ドライブ・マイ・カー 濱口竜介監督の芸術

濱口竜介監督の「ドライブ・マイ・カー」は、原作とされる村上春樹の短編小説「ドライブ・マイ・カー」を超えて、大変に素晴らしい作品に仕上がっている。

その証拠は、約3時間の上映時間の間ほとんど退屈することなく、一気に見ていられること。それほど明確なストーリーがないにもかかわらず、映像と音の世界に熱中していられることは、映画作品として優れていることを示している。

ストーリーに関して言えば、村上春樹の作品の中でどちらかと言えば凡庸な短編小説「ドライブ・マイ・カー」を骨格としながら、「シェーラザード」と「木野」という別の短編小説からいくつかの要素を取りだし、俳優兼演出家である家福悠介(西島秀俊)を中心にして展開する。

一方には、家福(かふく)の私生活が置かれる。
その中で、妻である音(おと:霧島れいか)が俳優の高槻耕史(岡田将生)と浮気している現場を目撃しながら、幸福を演じようとした家福の心の葛藤に焦点が当てられる。「僕は悲しむべき時にきちんと悲しむべきだった。」

もう一方には、家福の演出するチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の上演が置かれる。
こちらは、村上春樹の小説とはあまり関係なく、滝口監督が大幅に付け足した要素。日本語、ロシア語、中国語、韓国語の手話といった多言語で演じられる演出は、滝口監督が自らの作品論、芸術論、世界観を語っているとも考えられ、しかもそれが家福の私生活と関係しているという、非常に工夫された構造になっている。

それら二つの部分をつなぐのが、渡利みさき(三浦透子)の運転する家福の車、赤いサーブ900の内部空間で交わされる会話。
そこでは、死んだ妻・音が「ワーニャ伯父さん」のセリフを読む声が流れ、家福の知らない音の夢の最後を高槻が語り、ドライバーみさきが過去を語り、そして家福も自己を語る。
映画の題名「ドライブ・マイ・カー」が、映画の全ての部分を一つにまとめている。

村上春樹的世界

「ドライブ・マイ・カー」の斬新さは、最初の場面、山並みの見える窓のこちら側に裸体の上半身を垂直に立てた音が、「彼女は時々」と語り始める場面から、妻の葬儀を済ませた家福が広島に向かう場面までの約40分の間、俳優名などを記すクレジットが表示されないことから、すぐに感じ取ることができる。

普通であれば、クレジットは、映画が始まる前か、始まってすぐに出てくる。そのことから考えると、約180分続くこの映画の中で、最初の40分は本編ではなく、前提となる部分、という作りがなされていることがわかる。

家福と音、そして音と関係を持つ高槻という人間関係は、村上春樹の短編小説「ドライブ・マイ・カー」に負っている。他方、音が性行為の間あるいは後に語る思い出らしい物語、つまり、高校生時代に男子生徒ヤマガの家に忍んでいった話や、前世ではやつめうなぎだったといった話は、別の短編小説「シェーラザード」から来ている。

村上春樹は、「シェーラザード」の初めに、物語あるいはフィクションとはどのようなものなのか、簡潔に語っている。

彼女の語る話が実際にあったことなのか、まったくの創作なのか、それとも部分的に事実で部分的に作り話なのか、羽原にはわからない。その違いを見分けることは不可能だった。そこでは現実と推測、観察と夢想が分かちがたく入り乱れているらしかった。だから羽原はその真偽をいちいち気にかけることなく、ただ無心に彼女の話に耳を傾けることにした。本当であれ噓であれ、あるいはそのややこしい斑(まだら)であれ、その違いが今の自分にどれほどの意味を持つというのだ?

