人種(race)という言葉に潜む意識

「人種(race)」という言葉は一見すると価値判断を含まず、「皮膚の色や頭の骨など目に見える身体の特徴を基本にして人間を分類」するという意味を持つ、ニュートラル言葉だと思える。

「人種」は、元々は一族の先祖から子孫までを含むメンバー全体を意味していたと考えられている。そこから、17ー19世紀を通して、身体の外見的な特徴に基づき一定の人間の集団を指すようになった。
そして、その時期が、ヨーロッパの国々が植民地政策を強めていったと重なることを知ると、ある価値判断が入っていることに納得がいく。

当時のヨーロッパ諸国の植民地主義は、大まかに言えば、ヨーロッパとアフリカ大陸とアメリカ大陸を結ぶ「三角貿易」をベースにしていた。
ヨーロッパからアフリカに工業製品を運び、アフリカから黒人奴隷を積み込んで西インド諸島や北アメリカに運ぶ。そこからタバコ、綿花、砂糖といった農産物をヨーロッパに運ぶ。こうした交易のもたらす富みが、産業革命を推進した。
この地理的三角形において、底辺にはアフリカ大陸とアメリカ大陸があり、頂点に置かれるのがヨーロッパであることは言うまでもない。

植民地化や奴隷貿易といった非人道的な政策が行われたこの時代、他方では、デカルトを始めとした哲学者や思想家が数多く出現し、人間における理性の価値を強調し、フランス革命のスローガン「自由、平等、友愛」へとつながる啓蒙思想が育まれていた。

この二つの現象のズレの出所を探ることで、21世紀まで続く世界のあり方が見えてくる。

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「数」が見えなくするもの  ベルクソン『時間と自由』 Henri Bergson Essai sur les données immédiates de la conscience

「数を数える」ことは誰もがいつもしている。しかし、そのことで、「見えているもの」が見えなくなることに気付くことは少ない。

家の近くには、アカとシロという地域ネコがいる。アカはキジシロだし、シロは白いネコ。性格も行動パターンも違うし、考え方もたぶん違っている。二匹にははっきりとした個性の違いがある。
そのネコたちについて誰かに話すとき、「家の近くに二匹のネコがいて」と言うのはごく普通のことだ。

その際、ネコがいることと同じ程度に、「2」という「数」に、言葉の焦点が当たる。そして、その時点では、アカとシロの違いは問題になっていない。
つまり、違うものを足し算する時、それぞれのもの自体の存在は「数」の後ろに追いやられていることになる。

アンリ・ベルクソンの『意識に直接与えられたものについての試論』(英語訳の題名『時間と自由』)を読んでいて、そうした「数」の不思議について気付かされる一節があった。

 Il ne suffit pas de dire que le nombre est une collection d’unités ; il faut ajouter que ces unités sont identiques entre elles, ou du moins qu’on les suppose identiques dès qu’on les compte. Sans doute on comptera les moutons d’un troupeau et l’on dira qu’il y en a cinquante, bien qu’ils se distinguent les uns des autres et que le berger les reconnaisse sans peine ; mais c’est que l’on convient alors de négliger leurs différences individuelles pour ne tenir compte que de leur fonction commune.
   ( Henri Bergson, Essai sur les données immédiates de la conscience, chapitre II. )

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世論の「からくり」 「みんな」を作る仕組み

2002年に出版された高橋秀実の『からくり民主主義』は、1995年から2002年までの間に日本各地で話題になった出来事を扱ったジャーナリスム的な内容を持った本。
時事的な話題を扱うジャーナリスムの宿命もあり、例えば、横山ノックのセクハラ事件やオウム真理教の問題などは、2024年にアクチュアルなテーマとはいえなくなっているために、当時のことを知らない読者にはそれほど興味がない読み物になっているかもしれない。

他方、出版後20年以上を経た時事的な本であっても参考になると思えることがある。それは一つ一つの事件に対する一貫した姿勢。それを一言で言ってしまうと、「結論がない」ということ。白黒を付けるのではなく、どのように白黒が付けられるのかという「からくり」=仕組みを明らかにしようとする姿勢だ。

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What a wonderful world 「この素晴らしき世界」とその背景

ルイ・アームストロングが歌うWhat a wonderful worldは、「この素晴らしき世界」という曲名で日本でもよく知られている。
歌詞を辿ると、穏やかで美しい世界の様子が描かれ、« I see friends / shaking hands / saying,”How do you do ?” / They’re really saying / “I love you”と、愛を歌っている。

ほぼ同じ題名の曲( What a ) Wonderful world が、サイモンとガーファンクル、そしてジェームズ・テーラーによって歌われたことがある。
学校で勉強する色々な教科のことはよくわからない(Don’t know much about … )し、自分は成績がいい生徒(’A’ student)ではないけれど、でも、1+1が2ってことは知っているし、ぼくが君を愛していることも知っている、だから、その1が君と一緒で、君がその1である僕を愛してくれたらいいなと、こちらの歌も愛を歌っている。

どちらの場合も、youが大好きな君であるのが最初の意味だが、その背景にはもっと大きなyouがある。二つの曲の背景にあったのが、差別や偏見に満ち、戦争が起こり、人間と人間が対立する社会情勢だったことが分かると、歌の意味がもっとはっきりと伝わってくる。

最初に、ルイ・アームストロングとアート・ガーファンクルたちの歌を聴いてみよう。

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プロパガンダ 受け取った情報を他の人に伝えたいと思わせる方法

NHKのドキュメンタリー「映像の世紀 ゲッベルス 狂気と熱狂の扇動者」を見た。
ゲッベルスは、アドルフ・ヒットラーの下で、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が国民の熱狂的な支持を獲得するために大きな役割を果たした宣伝大臣。
NHKの番組紹介には、次のように書かれている。

ベッベルスのプロパガンダの方法は、SNSが通常のコミュニケーション手段となった現在において、そのまま通用する。

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漢字の書き順 事実に基づく思考法

漢字に関するサイトを見ていると、「書き順が変わった!」とか、「正しい書き順は存在しないという衝撃的事実!」とか、興味を掻き立てる情報に数多く出会う。そして、さっと読み、素直にうなずいてしまうことがある。
とりわけ、「小学校に通う子供が自分とは違う書き順を学校で習ってきて驚いた」といった体験談が語られると、書き順が変わったという情報を確信してしまう。そして、驚きを共有すればするほど、その情報の真偽を確かめようとはしない。

では、真偽を確認するためには、どのようにしたらいいのだろか?

