖王」という中国古典以来の政治理念において、徳によって天下を治める理想の王を意味する敬称を付すことで、単なる「太子」や「東宮」という呼称以上に、荘厳な碑文的尊称としての性格が強められている。

C. 「だいめい じゅさい」—大命受賜

この一節は、中国漢文の表現をほぼそのまま用いたものであり、銘文全体の中でも比較的正統的な漢文表現に近いと考えられる。

「大命」とは、天皇のような高位者から下される重大な勅命を意味し、その背後には仏像造立や寺院造営といった宗教的・政治的に重要な事業が想定される。

また、「受賜」は漢文でしばしば用いられる定型的表現であり、「受け賜る」は「拝命する」「恐れながら命をいただく」といった意味を持つ。

したがって、命令の主は推古天皇と東宮聖王(聖徳太子)であり、寺院造営の命令をありがたく受け取ったのは、建造に携わる人々ということになる。

D. 「しかして さいじ ていぼうねんに つかえまつる」—而歳次丁卯年仕奉

この部分も、比較的正式な漢文に近い表現であると考えられる。

「而」は「しかして」「そして」を意味し、漢文において非常によく用いられる接続詞である。

「歳次」はすでに検討したように、年のめぐり、すなわち年代を示す語であり、干支による年次表現を導く定型句となっている。

「丁卯年」は干支の組み合わせによる年号で、十干の「丁」と十二支の「卯」が組み合わさった年を指す。推古朝の年次に当てはめるならば、推古15年(丁卯)にあたり、西暦607年とされる。

「仕奉」の「仕」は「仕える」「奉仕する」を意味し、「奉」は目上に対する恭敬を表す語である。したがって全体としては、「謹んでお仕えする」「奉って務める」といった意味合いを持つ。
つまり、推古天皇と聖徳太子の命を受け、法隆寺に治められている薬師如来像を制作したことを、ここに記しているのである。

。。。。。。

このように、歳次(年代定型)を記した上で仕奉という恭敬表現を続ける構成は、国家的事業として寺院や仏像の造立が行われたことを年代とともに記録するための語法であり、中国の碑文などにも一般的に見られる。

ただし、ここで注意すべきなのは、銘文全体が必ずしも純粋な中国漢文として一貫しているわけではなく、日本で漢字を用いて文章を記す初期段階に見られる 和習漢文的性格 を含んでいる点である。
たとえば、前半には「大王天皇」や「東宮聖王」といった称号の重ね方、また音読みと訓読みが併用される表現が見られ、日本語の敬称体系や政治的意識が漢字表記の中に入り込んでいる。

その一方で、「而歳次丁卯年仕奉」の部分では、年代定型と恭敬表現が整った形で現れており、漢文で書かれた碑文の格式が強く意識されている。
また、銘文の最後には、「推古天皇や聖徳太子の命を拝し、丁卯の年に謹んで造営を奉った」という内容だが、そこも漢文的定型によって記されている。

そうした二つの特色から見て、薬師如来像光背銘は、口語としての日本語をそのまま書き留めたものではなく、漢文を基盤としつつ、日本的要素も混交した中間的文体に位置づけられるものであるといえる。


ここまで見てきたように、本来は書記記号をもたなかった日本語を書き記すために漢字を用いるには、多くの試行錯誤が必要だった。
そして、そのことは、712年に編纂された『古事記』の「序」にも記されている。

現存する日本最古の書物である『古事記』は、天武天皇の命を受けた稗田阿礼(ひえだのあれ)が、先代の歴史書などを繰り返し口誦して記憶した内容を、太安万侶(おおのやすまろ)が書き記したものとされている。

そこで太安万侶は、日本語を漢字で表記することの難しさを率直に述べているが、その困難さは、「序」だけが漢文で書かれていることからも伺うことができる。8世紀初頭においても、漢文で記す方が、より理解されやすかったのである。

上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。已因訓述者、詞不逮心。全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之内、全以訓録。(『古事記』「序」)

(現代語訳)
上古の時代には、言葉も意味もともに素朴であった。そこで文章を組み立て、文字に記そうとすると困難が生じた。訓(意味)によって書こうとすれば、言葉が心を十分に表しきれない。すべて音だけで書き連ねれば、文章が長くなりすぎる。だから今では、一つの文の中で音と訓を交えて用いることがある。あるいは、全体を訓(意味)だけで記す場合もある。

「上古の時」とは中国古典に由来する語で、文明の始原、あるいは原初の時代を指す。
そしてこの時代の「言」と「意」とは、まだ書記記号をもたなかった日本語において、「言」は話し言葉であり、その場合には「意」=意味や意図が「朴」、すなわち素朴で直接的な関係にあったことを示している。
話せばそのまま意味や意図が通じたのである。

しかし、それを文字として書き記そうとすると、文字と「意」との関係はたちまち難しいものとなる。意味を優先し、日本語の語義に対応する漢字を用いる、たとえば「あずま」を「東」と記すと、どこか本来の語感とずれが生じ、「詞不逮心」、つまり言葉が心を十分に表しきれない、という事態になる。

一方で、音に漢字を当て、一つの音節ごとに一字を配して書けば、文章は冗長になりすぎる。したがって、訓と音とを交えて記すこともあれば、場合によっては訓による表記だけを用いることもある。

。。。。。

この「序」に述べられている事情は、ここまで苦労しながら解読してきた九十字の銘文にも、そのまま当てはまる。

そしてもう一つ注目すべきなのは、和語と漢字表現とのずれが、1300年を隔てた現代の日本人にとってもなお残っていることである。漢字の多い文章はどこか硬質な印象を帯び、ひらがなで表される和語とは異なる感覚を保ち続けている。

その意味で、漢字仮名交じり文を用いる私たちは、法隆寺金堂の薬師如来像銘の筆者や太安万侶の営みに、今も支えられている。
だからこそ、たまには過去を振り返り、日本語が文字に刻まれ始めた時代の文章を、時間をかけて読み解いてみると、楽しくなってくる。

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