能ある鷹は爪を隠す — 文化の違いを楽しむ

「能ある鷹は爪を隠す」という諺をフランス語に訳すとどうなるか考えていて、日本とフランスの文化、あるいは日本的精神とフランス的精神の違いに思いを巡らせることがあった。

日本語をフランス語に直訳すれば、« Le faucon talentueux cache ses serres. »

では、このフランス語の単文がフランスの文化の中で、日本語の諺が意味する「本当に力のある人間はそれを見せびらかすことなく謙虚に振る舞う」といったニュアンスを伝えるだろうか?
問題は、「隠す」という言葉がどのように受け取られるかにかかっている。

日本は「謙虚さ」が価値を持つ文化だといえる。
そのことは、相手を尊重する尊敬語だけではなく、へりくだることで相手を高める役割を果たす謙譲語の存在によっても、文化的に根付いていることがわかる。
例えば、「言う」は、尊敬語では「おっしゃる」、謙譲語では「申し上げる」。

それに対して、フランスの文化では、「隠す」よりも「明らかにする」ことに価値が置かれる傾向があると考えてもいいだろう。
何かを隠すと、そこに何か意図があるのではないかという疑いを招く可能性が出てくる。何か悪事を企てていると疑われるかもしれないし、優越感の裏返しや率直さに欠ける態度と見なされるかもしれない。

そうした「透明性」に価値を置く文化の中では、「慎み(pudeur)」と「欺瞞(dissimulation)」の境界線がおぼろげなために、「爪を隠す鷹」は用心すべき対象と解釈される可能性もある。
したがって、« Le faucon talentueux cache ses serres. » という翻訳文が、日本語と同じ意味で理解されるかどうかはわからない、ということになる。

もし意味だけを伝えたければ、
« La vraie science est modeste. » (真の知識は謙虚である)
« La vraie valeur n’a pas besoin d’étalage. » (真の価値は見せびらかしを必要としない)
« Les tonneaux vides sont ceux qui font le plus de bruit. »(空っぽの樽ほど大きな音を立てる)
といった案も考えられる。ただし、鷹のイメージを使った諺としての面白さは消えてしまう。
あるいは、フランソワーズ・サガンの言葉、« La culture, c’est comme la confiture, moins on en a, plus on l’étale.»(教養とはジャムのようなものだ。持っていなければいないほど、たくさん塗り広げたがる)を引いてもいいかもしれない。
しかし、完全にニュアンスが伝わるわけではない。

こうした翻訳の問題について考える時、「だから翻訳は難しい」とか、「完全な翻訳は不可能だ」と言ってしまうと、そこで止まってしまう。

そうではなくて、そうした難しさがあるからこそ、文化の違いを知ることにつながり、自国の文化や精神とは異なる文化や精神を知るきっかけになると考えることもできる。
そして、そのように考えると、違いを楽しむ心が生まれてくる。


もちろん、日本とフランスの文化の対比を知ることは楽しいのだが、断定的な二元論で終わってしまうと、それはそれでつまらない。
フランスでも、日本とは少し違ってはいるが、謙虚さに価値を置く思想が確認できる。

例えば、ミッシェル・ド・モンテーニュは、「Que sais-je」(私は何を知っているのだろうか)を座右の銘とし、内なる強さを持つ者は他者からの承認を必要としないと考えた。

Le monde n’est qu’abêtissement ; on ne voit que gens qui regardent devant eux, mais personne ne regarde en soi. ( Essais, Livre II, chapitre 17, intitulé « De la présomption ».)

世界は愚鈍でしかない。目に入るのは、前ばかりを見る人々で、誰も自分の中をかえり見ない。

モンテーニュにとって、精神的な強さを備えた人は、他人に認められることを必要としない。
そして、知識のある人があえて目立とうとしないのは、自分がまだ何も分かっていないという事実を自覚しているからだ、ということになる。

ブレーズ・パスカルは、キリスト教の信仰に基づき、神の偉大さに比べて人間の卑小さを常に意識していた。

L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant. (…) Toute notre dignité consiste donc en la pensée. (Pensées, Brunschvicg, fragment 347)

 人間は一本の葦にすぎない。自然の中で最も弱い存在。しかし、考える葦である。(・・・)我々の尊厳は、従って、考えることにある。

ここでパスカルが述べているのは、人間の価値は富や権力といったものではなく、考える力にあるということである。つまり、本当の価値は目に見えるものではなく、目に見えない内面的なものであり、それを自覚することこそが、弱い存在である人間の価値なのだという。

ちなみに、『古事記』では、天地が初めて開けたとき、地上世界が水に浮かぶ脂のように、またクラゲのように混沌と漂っていた中から、葦が芽を吹くように萌え伸び、ウマシアシカビヒコヂ(宇摩志阿斯訶備比古遅)が生まれる。そして人間は「青人草」と呼ばれる。そうしたことを思うと、日本人がパスカルを愛する何らかの理由があるのかもしれないと考えるのも、興味深い。

モンテーニュやパスカルの姿勢と対比するために、逆の思考を持つラ・ロシュフコーの言葉も紹介しておこう。

C’est une grande habileté que de savoir cacher son habileté.
(Maxime, n° 127)

自分の才覚さを隠す術を知っていることこそ、大きな才覚さである。

ロシュフコーの思想の基本は、表の顔と裏の顔の矛盾であり、「われわれの徳行は、往々にして偽装した不徳にすぎない」という言葉に代表される。
したがって、この言葉も相手に勝つための策略であり、自分の能力を隠すことが最も有効な手段であるという意味の教訓と考えられ、謙虚さとは正反対のものを意味する。

こんな風に、フランスを代表する思想家たちの中でも、自分の弱さを自覚する謙虚な姿勢に価値を置くこともあれば、隠すことを戦略とする考え方もある。
フランスが決して一枚岩ではないことも見えてくる。

「能ある鷹は爪を隠す」という諺をフランス語に翻訳する試みを通して、文化を知るきっかけになるとすれば、難しさが楽しさに変わることを実感できるだろう。

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