小説も映画も、現実ではなく、作り物の世界。しかし、現実と同じかあるいはそれ以上にインパクトを持つことがある。
現実か夢かといった区別が決定的な意味を持つのではなく、真偽を気にかける必要はない。この部分は作者や監督に現実に起こったことだとか、こんなことはありないとか、現実性を確かめる必要もない。ただ無心に小説を読み、映画を見ていればいい。
人生は一場の夢かもしれず、フィクションは心的現実だと考えていい。

シェーラザードと名付けられた女が、実際に性交の後で話をしたかどうか、前世でやつめうなぎだったときに本当に鱒を食べたのかどうか、高校時代の報われない恋の相手の家に忍び込んだのかどうか、それらの真偽を確かめる必要もないし、また確かめることもできない。
話を話のまま受け止めるだけでいい。
村上春樹の芸術観の根本がここで示されている。

そして、そのフィクション論に共感するからこそ、浜口監督は、小説の中ではほとんど描かれない家福の妻のパーソナリティーを作り上げるため、シェーラザードのエピソードを持ってきたに違いない。

小説「ドライブ・マイ・カー」で村上春樹が問題にするのは、子どもを亡くした喪失感を抱えた妻が、なぜ他の男とセックスしなければならなかったのかという家福の自問。
妻が生きているうちに聞いておけばよかったと悔い、不倫の相手である高槻とバーで話をし、ドライバーのみさきとも話をし、なんらかの答えを見つけようとする。

高槻の答えは、一言で言えば、「自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。(中略)本当に他人を見たいと望むなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです。」というもの。
浜口監督は映画の中で、この言葉はほぼそのまま高槻に説得力を持った語らせ方をしているので、この考え方に同意しているものと思われる。

他方、みさきは、奥さんは心なんて惹かれていなかった、だから寝た、女の人ってそういうところがある、と言う。そして、それは病のようなものだから、頭で考えてもしかたがない。「こちらでやりくりして、呑み込んで、ただやっていくしかないんです。」

その言葉を受け取った家福はこうつぶやく。
「そして僕らはみんな演技をする。」

「演技」に関しては、それ以前にすでに一度説明されていた。それによれば、演技することは別人格になることであり、それが終わったら元の人格に戻る。しかし、戻って来た時には、前とは少しだけ立ち位置が違っている。
そして、小説のほぼ終わりに、語り手は同じことを繰り返す。

そしてまた舞台に立って演技をする。照明を浴び、決められた台詞を口にする。拍手を受け、幕が下りる。いったん自己を離れ、また自己に戻る。しかし戻ったところは正確には前と同じではない。

この言葉は、村上春樹の最も根本的な人間観を反映している。
自分と自分の間に常に「ズレ」がある。そのズレが決してなくなることはない。そこで、自分であることに居心地が悪く、どこにいても、誰といても、違和感がある。

妻との関係について言えば、他の男たちと寝た理由を知りたい自分と、その理由を聞かない自分がいる。悲しみ、傷ついた自分と、そこから目を背けたい自分がいる。
その「ズレ」は、常に自分の中に存在し続け、決して解消することはない。
というのも、どちらが本当で、どちらが偽りということはなく、もし理由を尋ねていれば、尋ねなければよかったと悔いる自分が生まれるからである。

その意味で、どの自分が本当で、どの自分が偽りということはない。どの行為も演技である。演技しない自分は実体的に存在するのではなく、演技する自分から仮説的に導き出される自分にすぎない。
これが村上春樹の人間観だといえる。

では、浜口監督は、村上と全く同じ人間観を持っているのだろうか?

ズレの存在

「ズレ」の存在については、浜口監督は、村上の世界観を共有しているものと考えられる。だからこそ、「ドライブ・マイ・カー」を取り上げたに違いない。

家福は妻を深く愛しているし、妻も彼を愛している。そして、二人は肉体的にも満足する繋がりを持つ。そこに、心と体のズレはない。
しかし、妻は他の男たちとも性的な関係を持つ。男たちを愛してセックスするのか、愛のないセックスをするのか、小説でも、映画でも、謎は残されている。
とにかく、夫からすると、愛しているはずなのになぜ?という疑問が残り、心と体の間に「ズレ」が感じられる。あるいは、愛しているという「言葉」と彼女の行動に「ズレ」があるということかもしれない。

音の「ズレ」がよりはっきりと示されるのは、性行為をしながら、思い出とも妄想ともつかぬことを語ること。行為と言葉の間には明らかに「ズレ」がある。

では家福には「ズレ」はないのか?
もちろん、「ズレ」はある。
そして、それを見ないようにする「演技」が、「すべきだったのにしなかった感」を生み出し、彼が彼であることの「居心地の悪さ」や「違和感」を作り出す。

