
高村光太郎の詩といえば、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出來る」(「道程」)や、「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」(「あどけない話」)といった詩句をまず思い出す。「火星が出てゐる」は、それらに比べるとあまり知られていないかもしれない。

しかし、彫刻を学ぶために米英仏へ留学し、西欧的な芸術観を身につけた一人の人間が、ふとした折に立ち止まり、何かを決断しようとするとき、日本的な思考が強くしみ出してくる。その様子が描かれているという点で、この詩はとても興味深い。
そのキーワードは、「自(おの)ずから然(しか)る」である。この言葉は、現代を生きる私たちにとっても大切な響きを持っており、「生の指針」ともなり得る。
火星が出てゐる。
要するにどうすればいいか、といふ問いは、
折角たどった思索の道を初にかへす。
要するにどうでもいいのか。
否、否、無限大に否。
待つがいい、さうして第一の力を以て、
そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
予約された結果を思ふのは卑しい。
正しい原因に生きる事、
それのみが浄い。
お前の心を更にゆすぶり返す為には、
もう一度頭を高くあげて、
この寝静まった暗い駒込台の真上に光る
あの大きな、まっかな星を見るがいい。

私たちは様々な場面で、「どうすればいいか」という問いを自分に投げかける。
本当は自分の中にすでに答えが出ていて、最後の一押しを欲していることもあれば、逆に全く出口が見えず、途方に暮れていることもあるだろう。
「火星が出てゐる」は、そんな時にこそ「どうすればいいか」と問うな、と説く。なぜなら、その問いはある一つの「正しい答え」がどこかに存在することを前提にしているからだ。
確かに、あらかじめ正解が決まっている事柄であれば、それを見つけて行動すればいい。しかし、確実な未来など誰にも予見できない。ある時点で正しいと思えた答えも、状況が変われば容易に誤りへと転じうる。
だからこそ、光太郎は答え探しの自問にストップをかける。
「折角たどった思索の道を初にかへす」
「そんな問に急ぐお前の弱さ」
「予約された結果を思ふのは卑しい」
では、何も考えず、なるようになれと放り出してしまえばいいのか?
その問いに対して、彼は「否、否、無限大に否」と激しく拒絶する。
そして、こう続ける。
「もう一度頭を高くあげて(……)あの大きな、まっかな星を見るがいい」
高村光太郎がこの詩を書いたのは、1926年(大正15年)12月5日だとされている。その夜、駒込台の空には、月の光に埋もれることなく赤々と輝く火星があったはずだ。 火星はローマ神話では軍神マルスと呼ばれ、占星術においても情熱や闘争心、行動力といったエネルギーの象徴とされる。西欧文化を深く吸収した光太郎にとって、闇に沈む地上の風景に対し、夜空で独り赤く燃える火星は、生のエネルギーを充満させた存在として映ったに違いない。
まずは、その火星を凝視すること。それこそが、なすべきことのすべてなのだ。
火星が出てゐる。
木枯が皀角子(さいかち)の実をからから鳴らす。
犬がさかって狂奔する。
落葉をふんで
藪をでれば
崖。

