社会的人間関係の相対性と党派性 — 福沢諭吉『文明論の概略』の一節から

明治維新直後、福沢諭吉は、混乱する日本が欧米の侵略に抗して独立を保つため、欧米から何を学ぶべきかを考究したのだが、その中で、日本及び日本人のあり方についても鋭い洞察を行った。

ここでは、上下関係に基づく社会的な人間関係についての考察を取り上げ、現在の私たちにも関係する人間関係について考えてみよう。

『文明論の概略』第9章「日本文明の由来」では、社会的な上下関係によって態度を変える人間の様子が描かれている。

政府の吏人(りじん)が平民に対して威を振るふ趣(おもむき)を見ればこそ権あるに似たれども、此の吏人が政府中に在りて上級の者に対するときは、其の抑圧を受ること平民が吏人に対するよりも尚(なお)甚(はなはだ)しきものあり。(中略) 甲は乙に圧せられ乙は丙に制せられ、強圧抑制の循環、窮極(きゅうきょく)あることなし。

福沢諭吉の時代には、官vs民の上下関係は揺るがしようがなく、役人が一般の庶民に対して権力を振るうのが当たり前だった。
また、役人たちの中にも上下があり、庶民に威張り散らしていた人間が、上司からは威張り散らされる。
そんな風に、社会的な人間関係はその場その場の上下関係によって循環するのだと福沢は言う。

2025年には「財務省解体デモ」があり、Xの投稿に導かれた人々が中央官庁の官僚に対して抗議するメンタリティーも醸成されているが、こうした動きがエリートvs庶民という構図に基づいていることは、明治維新直後と変わりがない。
もしかすると、デモ参加する群衆の中には、自分たちよりも弱い立場にいる人間、例えば外国人労働者に対しては、排斥を訴えている人がいるかもしれない。

もしも福沢がそうした様相を目にすることがあれば、「強圧抑制の循環、窮極あることなし」と言うに違いない。

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智力 — 福沢諭吉『文明論の概略』の一節から

福沢諭吉は、『文明論の概略』(明治8(1875)年)の中で、「智力」の有無を、野蛮(非文明)と人文(文明)を区別する基準としている。

その説の根拠を知ることは、SNSやYoutubeでフェイク情報や陰謀論が飛び交い、大手マスメディアにおいても無責任なコメントが日々発信され、「表現の自由」という名の下で、無関係で無責任な人間たちによって無差別的な誹謗中傷さえ平然と行われる現代社会において、私たちが今まさに何を目指すべきかを考え直すきっかけになる。

では、野蛮と人文の違いは何か? 福沢諭吉は以下のような対比を提示する。

結局、野蛮の世には、人間の交際に唯(ただ)恩威(おんい)の二箇条あるのみ。即(すなわ)ち、恩徳(おんとく)に非(あら)ざれば暴威(ぼうい)なり、仁恵(じんけい)に非ざれば掠奪なり。此の二者の間に智恵の働きあるを見ず。

人文(じんぶん)漸(ようや)く開化し、智力(ちりょく)次第に進歩するに従いて、人の心に疑ひを生じ、天地間の事物に遇(あ)ふて軽々(けいけい)之れを看過(かんか)することなく、物の働きを見れば其の働きの源因を求めんとし、仮令(たと)ひ或は真の源因を探り得ざることあるも、既に疑ひの心を生ずれば、其の働きの利害を撰(えら)びて、利に就(つ)き害を避(さ)るの工夫を運(めぐ)らす可(べ)し。

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