「ドライブ・マイ・カー」の家福のそうした自己感覚は、「木野」の主人公で、家福と同じように、妻が他の男と関係を持ち、去っていった木野の内省と対応している。

木野は、空想の中の妻に「傷ついたでしょ?」と問いかけられ、「僕もやはり人間だから、傷つくことは傷つく。」と答える。しかし、次に語り手はこう付け加える。

でもそれは本当ではない。少なくとも半分は噓だ。おれは傷つくべきときに十分に傷つかなかったんだ、と木野は認めた。本物の傷みを感じるべきときに、おれは肝心の感覚を押し殺してしまった。痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった。

彼は、傷ついている心を押し殺し、何事もなかったかのように演技し、「虚ろな心」を抱き続けている。

こうした「ズレ」の問題を、濱口竜介監督は見事に映画化しているシーンがある。
妻の浮気の現場を目撃した家福は、その後で自動車事故を起こす。修理から戻った自動車を音が運転し、家福は助手席に座り、自宅に向かう。

「ぼくは君のことを深く愛しているけど、」
「何、急に。」
「どうしても耐えられないことが一つある。」
「何?」
「君の運転。頼むから前見て。」
「ふふ。」
「何でさっきのタイミングで車線変更しないの!」
「そういうの、一歩間違えるとモラハラだからね。」

家福の言葉に「ズレ」があることはすぐに感じられる。
彼が耐えられないのは、妻が他の男たちと性的な関係を持つこと。音の「何?」という言葉には、不安がよぎっている。
しかし、家福は、彼女の運転が耐えられないことだと、質問の意図をずらす。そうすることで、聞くべきことを聞かないでおいてしまう。だから、傷つくべき時に傷つかないまま、虚ろな心を抱き続けることになる。
ごく普通の夫婦の会話の場面だが、「ズレ」を見事に映像化し、こういってよければ、村上の小説では言葉で表現される問題を、映画的に表現することに成功している。

そして、この場面は、広島で家福がみさきをドライバーとして無理矢理押しつけられた際に、彼女を受け入れる場面と連動している。
初めて家福を乗せて広島国際会館から宿まで向かう道路で、みさきは何気なく車線変更して、車を追い抜く。妻がしなかった車線変更を難なくこなし、ひたすら前を見て運転する。

台詞もなにもないシーンだが、映画的には、この場面ですでに家福はみさきをドライバーとして受け入れることを予測させる。
そして、その運転は、「ズレはなくなるのか?」という次の問いへの、濱口監督の答えを予想させる。

ズレは解消できるか?

浜口監督は、村上の小説ではわずかにしか言及されない「ワーニャ伯父さん」を映画の中心の一つに据え、様々な言語で演じるという演出をすることで、「ズレ」の問題について、彼なりの回答を示した。
それはまた、監督が映画を通して観客に伝えようとする伝言にもなっている。

一つの芝居を日本語、英語、中国語など異なる言語で演じることは、文化の多様性の表現と見なすことができる。
しかし、それ以上に、韓国の女優イ・ユナ(パク・ユリム)の言語を手話としたことで、演出の斬新さが際立つと同時に、多言語の意図を読み取るヒントにもなっている。

手話は、身体言語であり、身振りを使って意味を伝える。それを理解できない者にとって、身体の動きという表現を見ることはできるが、意味を理解することはできない。
そのことは、身体の「表現」とその「意味」が分離していることに気づかせるになる。

中国語を学んでいない日本人にとって、音声表現は聞こえても、意味は理解できない。そこから、日本語でも、英語でも、話し言葉は「音声」と「意味」に分かれていることに気づく。

つまり表現と意味は一体化しているのではなく、それらの間には「ズレ」がある。
そのことは母語の場合も同様なのだが、しかし母語では音が聞こえると意味がストレートに理解できてしまう。というか、誰もが同じように理解していると思い込んでいる。

逆にいえば、表現と意味の「ズレ」に気づかずにいる。
そして、あまりにも自然であるために、理解できていると思い、誤解が生じるとびっくりしたり、相手をなじることさえあるかもしれない。
もし母語で話しながらまったく理解し合えないと、会話は不条理なものにさえなる。

浜口監督は、母語に関しても言葉を異化し、表現と意味のズレを意識させる方法を、ジゼル・ブロンベルジェ監督による『ジャン・ルノワールの演技指導』からヒントを得て考案したらしい。