最初に考えることは、「書き順の変更」とか「正しい書き順」という言葉の前提には、「書き順の基準」があるはずであり、その基準はどこにあるのかという疑問を持つこと。
情報をそのまま信じるのではなく、根拠を問うことが大切になる。

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インターネット上での誹謗中傷 3/3 自由と責任

(4)自由と責任

インターネット上である書き込みが問題になると、一方では規制をすべきだという主張がなされ、他方では「表現の自由」を守るべきだという主張がなされる。
そして、その二つの主張は常に平行線をたどり、時間の経過とともにいつの間にか問題自体が忘れられてしまう。

また、その議論の中で比較的忘れられているのは、書き込みによって生じた事態に対する、書き込んだ人間の責任に関する問題。
匿名の書き込みの場合は行為の主体が明確でないために、責任がその主体に降りかかることはない。
実名が記され、書き込みの主が明確な場合でも、その状況はほとんど変わらない。内容に根拠がなく、事実とは異なっていたり、ただの思い込みが攻撃性を持ったものだったとしても、責任が問われることはまれである。
炎上することがあったとしても、「数」を増やすことにつながり、その時には批判されることがあるとしても、時間が経てば何事もなかったかのように同じ行為が繰り返される。

発信する「自由」は保障されているが、その内容に対する「責任」が明確に問われることはないというのが現状なのだ。

ここではまず、なぜそうした状況になっているのか考えてみよう。

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インターネット上での誹謗中傷 2/3 匿名と有名

(3)匿名と有名

インターネット上での誹謗中傷が、ネット空間における匿名性によると言われることがある。確かに、殺人予告など直接的に犯罪に繋がる書き込みの場合、氏名を特定できるシステムであれば、ある程度抑制できるに違いない。
しかし、悪口、暴言、根拠のない批難、感情的な意見などは、犯罪とは認定されないために、書き込んだ人間の名前が実名であっても減少しない可能性がある。

A. ネット空間上の匿名

すでに確認したように、書き込みに対して賛同する人間が多数存在することが、書き込んだ人間にとっては自己確認になり、正しい発信をしたという思いを強くさせる。
インターネット上に成立するのは、考えや感受性が類似した同質の雰囲気であり、実在しない架空の空間である。それだけに、異なる意見や感受性があったとしても、それらと交わり、妥協する余地はない。

そうした架空の同質空間内での共感は、「数」によって強化され、もしも「他」が意識化されたとしても、無視するか、否定される。

リアルな社会でも、同じ考えや感受性を持つ人間との交流が中心になるのは自然なことだが、ネット空間では、その傾向がより顕著なのだ。
そして、その空間内では、もし「名前」があったとしても、その名前を持つ「個人」との具体的な繋がりはない。その点で、リアルな世界とは全く異なる。

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インターネット上での誹謗中傷 1/3 数の力 同質性の中での共感

2024年のパリ・オリンピックでも、オリンピックに出場するために厳しい練習を積み、予選を勝ち抜いた選手たちに対して、映像を通して競技を見ているだけの人間たちが感情的なコメントを寄せ、攻撃性を発揮するという状況が見られた。
何かのきっかけがあれば、誰に頼まれたわけでもないのに、インターネット上で誹謗中傷を行い、時に殺害を予告するなどの行動は、現代社会の病いの一つだと考えられる。

そのための対策として、しばしば心理学的な説明が行われ、被害を受けた側だけではなく、攻撃する人間に対する対策も提案されている。

攻撃性の心理的原因
1)匿名性による安心感
2)集団への同調=没個性化
3)自己肯定感の低さからくる承認欲求、目立ちたがり
4)劣等感コンプレックスからくる嫉妬
5)承認欲求や嫉妬に由来する正義感
6)フラストレーションのはけ口

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ひとはなぜ戦争をするのか  アインシュタインとフロイトの書簡

第一次世界大戦と第二次世界大戦に挟まれた1932年、国際連盟がアルベルト・アインシュタイン(1879-1955)に、今の文明の中で最も大切だと思われる事柄を取り上げ、一番意見を交わしたい相手と書簡を交換して欲しいと依頼した。

そこでアインシュタインは「人間はなぜ戦争をするのか」という問いを立て、対話の相手にジークムント・フロイト(1856-1939)を選択した。そして、フロイトがアインシュタインの要請に応え、一回限りだが、二人の間で書簡が交換されたのだった。

その日本語訳が、A・アインシュタイン、S・フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか』(浅見昇吾訳、講談社学術文庫)として出版されている。

20世紀はアインシュタインの相対性理論とフロイトの深層心理学に基づく精神分析学が大きな影響を持った時代であり、第一次世界大戦を経た時点で、二人の優れた学者が戦争について語り、どのようにしたら人類が戦争をなくしうるかという問いに対する答えを模索する往復書簡は、戦争を止めることのない人間という存在を考える上で大変に興味深い。

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