ゾラとクールベ Émile Zola et Gustave Courbet 新たな現実の創造 

エミール・ゾラは小説家として知られているが、美術批評も手がけている。

ゾラが最初に試みたのは、社会主義者ピエール・ジョゼフ・プルードンの芸術論を批判し、ギュスターヴ・クールベを取り上げながら、自分の絵画論を展開した「プルードンとクールベ(Proudhon et Courbet)」。
1866年に出版されたもので、ゾラの創作活動の初期の著作。それだけに、彼の芸術論が簡潔にかつ明確に述べられている。

ゾラの主張を一言でまとめれば、絵画にとって重要なのは描かれた対象ではなく、絵画そのもの。絵画とは「線と色彩の芸術(art des lignes et des couleurs)」であり、絵画の目的は、モデルを再現することではなく、一人の芸術家が1枚の絵という新しい現実に生命を与えること。

こうした主張を実現した絵画として、ゾラは1850年前後に描かれたクールベ初期の作品を取り上げる。

Gustave Courbet, Un enterrement à Ornans

個人と生

社会主義者プロードンにとって、絵画は倫理的であり、社会を改善するためのものでなければならなかった。
そのためには、絵画の主題として、クールベのような貧しい庶民の生活を取り上げ、貧困の問題を意識化し、人類の改善に役立つ絵画が要求される。

それに対して、ゾラは、絵画は政治的な主張や哲学的な考察から独立し、絵画そのものとしての価値を持たなければならないと主張する。

芸術が有益であるべきかどうかという論争は、1830年代からすでに行われていた。
テオフィル・ゴーティエが宣言した「芸術のための芸術(L’Art pour l’art)」論は、芸術が風俗の改善に役に立つべきという思想に反駁するもの。
それに対して、サント・ブーブは芸術有益論の論陣を張り、社会一般の傾向としては有益論の方が良識(Bon sens)を持つとされる人々から支持されていた。
1850年代には、シャルル・ボードレールたちが、何かの役に立つものは美ではなく、美は美だけのためにあると主張し、良識派と対立した。

こうした流れを受け、エミール・ゾラは、プロードンの主張を利用しながら、芸術自立論を自らの美学として提示したのだと考えられる。

ゾラがまず重視するのは、芸術家という「個人(individu)」としての存在。
彼は、プルードンの芸術観を次のように定義する。

Une représentation idéaliste de la nature et de nous-mêmes, en vue du perfectionnement physique et moral de notre espèce

人類の物理的、道徳的な完成を目指して、自然や我々自身を理想的な姿で再現すること。

しかし、そのように考えると、芸術家個人の価値が死んでしまう。

vous voulez aplatir l’individu pour élargir la voie de l’humanité. Eh bien ! soyez sincère, tuez l’artiste. 

あなたは人類の道を広げるために、個人をぺちゃんこにしてしまいたいのです。そうなんです! 自分に忠実でいてください。芸術家を殺してください。

ゾラにとって最も重要なのが「個人(individu)」であり、個人の表現する「独創性(originalité)」が芸術の本質であることは、別の箇所でよりはっきりと表明される。

Moi, je pose en principe que l’œuvre ne vit que par l’originalité. Il faut que je retrouve un homme dans chaque œuvre, ou l’œuvre me laisse froid. Je sacrifie carrément l’humanité à l’artiste. Ma définition d’une œuvre d’art serait, si je la formulais : Une œuvre d’art est un coin de la création vu à travers un tempérament.  Que m’importe le reste. Je suis artiste, et je vous donne ma chair et mon sang, mon cœur et ma pensée. Je me mets nu devant vous, je me livre bon ou mauvais. 

私が原則として提示するのは、作品が生きるのは独創性のみによるということである。それぞれの作品の中に一人の人間を見なければならない。そうでなければ、作品は私にとって冷たいものに留まる。私は断固として人間全体を芸術家のために犠牲にする。芸術作品に関する私の定義は、次のように表現できるだろう。「一つの芸術作品は、一つの気質を通して見られた創造物の一画。」後のことはどうでもいい。私は芸術家である。あなたに私の肉と私の血を、私の心と私の思考を与える。あなたの前に裸の私を晒し、いい自分も悪い自分もあなたに委ねる。

