長沢芦雪 龍虎図 日本の絵画は日本人の生活の中で生きていた

和歌山県串本町にある小さな美術館、応挙芦雪館で、長沢芦雪(ながさわ・ろせつ:1754-1799)の「龍・虎図襖」を見た。
これらの水墨画は、およそ250年前に無量寺(むりょうじ)の方丈内部の襖(ふすま)に描かれたもので、現在は当時とほぼ同じ配置で展示されている。

この配置を知り、二枚の水墨画をこのように並べてみても、私たちはこの襖絵を、普通の絵画と同じように観賞の対象として眺めてしまうのではないだろうか。
少なくとも、応挙芦雪館に実際に赴き、虎と龍の描かれた襖を最初に目にしたときの私は、そのような視線しか持っていなかった。そしてそのために、最初は絵の正面に立ち、観賞を始めたのだった。
しかし、そのような姿勢では、襖の上で躍動する虎と龍の生命を奪ってしまうことになる。

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摩耶山 忉利天上寺 焼失以前の姿

摩耶山の頂上付近にあった忉利天上寺(とうりてんじょうじ)は、646年(大化2年)に開創された。その後、空海(弘法大師)が仏の母である摩耶夫人(まやぶにん)像を、留学先の唐から持ち帰り、この寺に奉安したと考えられている。なお、寺名の「忉利」は、摩耶夫人が死後に転生したとされる天界 ── 忉利天(とうりてん)に由来する。

このように由緒ある寺だが、大変に残念なことに、1976年(昭和51年)1月30日に放火され、仁王門など一部を除いて全焼してしまった。現在は、北方約1kmに位置する摩耶別山に場所を移して再建されていて、旧天上寺の跡地は摩耶山歴史公園として残されている。

この奥には、三権現社(さんごんげんしゃ)の跡もある。

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明治時代の日本の絵画 3/3 横山大観 菱田春草 下村 観山 竹内栖鳳

b. 日本画派系 

明治維新直後から、日本は文明開化の波に呑まれ、伝統的な日本絵画を低く評価する傾向にあったのだが、アーネスト・フェノロサ(Ernest Fenollosa 1853–1908)はその芸術的価値を見出し、日本画の復興と新たな創造を構想した。

彼が日本画に注目したのは、西洋絵画が写実性を重視し、対象を視覚的に忠実に再現しようとするのに対し、日本画は内面的な精神性を捉え、「妙想」(イデア)を表現していると考えたからである。

フェノロサの弟子であり、東京美術学校などで日本画の再興に尽力した岡倉天心(1863–1913)も、『日本美術史』の「序論」において、師と同様の見解を展開している。

十九世紀はこれ世界大変動の時期にして、その原因をなすところのものは種々なるべきも、主なるものは唯物論の勢力を得たることこれなり。かの高遠無辺なる空想をもって主となしたる宗教にして、なおかつまさに実物的たらんとす。美術のごときにいたりてもまた実物的ならざれば世に寄(い)れられず。一に実物に接近して霊妙に遠ざかれるイタリア文学再興以来、この方向を取りて醤々(とうとう)として底止するところを知らず。(中略)文学のごときも漸々(ぜんぜん)高尚なる思想を離れて器械的文学を生ぜんとす。社会万般の事、すでにかくのごとし。ゆえに美術またこれに化せられざるを得ず。日に月に写生に流れ、そのはなはだしきものにいたりては、一図を作らんとすればまず予(あらかじ)め図をなし、しかしてこれに応ずるの人物を写真してもってこれを描く。その各部分にいたりては、皆これ無味淡々たるの写真にすぎず。かの天真爛漫として飛動するがごとき真率なる風趣にいたりては、滅尽(めつじん)してその痕跡をだに留めず。これすなわち欧洲美術四百年来のありさまなり。

イタリア文学の再興、すなわち14世紀に始まるルネサンス以降の西洋的世界観について、岡倉天心は二元論的な構図で説明を行っている。
一方には、唯物論に基づく即物的な世界観があり、それは実物主義、機械的な文学、写生に徹した無味乾燥な絵画、すなわち写真のような美術といった言葉で表現されている。
他方には、高遠無辺の空想、高尚な思考、真率なる風趣といった、精神性に根ざした世界観がある。「霊妙」という言葉は、フェノロサの語る「妙想」(イデア)と呼応する概念である。

二人の見解によれば、日本画は、西洋絵画が失いつつある精神性を体現しており、決して西洋に劣るものではない。むしろ、その点において優れていると言ってよい。
しかし、近代文明が支配的となりつつあった明治期の日本においては、日本画にも西洋絵画の技法を取り入れ、新たな表現の可能性を拓くことが求められた。

この理念を実践に移し、日本画の革新を担った中心的存在が、岡倉天心の愛弟子である横山大観(1868–1958)、菱田春草(1874–1911)、下村観山(1873–1930)たちだった。

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明治時代の日本の絵画 2/3 黒田清輝 岡田 三郎助 藤島武二 青木繁 中村不折 鹿子木孟郎 吉田博 中川八郎

(明治時代の日本の絵画 1/3から続く)

明治時代の絵画においては、工部美術学校でフォンタネージにより洋画の教育が行われる一方、フェノロサによる日本美術擁護のもと、東京美術学校では日本画に西洋絵画の要素を取り入れることで、新たな日本画を創出しようとする動きも見られた。

