現代社会では、マスメディアでも、SNSでも、YouTubeでも、激しい言葉が飛び交い、ひとつの対象に向けて一斉に攻撃が加えられる場面をしばしば目にする。
事件や人物の情報に触れたとき、多くの発信者は、自分の知識が本当に正しいのかとか、その対象と自分との関係はどうなのかといったことは意識せず、過激な言葉を放つ。そして、その言葉がどんな結果をもたらすかについて、責任を引き受ける気配はない。
原因としてよく言われるのは「匿名性」だ。しかし、コメンテーターやYouTubeの配信者は、名前がはっきりしている。むしろ名前が知られているほうが、情報はあっという間に広がっていく。
SNSでも、「炎上」が再生回数を押し上げ、発信者の収入につながるシステムが出来上がっている。
こうした居心地の悪い状況を、どう理解すればいいのか。そんなことを考えていたとき、たまたまフロイトの「自我とエス」を読んでいて、なるほどと腑に落ちることがあった。
結論から言えば、それは「快楽原則」に従ったリビドー(欲動)の満足であり、対象そのものはどうでもいい、ということだ。そう思うと、いま目にしている光景の光源がどこにあるのか、少しだけだとしても見えてくる。