私たちは一人一人が異なった「気質(tempérament)」を持っている。物事を見るときには、必然的に、その気質を通して見ているし、表現する時にも、必然的に、その気質を通して表現する。
従って、同じ物を見ても、見る人によって見え方も違えば、それを表す時の表現の仕方も違っている。
その違いが「独創性(originalité)」であり、芸術作品の価値も独創性にかかっている。
「一つの気質を通して見られた創造物の一画(un coin de la création vu à travers un tempérament)」という表現は、そうしたゾラの芸術観をコンパクトにまとめている。

ゾラはそこからさらに一歩進め、それぞれの表現は、個人の生きることそのものだと主張する。
彼は芸術家の声を代表するような形で、こんな風に言う。

 Nous faisons du style et de l’art avec notre chair et notre âme ; nous sommes amants de la vie, nous vous donnons chaque jour un peu de notre existence. 

私たちは、私たちの肉と魂で様式と技術を作り出す。私たちは生命を愛する者であり、あなたに私たちの生存を少しだが分け与えている。

芸術家とは「生命を愛する者(amants de la vie)」であり、作品はその生命の一部。
1枚1枚の絵画は、一人一人の芸術家の肉体と魂からできていて、命が息づいていなければならない。
命の抜け殻では価値がない。様式や技術も、形をなぞるだけではなく、命を与えるためにある。

そのことから、ゾラがこの時代に標語のように使った表現が理解できる。
なぜこの世に生まれてきたのかという問いに対して、彼はこう答える。

Je viens vivre tout haut.

私は十全に生きるために来た。

個人とは「命(vie)」の表出であり、ゾラにとって、現実に生きる人間も、芸術作品も、「生」が本質となる。

新しい現実

プルードンは、クールベの4枚の絵画を取り上げ、それらが描き出すテーマについて論じ、政治、宗教、風俗の面から、民衆の生活の改善について論を進めた。
その場合、絵画は単なる口実にすぎず、プルードンは社会主義者、哲学者として自説を展開したことになる。

ゾラは、プロードンのような絵画の見方は芸術的ではないと考える。

Une toile, pour lui, est un sujet. […] Il commente, il force le tableau à signifier quelque chose ; de la forme, pas un mot.

彼(プルードン)にとって、1枚の絵画は一つの主題である。彼は注釈をし、絵が何かを意味するように強いる。形態については、一言も言わない。

現在の美術批評でも、絵そのものについてはほとんど語らず、絵をめぐる様々な情報だけを伝えるものが数多くある。もしゾラがそれらを読んだら、同じように言ったことだろう。
彼にとって、絵画は、意味することよりも先に、形なのだ。絵画が「線と色彩の芸術(art des lignes et des couleurs)」というのは、そのことを意味している。

では、絵画とはどのようなものなのか?

 L’objet ou la personne à peindre sont les prétextes ; le génie consiste à rendre cet objet ou cette personne dans un sens nouveau, plus vrai ou plus grand. Quant à moi, ce n’est pas l’arbre, le visage, la scène qu’on me représente qui me touchent : c’est l’homme que je trouve dans l’œuvre, c’est l’individualité puissante qui a su créer, à côté du monde de Dieu, un monde personnel que mes yeux ne pourront plus oublier et qu’ils reconnaîtront partout.

描くべき物や人は口実にすぎない。天才とは、そうした物や人を、新しい意味、より真実であったり、より偉大だったりする新しい意味の中で表現することにある。私に関して言えば、私を感動させるのは、再現された木や顔や場面ではない。それは、作品の中に見出す人間であり、力強い個人なのだ。神の世界の傍らに自己の世界を作り出すことができた個人なのだ。私の目はその世界を今後も忘れることはなく、至るところにその世界を見出すことになるだろう。

描くモデルは「口実(prétextes)」にすぎないという言葉は、重要な意味を持っている。つまり、モデルを再現することは、芸術にとって意味を持たないことになる。

重要なのは、一人の画家によって描きだされた絵画の世界そのものなのだ。
それは、十全に生きる画家が、独自の気質に基づいてモデルを捉え、その気質に基づいて創造した世界。
「力強い個人(individualité puissante)」によって作り上げられた世界は、一度目にすれば忘れることがない。
それだけではなく、その世界像を通して現実世界を見るために、至るところにその世界が出現することになる。
ここにあるのは、再現性に基づく芸術観とは正反対の芸術観である。