その方法とは、台詞をあえて棒読みにすること。ルノワール監督によれば、最初から感情を込めて台詞を言うと、その感情は型にはまったものになってしまう。そこで、最初は棒読みにして紋切り型の表現を忘れ、その後から、演じる状況の中で俳優がその場に適した独自の表現を生み出していく。

別の視点から見ると、棒読みすることで、音声表現に不自然さが生まれる。意味は理解できるけれど、どこか違和感が残る。
「ドライブ・マイ・カー」では、家福が行う演技指導の場面だけではなく、妻の音がセックスしながら物語を語る語り口や、彼女がカセット・テープに吹き込んだ「ワーニャ伯父さん」の台詞の読み方が、あえて棒読みに聞こえるように仕組まれている。

普段であれば、音声が聞こえ、意味が理解できると、音声は忘れられる。しかし、不自然なイントネーションだと、音声表現そのものに注意が向く。
あえて音声と意味の自然なつながりを歪めることで、普段であれば消えてしまう音に耳を傾け、言葉そのものが際立つ。
さらに、意味を理解するために、より注意深く相手の言葉に耳を傾けるようになる。

俳優たちはそうした訓練を経た後で、今度は感情を込めて台詞を言う。すると、その時その場でその俳優にしか表現できない意味や感情が生み出される。それが、舞台上の相手に伝わり、ひいては舞台を見ている観客、そして映画を見ている観客に、強い印象を与えることになる。

実際、家福を演じた西島秀俊は、あるインタヴューの中で、感情を込めないで台詞を読む練習がいかに有効だったのか述べている。

ユリムさんは、相当練習されたようで、当然本読みも手話で行うわけです。そこでは感情を込めずに、セリフを手話で表現していく。やがて、ここに感情を込めていくと、ものすごくセリフが伝わってくるんですよ。(手話では)表情も大事な情報ではありますが、機械的に行っていたものが、ここまで変わってしまうものなのかと。とあるシーンでは、相対する形ではなく、僕が本人の目線で、「手話を見る」場面があるのですが・・・。これは一体何なのだろうなと。(意味の)伝わり方がすごかったんですよね。本当に素晴らしかったです。

このように考えると、他言語は、意味が通じない対話であるがゆえに、意味が通じていると思っている母語同士の対話よりも、理解度が高まる可能性があることに気づく。
とすれば、濱口竜介監督は、村上春樹にとっては決してなくなることがない「ずれ」が、一瞬だけかもしれないが消滅すると信じているのだと考えられないだろうか。

「ズレ」解消の可能性は、劇中劇で演じられる「ワーニャ伯父さん」の扱いからも推測できる。

家福が最初に舞台上で演じるのは、サミュエル・ベケットの「ゴドを待ちながら」。この芝居は、二人の浮浪者が決して来ないゴドを待ち続け、最後は二人が自殺を図るけれど、失敗するというもので、不条理劇の代表作と見なされている。
それを、家福は日本語で、外国人の俳優はロシア語で演じる。そして、一方が「ズボンを上げろ!」と言うと、他方のズボンがずり落ちる。
従って、言葉は発せられても無意味でしかない、不条理な状況が描かれているのだといえる。

次に家福が演じるのが「ワーニャ伯父さん」のワーニャ。その後の広島の演劇祭では、最初にワーニャの役を高槻にふり、その後再び自分が演じることで、幕が下ろされる。
この流れは、ストーリーの展開としては予想可能なものである。

それ以上に重要なのは、芝居の最後にソーニャがワーニャ伯父さんにかける言葉が、不満足な生をそのまま受け入れることで得られる安らぎを暗示していること。

ワーニャは、妹の夫であるセレブリャコフ教授を尊敬し、母や姪のソーニャと田舎で働きながら、妹夫妻を経済的に支える。妹の死後、教授は若くて美しいエレーナと結婚、都会から戻り、彼らの家で暮らすようになると、田舎の生活習慣がすっかり変わってしまう。ワーニャは不平や嫉妬を募らせると同時に、エレーナへの愛も募らせ、最後は、教授を拳銃で撃つが、弾は当たらず、セレブリャコフ夫妻は家を出て行く。
そうした絶望的な状況の中で、芝居の最後に、ソーニャはワーニャ伯父さんの魂にとって救いとなる言葉を語りかける。

