日本の自然観 源氏物語絵巻 東屋(一)(二)を通して

『源氏物語絵巻』東屋(一)を見ると、平安貴族たちがいかに自然と親しみ、自然の中で生きていたかが見えてくる。

私たちは一般に、この絵画を『源氏物語』第50帖「東屋」の一場面であることを前提に鑑賞する。そのため、つい女性たちに目が向き、左端で本を見ている女性が浮舟(うきふね)であり、その前で長い髪を梳いてもらっているのが中君(なかのきみ)である、といった具合に、物語の内容に即して解釈しがちである。

しかし、あらためて場面そのものに目を向けると、中央を占めているのは几帳に描かれた風景であり、その背後の襖にも自然の光景が大きく描かれていることに気づく。そのうえで物語を思い起こせば、浮舟が見ているのは、女房が読む「詞書(ことばがき)」に対応する「物語絵」であることがわかる。つまり、この室内には三つの風景が取り込まれていることになる。

「東屋」の物語が旧暦の八月から九月にかけて、すなわち秋に設定されていることを頭に入れた上で、当時の色彩に復元された画像を見てみよう。

 

当時の寝殿造りの家屋の室内は、柱によって支えられ、壁は一部にしか設けられていなかった。広い空間は、几帳(きちょう)や屏風(びょうぶ)、襖障子(ふすましょうじ)などによって区切られていた。そして、それらの調度の上には、季節に応じた自然の光景が描かれていたが、まさにそれこそが、貴族たちにとっての自然だった。

部屋を仕切る襖障子に目をやると、穏やかな風景が見えてくる。

この襖絵は全体に平面的であり、木々の生える丘も丸みを帯びて穏やかな趣をたたえ、いかにも「やまと絵」といった印象を与える。
遠景には、幹がやや曲がり、枝を横に広げた常緑樹の松が濃緑色で描かれている。
中景の木々は枝葉を落とし、秋から冬にかけての季節感を伝えている。
前景の中央から右にかけては、荻(おぎ)のような水辺の植物が黄色く生い茂り、風に揺れている。その足元の水辺には鳥たちが浮かび、さらに最も右に描かれた鳥たちは、今まさに飛び立ったばかりであるかのような姿を見せている。

荻は、風に葉の擦れ合う音がわびしさを誘うことから、秋風とともに和歌に詠まれてきた植物である。そこを飛ぶ小鳥の姿とあいまって、この風景は旧暦の秋(七月〜九月)を想起させる。それは和歌的な「秋野」を意識した構成であり、物語世界の秋の季節感を室内装飾に反映させた絵画であるといえる。

几帳には何が描かれているのだろうか。

下部の赤地の部分には、秋草の代表である薄(すすき)が白で描かれ、風に吹かれて揺らめいている。その間を多数の小鳥たちが群れをなして飛び交う。この組み合わせは秋野の風情を強く感じさせ、さびしさやもののあはれを表現している。

上部の白地の部分には、ほとんど色彩を用いず、ごく淡い白一色によって、遠くに連なる山河が描き出されている。その白は、はるか彼方の風景であることを示すと同時に、秋の冷気をも強く感じさせる効果をもっている。

このように見ると、赤地から白地への移行は、紅葉の秋から雪を予感させる冬へと移ろう季節の変化を象徴しているようにも思われる。

「物語絵」に関しては、浮舟の前に三冊の書物と一巻の絵巻物が置かれ、その手前には、絵の内容を記した「詞書(ことばがき)」を読む女房が手にする冊子も描かれている。

女房の手にする「詞書」には文字だけが記され、浮舟の前の冊子には絵だけが描かれている。そのことは、女房が詞書を読み、姫君がそれに対応する絵を見て楽しむという、平安時代の貴族たちが物語絵を鑑賞する際の実際の場面を、ありありと描き出している。

浮舟が見入っている物語絵は風景画であるらしく、大まかではあるが、青い空の下に緑の山々が認められる。中国の水墨画のように切り立った山ではなく、丸みを帯びてなだらかに連なる山々の様子は、襖絵の風景と同様に、当時描かれ始めたやまと絵を再現したものだといえる。

その前に置かれた二冊の書籍の表紙を見ると、全体が緑で覆われ、その上に銀色で、薄(すすき)のような秋草の上を飛翔する数羽の鳥の姿が描かれている。

「東屋」の物語が展開するのは旧暦の八月から九月、つまり秋であり、その季節に呼応するように、襖、几帳、書物のいずれにも秋の風景が描かれている。
そして、そうした自然の情景こそが、浮舟や中君をはじめとする平安貴族たちの季節感や自然に対する感受性を形づくる上で、決定的な役割を果たしたのだった。


貴族たちの自然感は、室内装飾に描かれた自然の風物によって養わる一方で、邸宅に隣接する庭に生える木々や草花などを通して、実際の自然に増える機会もあった。「東屋」(二)を通して、私たちは、室内と庭がいかに隣接していたのか、見て取ることができる。