こうした二つの潮流の中で、洋画では黒田清輝(1866–1924)が、日本画では横山大観(1868–1958)が、それぞれ一つの頂点とも言える作品を生み出すに至る。

また洋画においては、黒田がもたらした新しい表現 — 明るい色彩を用いた印象派的なスタイル — が、それまでの流れと一部で対立し、フォンタネージの影響を受けたヨーロッパ絵画の伝統を守るアカデミー的な画風を継承する画家たちとのあいだで分裂が生じた。

また、洋画に関しては、黒田がもたらした新しい要素が、それまでの流れと対立する部分があり、明るい色彩表現を用いた印象派的な絵画を探究する画家たちと、それに反対し、フォンタネージから受け継いだヨーロッパ絵画の伝統を守るアカデミー的な絵画を描き続ける画家たちの間で、一定の期間ではあるが分裂が見られた。

これら3つの動向は、西洋絵画の伝統的技法を日本絵画に取り入れるという方向で一致していたため、明治時代の終盤には一つの大きな流れとして収束していくことになる。

その一方で、1910(明治43)年には、後期印象派からフォヴィスムへと至るヨーロッパの全く新しい絵画潮流を紹介する雑誌『白樺』が創刊され、大正時代から昭和にかけて、明治とは異なる新たな絵画の動きが胎動し始めることとなった。

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明治時代の日本の絵画 1/3 山本芳翠 五姓田義松 浅井忠 狩野芳崖

日本は明治維新以降、欧米化の波にさらされ、政治・経済・文化・芸術・日常生活など、あらゆる面で大きな変革が起こったとしばしば見なされる。

絵画においても、幕府のお抱え画家集団であった狩野派や、江戸を中心に人気を博した浮世絵、京都画壇(円山派・四条派)など、江戸時代のさまざまな流派が影響を受け、西洋の画法を何らかの形で受容するとともに、洋画そのものも描かれるようになった。

こうした西洋絵画の影響をたどる際、幕末から明治初期にかけて活動した高橋由一(1828–1894)の作品と、黒田清輝(1866–1924)や横山大観(1868–1958)の作品を並べてみると、そのわずか30年ほどの間に、日本の画家たちが西洋の画法をいかに急速に消化し、自らの表現として昇華させたかを、はっきりと確認することができる。

高橋由一の「自画像」は、明治維新の直前に描かれた作品でありながら、非常にリアルな表現がなされている。しかし一方で、どこか不自然さが残り、洋画の技法をまだ十分に消化しきれていない様子もうかがえる。
それに対して、フランスへの留学経験を経た黒田清輝の「自画像」には、19世紀後半のヨーロッパ絵画の画風がしっかりと吸収されていることが見て取れる。
また、横山大観の「無我」は、日本の伝統的な絵画を基盤としながら、西洋絵画の技法を巧みに取り入れた、新たなスタイルの作品となっている。

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ロココ絵画と浮世絵 フランソワ・ブーシェと鈴木春信

18世紀に描かれた二枚の絵画を見てみよう。どちらも美しいが、表現はまったく違っている。

一枚は、ロココ絵画を代表する画家フランソワ・ブーシェの「ベルジュレ夫人」。1766年頃に描かれた。
もう一枚は、錦絵の創始者とされる鈴木春信の多色刷り木版画「雪中相合傘」。1767年頃に制作された。

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Video Art of Kei Kanamori(金森慧)

The organization that hosts the Academy Awards in the United States selects the “Student Academy Awards” every year, and this year, Kei Kanamori’s Origani was chosen for the Silver Award. It is an outstanding film that skillfully uses origami to evoke a sense of Japanese beauty, making you lose track of time while watching it.

アメリカのアカデミー賞を主催する団体が「学生アカデミー賞」を毎年選出していて、金森慧(Kanamori Kei)の「Origani」が今年度の銀賞に選ばれた。
折り紙を巧みに使い、日本的な美を感じさせる素晴らしい映像作品になっていて、時間を忘れて見入ってしまう。

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鈴木大拙 宗教とは何か?

鈴木大拙は、禅の思想が世界的に知られるようになる上で、最も大きな役割を果たした宗教学者。

「世界人としての日本人」という自己認識を持つ大拙は、東洋と西洋を対立させる二元論に立つのではなく、二元論の根底にある「無」の思想を中心に置き、禅をはじめ日本の文化や思想を西洋に伝えた。
コロンビア大学で彼の講義を聴いた中には、作曲家のジョン・ケージや小説家のJ. D. サリンジャーがいた。サリンジャーの『フラニーとズーイ』の「鈴木博士」は、鈴木大拙のことだと言われている。

「宗教とは何か?」という問いに「正しい無限を感じること」と答える鈴木大拙の宗教観を、10分程度のインタヴューで知ることができる。

中村元 仏教の本質

中村元は、日本で初めて、初期仏教の仏典を原典から日本語に翻訳したインド哲学者、仏教学者。
「学ぶこと少ない者は牛のように老いる。その肉は増えるけれど、知恵は増えない。」(ダンマパダ)から始まり、「自己に頼れ、法に頼れ。」で終わるわずか10分のビデオだが、「学問は人々の役に立つ、生きたものでなければならない。」という言葉を実践した中村の言葉を通して、仏教の本質に触れることができる。