ワーニャ伯父さん、生きていきましょう。長い、はてしないその日その日を、いつ明けるとも知れない夜また夜を、じっと生き通しましょう。運命が送ってよこす試練にじっと耐えましょう。(中略)そして、最期がきたら、おとなしく死んでゆきましょう。あの世へ行ったら申し上げるの、あたしたちは苦しみましたって、涙を流しましたって、辛かったって。すると神様はあたしたちのことを憐れんでくださる。(中略)その時には、今のこの不幸な暮しを懐かしく、微笑ましく振り返って、私たち、ほっと息がつけるんだわ。私、本当にそう思うの、心の底から、燃えるように、焼け付くように、そう思うの・・・ほっと息がつけるんだわ!

状況は何一つ変わったわけではない。しかし、生も死も受け入れる覚悟をすることで、素直に、「苦しみましたって、涙を流しましたって、辛かったって。」と言うことができる。
この言葉は、みさきの壊れた家の前で、家福が涙ながらにつぶやいた言葉だ。

そして、そう言うことができれば、常に不満を抱えた人生を思い返す時にも微笑ましく思えるに違いない。そう思うことができれば、ほっと息がつけると、ソーニャは言う。

映画の中では、この場面は広島国際演劇祭の舞台上で演じられ、イ・ユナが手話で家福に語り掛ける。
その際、家福と同様、手話言語を知らない観客も、彼女の身振りが何を意味しているのか「意味」は理解できない。しかし、家福と同じように、意味を超えた何かが伝わってくる。
家福の場合には、手の動きを目にしながら、ユナの体の温かさから、伝わるものがあるだろう。
観客には、字幕で意味が告げられる。

この場面において、表現と意味の「ズレ」はありながらも、しかし解消されている。言葉としての意味は理解できなくても、それ以上の何かが伝えられるのだ。
これこそ、濱口竜介監督が、村上作品の「ズレ」から出発しながら、「ズレ」を解消できると考えていることの現れに他ならない。

過剰な解釈の誘惑

「ドライブ・マイ・カー」はカンヌ映画祭で受賞し、アカデミー賞にノミネイトされるなど、話題性があるために、数多くの解説がなされている。それらはそれぞれに興味深い点もあるのだが、時として過剰になったり、踏み込みすぎであったりすることもある。

映画の内容を解説する時、しばしば小説を解説するのと同じように、ストーリーの展開に応じて、登場人物の性格を語り、彼らの行動について心理的な分析をし、なぜ?の答えを出そうとすることが多い。
その答えに説得力を持たせるために、背景に置かれた小物や部屋の配置など、あまり気づかれないと思われる要素を取り上げ、それらに象徴としての意味付けをすることもある。

「ドライブ・マイ・カー」は、芥川龍之介の言葉を借りると、「話のない話」であるともいえる。
歴史物や恋愛物語などのように明確な起承転結がなく、家福、音、高槻、の心理が少しづつ言葉で説明されるために、ストーリーを追うことに慣れた観客にはわかりづらく感じられる。
しかし、そのためにかえって、多様な解釈もされることになる。

一つの例を挙げると、ドライバーみさきは北海道出身で、あまり恵まれない状況の母親は、家が雪崩で壊された時に死んだ。父親は彼女が小さい頃に家を出たまま。出身は山口か広島あたりらしい。
映画のラストシーンでみさきは韓国に渡り、家福のサーブ900を走らせる。
こうしたことから、みさきの母親は在日韓国人に違いなく、云々、といった解釈をする。

証明することができないそうした解釈をすることは自由なのだが、濱口竜介監督は、最初韓国のプサンをロケ地にしたかったが、コロナの影響でそれができず、日本でロケ地を探し、広島にしたとインタヴューの中で述べている。としたら、最後のシーンは、監督の最初の思いを少しだけ実現したものと考えることもできる。

