ノーベル文学賞 次の日本人受賞者は宮崎駿監督?

大江健三郎がノーベル文学賞を受賞した後、1994年10月17日に国際日本文化センターで行った講演「世界文学は日本文学たりうるか?」の中で、彼は日本文学に3つのラインを設定した。(『あいまいな日本の私』岩波新書所収)

(1)世界から孤立した、日本独自の文学。
代表は、川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫。
(2)世界の文学、とりわけフランス文学、ドイツ文学、英米文学、ロシア文学から学んだ作家たちの文学。
代表は、大岡昇平、安部公房、大江健三郎自身。
(3)世界全体のサブカルチャーが一つになった時代の文学。
代表は、村上春樹、吉本ばなな。

(1)のラインでは川端康成が、(2)のラインでは大江健三郎が、ノーベル文学賞を受賞した。
残っているのは(3)のラインということになり、毎年10月頃になると、村上春樹が受賞するのではないかという話題が持ち上がる。

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川端康成「美しい日本の私」 大江健三郎「あいまいな日本の私」 日本と世界をつなぐ回路

1968(昭和43)年、日本人作家として初めて川端康成がノーベル文学賞を受賞し、12月12日、ストックホルムのスウェーデン・アカデミーで、「美しい日本の私 ー その序説」と題する授賞記念講演を行った。

その際、川端は日本語で講演を行い、エドワード・サイデンステッカーが同時通訳した。その内容は、平安時代から鎌倉時代を中心とし、禅の精神性に裏付けられた日本的な美を紹介するものだった。

1994(平成6)年、大江健三郎がノーベル文学賞受を受賞し、二人目の日本人作家として、12月7日、「あいまいな日本の私」と題した受賞記念講演を行った。

講演の題名からも推測できるように、大江は「美しい日本の私」を念頭に置き、川端は「独自の神秘主義を語った」のだと見なし、日本人以外の人々だけではなく、現代の日本人との回路さえ閉じたものだとの考えに立ち、大江的な視点で、回路の開いた講演を目指したものだった。
そのためなのか、大江は英語で聴衆に語り掛けた。

この違いは、まず第1に、ノーベル賞の受賞理由に由来するものであり、二人の作家はその期待に応えようとしたといえるだろう。
川端の受賞理由は、「日本人の心の精髄を優れた感受性で表現する、その物語の巧みさ」。
大江の受賞理由は、「詩的な言語を使って、現実と神話の入り交じる世界を創造し、窮地にある現代人の姿を、見るものを当惑させるような絵図に描いた」というもの。
川端に期待されていたのは、「日本人の心の精髄」、大江に期待されていたのは、日本人という限定された範囲ではなく、「窮地にある現代人の姿」だったことがわかる。

大江はこの前提に立った上で、川端の描いた「美しい日本」では「世界」に通底しないとあえて言う姿勢を見せることで、「個人的な体験」から始めながら「普遍」へと至る道を示そうとしたのだった。

。。。。。

ここでは、現在の時点で私たちが「美しい日本の私」と「あいまいな日本の私」を読み直すことで、どのようなことを見出しうるのか考えていくことにしよう。

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癒やし 大江健三郎 大江光の音楽 村上春樹

ある時期から日本で「癒やし」という言葉が爆発的に使われるようになった。
しかし、その言葉があまりにも一般化したために、いつ頃から、誰の影響で、これほど普及したのか、きっかけが忘れられているように思われる。

私の個人的な経験では、「癒やし」という言葉は、大江健三郎が1980年代に発表した作品群、とりわけ『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』や『新しい人よ眼ざめよ』などの中で集中的に用いたのように記憶している。
それらの作品群の中心にいる存在は、光(ひかる)と呼ばれる障害を持つ子供。大江自身の子供がモデルになっている。

1994年に大江がノーベル賞を受賞した際の講演「あいまいな日本の私」で、「光の作品は、わが国で同じ時代を生きる聴き手たちを癒し、恢復させもする音楽」と述べたことから、一般のメディアでも「癒やし」という言葉が広く流通するようになったのではないかと思われる。(「癒やし」と「癒し」、どちらの表記も使われる。)

大江光の音楽は、今ではあまり聞かれなくなってしまったが、聴く者の胸の奥まで届く、優しい響きを持っている。

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