最後に、ゾラによるクールベの絵画の見方を確認しておこう。

Je m’attendais à des caricatures, à une fantaisie folle et grotesque, et j’étais devant une peinture serrée, large, d’un fini et d’une franchise extrêmes. Les types étaient vrais sans être vulgaires ; les chairs, fermes et souples, vivaient puissamment ; les fonds s’emplissaient d’air, donnaient aux figures une vigueur étonnante. La coloration, un peu sourde, a une harmonie presque douce, tandis que la justesse des tons, l’ampleur du métier établissent les plans et font que chaque détail a un relief étrange. En fermant les yeux, je revois ces toiles énergiques, d’une seule masse, bâties à chaux et à sable, réelles jusqu’à la vie et belles jusqu’à la vérité. Courbet est le seul peintre de notre époque ; il appartient à la famille des faiseurs de chair, il a pour frères, qu’il le veuille ou non, Véronèse, Rembrandt, Titien.

私は風刺画とか、馬鹿げていたりグロテスクだったりする気まぐれな作品を予想していた。しかし、私の前にあったのは、ぎっしりとつまり、ゆったりとし、細部が描き込まれた、ひどく率直な絵画だった。描かれている男たちは真実で、俗っぽくはなかった。肉は引き締まり、柔軟で、力強く、生き生きしていた。背景は空気が充満し、驚くほどの活力を人々に与えていた。色彩は少し抑えめで、ほとんど穏やかともいえる調和が取れていた。その一方で、色調の正確さとゆったりとした描き方が奥行きに段階を作り出し、それぞれの細部に奇妙なほどの立体感を生み出していた。目を閉じると、私はそれらの絵を思い浮かべることができる。力強く、一つの塊となり、石灰と砂で作られ、命に達するほど現実的で、真実に達するほどに美しい。クールベは、私たちの時代の唯一の画家だ。彼は、生肉を作り出す職人たちの一族に属し、彼が望むと望まないにかかわらず、ヴェロネーゼやレンブラント、ティツィアーノの兄弟だ。

ゾラは、クールベのアトリエに招かれ、初期の作品を目にしたと書いているだけで、どの絵を目にしているのかはっきり示してはいない。
従って、正確にどの絵画について語っているのか確定することはできないのだが、彼の記述が、絵画以外の周辺的な事象には向かわず、絵そのものを対象にしていることは確認できる。

こうした絵画を見て、ゾラはこう感じる。
現実的であり、その現実性は、生に達する。réelles jusqu’à la vie
美的であり、その美しさは真実に達する。belles jusqu’à la vérité
これこそ、ゾラが絵画に求める理想に違いない。

そして、こうしたコンセプトを実現した優れた作品であれば、目を閉じても、絵が目に浮かぶ。
私たちが美術館や画集やネット上で絵を見る時にも、目を閉じてみるといい。その絵のイメージがはっきりと浮かぶかどうかが、傑作かどうかを見分ける基準となる。

ゾラにとって、クールベはイタリアの大画家たちに匹敵する存在であり、彼の時代の最高の画家だと断言する。クールベを含めた、4人の画家の自画像を見ておこう。

クールベの自画像も、他の三人の自画像と同じように、一度見たら忘れがたい。


エミール・ゾラは、彼の最初の絵画論からすでに、彼自身の美学の最も基本となる概念を提示したということができる。
1)芸術は、芸術だけを目的とし、芸術以外の有用性を持たない。
2)芸術は、現実のモデルの再現ではなく、創造されたもの自体が価値を持つ。
3)一つ一つの作品は、芸術家個人の気質を通した生の表現。

こうした概念は、エミール・ゾラの美術批評を貫く根本的な芸術観というだけではなく、彼の全ての著作の基礎をなすものと考えることもできるだろう。

小説家としてのゾラは、生理学者クロード・ベルナールの『実験医学序説』に基づき、現実世界に生きる人間を遺伝と環境との関係で解明し、その理論を活かして自然主義の作品を書いたと言われている。
しかし、彼が小説の中で作り上げた世界は、現実を客観的に再現することを目指したものではなく、遺伝と環境等の理論は、小説の中で作られる第二の現実に本当らしい枠組みを与えるために使われたのだろう。
彼が目指したのは、登場人物たちが「十全に生き(vivre haut)」、生に達するまでリアル(réel jusqu’à la vie)」で、「真実に達するまで美しい(beau jusqu’à la vérité)」作品。そして、読み終わった後、いつまでも思い出される作品だったのではないだろうか。