また、舞台が広島であり、家福とみさきがゴミ処理場で平和公園に言及していることもあり、海外では「広島」に特別な意味を持たせて解釈することもあるという。

こうした理解は、映画全体が伝えようとするものに直結するというよりも、解釈する本人のこだわりを映画のある部分に投影している理解の仕方だといえる。
それを許すのも映画の楽しみの一つだろう。例えば、サーブ900には、「多摩503 39−82」というナンバー・プレートが付いている。この番号になんらかの象徴性を見つける解釈者が出て来ないとも限らない。

ストーリーを追い、登場人物の心理を読み取りたいと願う映画ファンのための場面として、いくつかのクライマックスも準備されている。こうした場面も、しばしば様々な解釈の対象になる。

中国語を話す台湾の舞台俳優ジャニス・チャン(ソニア・ユアン)と韓国語の手話を使うイ・ユナが、公園の中で、言葉が通じないにもかかわらず、迫真に迫った演技で演じる場面。チェーホフ「ワーニャ伯父さん」の中で、それまで仲の悪かったエレーナとソーニャが和解する場面が二人によって見事に表現され、家福は「今、何かが起きていた。これを観客に劇場で伝えないといけない。」と他の俳優たちに向かって言う。

みさきが運転する車の中で、家福と高槻が音の夢について語り合う場面も、印象的に描かれる。
夫は夢の途中までしか知らないが、高槻は最後まで聞いていた。高槻はその結末を語った後で、他人の心をのぞき込むのは無理だが、自分の心なら可能。自分の心と折り合いをつけ、他人を見たければ自分を見つめるしかないと、非常に長い言葉を一気に語る。
場面の全体は暗く、バックには夜の町を光の筋が照らしている。その中を、二人の男の顔が交互に映し出される。
その場面で高槻を演じる岡田将生の演技が素晴らしいという評価も多い。

ストーリー的にクライマックスになるのは、北海道にあるみさきの壊れた家の前で、家福とみさきが抱き合うシーン。
その直前、みさきは母が別人格さちを持っていたと語り始める。さちは母の中にある最後の美しいものであり、唯一の友だちであった。従って、母の死は最愛の友を失うことにも繋がった。
その告白を聞いた家福も、正しく傷つくべきだったのに、本当のことをやり過ごしてしまった。そのために傷つき、妻を永遠に失った。音に逢いたい、謝りたい、帰ってきてほしい、生きて欲しいと、痛切な自責の念を、みさきに告白する。
そして、みさきが家福の胸に体を寄せ、家福が彼女を抱きしめる。

こうした要素は、観客たちを映画の世界に引き込み、観客の心を揺さぶり、映画について語りたいという気持ちを引き起こすことにつながる。

映画的な面白さ

浜口監督が、あえて映像で映画的な表現をした場面がある。
ストーリーとは何の関係もなく、闇の中を走る赤い車のサンルーフから、タバコが日本差し出されるシーン。
いつもは車の中でタバコを吸うことを禁止している家福が、みさきにタバコを吸っていいと言う。そして、二人は開いたサン・ルーフから手を出し、二本のタバコが闇の中で不思議な光景を作り出す。
この映像は印象的で、いかにも映画的だ。

「ドライブ・マイ・カー」がどのような映画なのか、最も端的に感じ取ることができるのは、家福とみさきが広島から北海道に向かう場面だろう。
ストーリーを語ることを目指している映画であれば、旅程の部分はカットし、出発点と到着点を示すだけで十分なはず。それに対して、「ドライブ・マイ・カー」では、二人が車に乗り、わずかな会話をしながら道路を走り続ける場面が約13分も続く。しかも、車の中のシーンがほとんどで、動きが少なく、何かが起こるわけでもない。
それにもかかわらず、私たちは少しも退屈せず、ずっと映画の中に入り込んでいられる。そこに映画的な面白さがあるだ。

みさきが運転するサーブ900は、広島を出発し、高速道路を走り、北へと進んで行く。映し出されるのは、車内の二人の横顔と外に広がる風景。
物語的には単調だが、風景は様々に変化する。昼間の青い空、夜の闇。トンネルを通るにしても、真っ暗な中で赤く電気に照らされるところもあれば、横が柱で外の景色が見えるものもある。
途中でコンビニに寄ることもあるし、車で北海道に行くためにはフェリーに乗るところもある。
そうした映像が次々に展開する。

