
夏目漱石の『夢十夜』(1908年)は、題名の通り、10の夢から構成される短編小説集である。そのうちの4編は「こんな夢を見た」という言葉で始まり、「夢」で見た出来事が語られているという印象を読者に強く刻みつける。
ここで注意したいのは、夢はしばしば、荒唐無稽な出来事が現実の秩序とは無関係に展開する非現実的なものと考えられがちだが、しかし、実際には極めて直接的で生々しい体験だとということだ。現実であれば、見たくないものは目をつぶれば見えず、耳を塞げば声も音も聞こえない。しかし夢の中では、私たちの意志では何ひとつコントロールできず、そこから逃れるには目を覚ますしかない。「夢」とは、私たちの内的な体験そのものなのである。
一方で、目が覚めた後に語られる夢には、「見た」という表現が示すように、生の体験とのあいだに距離があることが前提となっている。「見る」ためには、何らかの距離が必要だからだ。したがって、夢を語るという行為は、現実感覚を取り戻した意識が、夢の非現実性に戸惑いながら、内的な世界を再構成しようとする試みであると言える。

第六夜の夢では、鎌倉時代の仏師・運慶が明治時代に姿を現し、鑿(のみ)をふるって仁王像を刻む。にもかかわらず、周囲の誰もその異常さに驚こうとはしない。その驚きのなさが、「夢」の世界であることを示している。
語り手である「自分」は、その世界の中で、運慶に倣い、木材に仁王像を彫ろうとする。しかし、うまくいかず、「明治の木には仁王が埋まっていない」と悟り、そのことで「運慶が生きている」理由を理解する。
その内的な体験は、何を語るのだろう。
短い夢なので、朗読を聞きながら全文を読んでみよう。