コミュニケーションの道具としての言葉の力 — 理解と感情

「阿吽(あうん)の呼吸」とは、言わなくてもお互いにわかり合っているという意味で使われる表現。
そんな関係では、何かのおりに「ありがとうございました。」とお礼を言うと、「そんな水くさいこと言わなくても。。。」という返事が返ってくるかもしれない。

言葉で言わなければわかり合えない関係では、言葉を使ってコミュニケーションを図る。その場合には、「話せばわかる」という前提に立って会話をするのが基本である。
言葉は通じるものであり、そうでなければ、話し合う意味がない。

ところが、言いたいことが相手に伝わらないとか、誤解されたと思うことがある。
そんな時には、自分の言い方が悪かったのかと反省したり、相手の理解力のなさや勘の鈍さを責めたりもする。

では、なぜ言葉の意味や意図がスムーズに伝わる場合と、そうでない場合があるのだろう? 
そして、言葉が人の感情を動かし、喜ばせたり、傷つけたりすることがあるのは何故だろう?

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コミュニケーションについて 村上春樹『風の歌を聴け』のジェイズ・バー 柄谷行人『探求 I 』

村上春樹の『風の歌を聴け』の中に、コミュニケーションについて考えるヒントとなる場面がある。

 「ジェイズ・バー」のカンターには煙草の脂で変色した1枚の古びた版画が掛かっていて、どうしようもなく退屈した時など僕は何時間も飽きもせずにその絵を眺め続けた。まるでロールシャッハ・テストにでも使われそうな図柄は、僕には向かいあって座った二匹の緑色の猿が空気の抜けかけた二つのテニス・ボールを投げ合っているように見えた。
 僕がバーテンのジェイにそう言うと、彼はしばらくじっとそれを眺めてから、そう言えばそうだね、と気のなさそうに行った。
「何を象徴しているのかな?」僕はそう訊ねてみた。
 「左の猿があんたで、右のが私だね。あたしがビール瓶を投げると、あんたが代金を投げてよこす。」
 僕は感心してビールを飲んだ。

ロールシャッハ・テストにでも使われそうな図柄が、「僕」には、二匹の猿が二つのテニス・ボールを投げ合っている姿に見える。他方、ジェイは、一方の猿がビール瓶を投げ、他方の猿は代金を投げていると言う。

では、なぜ「僕」はジェイの解釈に感心するのだろう?

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