描かれているのは、浮舟が身を隠すために移り住んだ小さな家の室内と、彼女に会うためにやってきた薫(かおる)が、建物の最も外側にある縁側で待たされている場面。

色彩が見事に再現された復元図を見ると、室内の障子の風景以上に、庭に生える草が手前で大きく描かれていることがはっきりと感じられる。

室内の襖絵に目をやると、緑の山並みの風景が見えてくる。

襖絵は母屋の簾(すだれ)によって半分以上が隠され、全体を見ることはできないが、白地の上に穏やかな山並みが緑色で描かれていることがわかる。

山上の木々は、幹がやや曲がり、枝ぶりが横に広がる形をしていることから、松であると考えられる。松は常緑樹であり、季節を直接示す植物ではない。また、ここには紅葉や桜、雪景色など、明確に季節を示す景物も見られない。こうした点から、この風景画はあえて季節感を強調せず、四季を超えた恒常的な自然の姿を描いたものだといえる。

さらに、女房が襖を開けようとして手を添えている部分には、岩肌や崖を思わせる線も描かれている。これらの特徴からも、この風景全体は、やまと絵的な理想化された山水表現であると考えられる。

庭の草花は、この室内の風景画とは対照的な様子をしている。

緑色の茎の上に、三色で、白い薄(すすき)、紫の紫苑(しおん)、黄色の女郎花(おみなえし)が描き分けられ、秋という季節であることがはっきりと示されている。

これらの草花は風に揺れることなく、静かに茂っている。その様子は、吹きさらしの縁側で長い間待たされ、何とかして室内に入り、浮舟に思いを伝えたいと願う薫の心情の表れともいえる。

薫はその場で、次のような和歌を詠む。

さしとむる 葎(むぐら)や繁き 東屋の あまりほどふる 雨そそきかな 

(ぴったりと閉ざされ、葎〔むぐら=雑草〕の生い茂る 粗末な宿に、あまりにも長く降り続く雨が、なんと激しく降り注ぐことか。)

この歌に詠まれる「葎(むぐら)」という雑草として、絵巻では薄・紫苑・女郎花が描かれていると考えられる。この情景は、家屋に隣接する庭で平安貴族たちが実際に目にしていた光景であったに違いない。

そして、それらが物語絵の中に描き込まれることで、現実に見られる自然の風景でありながら、同時に薫の心情を託す景物ともなっている。
ここでは、薫は、浮舟がひっそりと身を隠す東屋を訪れたにもかかわらず、戸口は固く閉ざされ、長い間雨の中で待たされている。そうした状況のもと、雑然と生い茂り、そよとも揺らがない草花は、浮舟の近づきがたさをいっそう強く感じさせる存在となる。
つまり、この秋の草花は、自然の情景が人間の感情と密接に呼応することを示しているのである。

そのような視点から見ると、室内の襖に描かれた風景画は、頭を畳にすりつけるようにして薫の申し出に困惑する浮舟の乱れた心と対応するものというよりも、むしろ薫が推し量る浮舟の境遇を映し出したものと解釈することも可能であろう。
つまり、薫にとって東屋の内部は、浮舟にとっての理想的な隠れ家であるはずだという思いがあるのではないか。襖絵に表された、四季を超越した恒常的な自然の空間は、そのような理想化された内的世界を象徴しているとも考えられる。

それに対して、外から見えるのは、葎や秋草の生い茂る粗末な東屋である。襖絵の無季的で静謐な山水と、外部に広がる雑草の群れとは、内と外、理想と現実との対照を成しているのだと考えてもいいだろう。


このように見てくると、日本の自然観がいかに形成されてきたのかを考える上で、『源氏物語絵巻』に収められた二図の「東屋」は、きわめて示唆的な資料であることが明らかとなる。

平安貴族たちが日常的に接していた自然は、家屋に隣接する庭に生える草木や、そこに集う鳥や虫などに限られていた可能性が高い。しかしその一方で、彼らは室内において、襖や衝立、几帳といった調度に描かれた山水や草花を身近に置き、さらに和歌や物語絵を通して、言葉と絵画によって構築された自然を享受していた。そこでは、現実の自然と表象された自然とが重なり合いながら、一つの美的世界を形作っていたのである。

したがって、日本の自然観は、単なる自然との直接的な接触によって育まれたというよりも、むしろ文化的に造形された自然像との不断の交渉の中で練り上げられてきたと考えられる。その意味で、「東屋」に描かれた内外の自然、つまり、襖絵や几帳に表された山水と、庭に生い茂る秋草の群れとの対照は、日本の自然観の構造そのものを可視化する装置となっている。

このように絵画に描かれた自然景観を丁寧に読み解くことは、日本の自然観の成立を解明するための重要な手がかりとなる。そして「東屋」の二図は、その出発点として、豊かな思索の可能性を秘めているといえる。

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