「どうすればいいか」と意識を内側へ沈殿させるのではなく、あえて外の世界へと目を向ける。すると、深刻な悩みとは裏腹に、ごく日常の情景が次々と飛び込んでくる。
皀角子(さいかち)は晩秋の季語でもある。十メートルもの高さになるこの木は、冬に向かって黒くねじれた実をつけ、風に吹かれればカラカラと乾いた音を立てる。
犬がさかり、落ち葉が舞い、駒込の崖がそこにある。
それらはすべて、日々繰り返されるありふれた光景にすぎない。
内面へ籠もれば籠もるほど、こうした「意味を持たない」外の世界をただ見つめることが、意味を持つ。
火星が出てゐる。
おれは知らない、
人間が何をせねばならないかを。
おれは知らない、人間が何を得ようとすべきかを。
おれは思ふ、
人間が天然の一片であり得る事を。
おれは感ずる、
人間が無に等しい故に大である事を。
ああ、おれは身ぶるひする、
無に等しい事のたのもしさよ。
無をさえ滅した
必然の瀰漫(びまん)よ。
冒頭で「正しい原因に生きる事」という言葉が出てきたとき、それ以上の具体的な説明はなかった。ただ「待つがいい」と諭し、あらかじめ存在すると信じ込んでいる「答え」を探し求めることを止めるよう促すだけだった。
だが、ここへ来て、答え探しではない振る舞いのあり方が一歩踏み込んで示される。その鍵は、「おれ」と「人間」の関係性にある。
「おれ」とは、「わたし、わたし」と内省し、自らに問いかける個としての意識。しかし、その「おれ」もまた、広い意味での「人間」の一人であり、普遍性に基づいた存在である。
「おれ」が「何をせねばならないか」と自問するとき、結局は「知らない」という地点に突き当たる。それは、あらかじめ決まった正解がどこかにあると想定し、それを必死に見つけようとするからだ。
しかし、知ろうとすることを止め、「思う」ことから始めると、ある真理に気づき始める。それは、「人間が天然の一片であり得る」ということだ。
ここでいう「天然」は、「自然」と言い換えてもいい。ただしそれは客体としてのNatureではなく、「自(おの)ずから然(しか)る」という事態を指している。人間がその大きな流れの一部であるならば、個としての「おれ」もまた、その中に包摂されていることになる。
そう考えたとき、「個人」は「人間」へと拡散し、「人間」は「自然」へと溶け込んでいく。そこにあるのは、空虚な空白としての「無」ではない。あらゆる存在の源泉としての「無」である。だからこそ、「無に等しい故に大である」という逆説が成立する。
そのことを、西田幾多郎はこんな風に表現した。
己を空うして物を見る、自己が物の中に没する、無心とか自然法爾(じねんほうに)とか云うことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思う。(「日本文化の問題」)
「自然法爾」とは、親鸞が説いた究極の境地である。
自らの計らいを捨て、あるがまま、おのずからそうなっている法(法則)に身を委ねることを意味する。
「必然の瀰漫」とは、まさに、自然にそうなることが一面に広がり、蔓延している状態だといえる。そして、そのことに思い至ったとき、「おれ」は「無に等しい事のたのもしさ」を感じ、「身ぶるひ」する。
これは決して、「おれ」はなにもせず、なるようになれと、すべてを自然に任せることではない。「否、否、無限大に否」だ。
「無心になること」は、それほどやさしいことではない。
火星が出てゐる。
天がうしろに廻転する。
無数の遠い世界が登って来る。
おれはもう昔の詩人のやうに、
天使のまたたきをその中に見ない。
おれはただ聞く、
深いエエテルの波のやうなものを。
さうしてただ、
世界が止め度なく美しい。
見知らぬものだらけな不気味な美が
ひしひしとおれに迫る。

「どうすればいいか」という自問をやめ、皀角子(さいかち)の実が立てる乾いた音に耳を澄ます。そうして「人間が無に等しい」という境地に至ったとき、意識は徐々に「天」へ、そして「無数の遠い世界」へと解き放たれていく。
そのとき、もはや「天使のまたたき」といった既知の、限定された象徴は見えない。
むしろ聞こえてくるのは、「深いエエテルの波のようなもの」という、形をもたない無限定な響きだ。
この視覚から聴覚への転換、あるいは形象から波動への移行は、「問いに急ぐ弱さ」が滅びたことの証左なのかもしれない。
そして、その瞬間にすべては「見知らぬものだらけ」に変貌する。
正しい答えを求めて葛藤していた、あの見慣れた景色が瓦解し、全く新しい様相を帯びる。たとえそれが「不気味」なまでの圧倒的な質量を持って迫ってきても、なお「世界が止め度なく美しい」と感じられる。
ここでとりわけ重要なのは、その地平に立って初めて「おれ」が確立されているという点だ。
「おれ」だけにこだわり、自己の内面へと沈み込んでいけばいくほど、かえって「おれ」という存在は霧散してしまう。
むしろ「人間」へと自己を開き、自然の一部として「無に等しい」と自覚するとき、失われていた「おれ」が戻ってくる。
火星が出てゐる。

リフレインとして繰り返されてきたこの詩句が、最後にもう一度置かれる。その詩句を目にすると、私たち読者は、火星を思い、生のエネルギーを補給して、新たな一歩を踏み出すことになる。
「どうすればいいか」という問いに搦め取られて苦しむのではなく、「人間が天然の一片」であることを思い出し、「必然の瀰漫」に身震いしながら、「自(おの)ずから然(しか)る」道を探っていく。
そのとき、詩人は決して「否、否、無限大に否」とは突き放さず、「あの大きな、まっかな星を見るがいい」と、静かに、しかし確かな言葉をかけてくれるに違いない。
私たちの人生の歩みの中で、「どうすればいいか」と立ち止まってしまう時は必ずある。そんな時、「火星が出てゐる」と自分自身にささやいてみる。
すると、閉ざされていた内面から解き放たれ、目の前に「自然(じねん)」が開けてくることがあるかもしれない。