音声は、車が走る時の自然音、風と雨の音、そして二人の会話の声。
他には、フェリーで聞こえる波の音と、テレビに逮捕された高槻の写真にかぶって聞こえる彼が罪を認めたというアナウンサーの声だけ。音楽は入らない。

映画は視覚と聴覚だけに働きかける芸術だが、この13分の間、観客は、車の進行に連れて変化する風景と、その中を走る車の音だけの空間に置かれている。
ストーリーとしては、家福とみさきが、お互いに妻と母の死の状況を語り、二人は大切な人を殺したのだという思いを共有する部分が意味を持つ。しかし、その時間は2分30秒程度にすぎない。
後は、ストーリー的には余分な部分なのだ。
それにもかかわらず、映画の中でもっとも印象的なシークエンスになっている。まさに、Drive my car。

そして、こうした映画的な面白さに気づくと、それまで見てきた様々な場面で、映像と音声そして音楽が、実に巧みに構成されていることに気づくことになる。

ここでそれらについて取り上げることはしないが、映画祭での「ワーニャ伯父さん」の上演が終わった後、みさきだけが韓国にいて、コンビニで買い物をし、最後に車を走らせるシーンだけ見ておこう。

コンビニでは、みさきも韓国語を話し、日本の観客のためには、日本語の字幕が付く。
コンビニから出ると、駐車場で車に乗る。その車はサーブ900。中には、韓国人夫妻の家にいた犬が乗っている。一人なので台詞はなく、音楽が入る。車のエンジン音がし、車が走り出す。
みさきは車の中でマスクをはずし、犬の顔をなぜ、前を向いて走り続ける。
そのシークエンスが2分強続き、タイトルエンドが入る。

この最後のシーンは、広島から北海道に向かうドライブとは長さも、作り込みもかなり差があるように感じられる。
映画的には、「ワーニャ伯父さん」の最後の場面で終わるのは、あまりにも唐突すぎるだろう。最後は、どこか解放感のある雰囲気を出し、観客がカタルシスを感じるような終わり方が好ましい。
すでに記したように、濱口竜介監督は最初、この映画のロケを韓国の釜山でするつもりだったが、コロナ・ウイルスの影響で実現できず、舞台を広島にしたという。
そうしたことを考えると、韓国で撮影された最後の部分は、韓国とコロナという二つのテーマを反映していると考えられる。
それを映像と音声で表現し、映画の終わりに、解放感のあるシーンを付け加えたのだろう。

ストーリーをたどり、登場人物の心理を解読し、様々な物を象徴的に解釈する。そうした映画の見方から少し離れたところに、映画そのものとしての面白さがある。そうでなければ、小説を読むのと同じような解釈をしてしまうことになる。

映画は視覚と聴覚に訴えかける芸術であり、映像と音により多くの注意を払うことで、より面白く見ることができるようになる。
ストーリーがそれほどなくても、その二つの要素が巧みに組み合わされていれば、私たちは映画を楽しむことができる。
「ドライブ・マイ・カー」は、そうした映画的な面白さを存分に味わわせてくれる。だからこそ、「話のない話」的映画でありながら、3時間をあっという間に過ごすことができるのだろう。

映画表現の伝える力

演出家である家福が役者たちに台本を「棒読み」させる場面が何度も出てくるが、その演出法は、濱口竜介監督の演出方法でもあるという。そこで、「ドライブ・マイ・カー」は、監督が自身の作品について語る映画であるとも考えられる。

役者には、本読みの時は感情的な表現は抜いて、ひたすら平坦にテキストそのものを読み上げてもらいます。本読みをやることによって、役者は考えなくても、自動的に言葉が出てくるようになる。それだけで、撮影現場で安心できたり、集中できるようになるのではと考えています。相手の役者が感情的なニュアンスを込めて話すのを撮影現場で初めて聞くので、本読みをしておくとそのニュアンスを感知しやすく、そこで起きる役者たちの相互反応の連鎖によって、演技が進んでいくようになります。

この発言は撮影現場に則したものだが、演劇の台本を読む場合にも同じことがいえる。
映画の場合も、芝居の場合も、役者が語る言葉は決まっている。ということは、言葉を発する前にすでに意味は決まっていることになる。
そして、多くの場合、役者たちは、その意味を伝えるため、言葉のイントネーションを工夫し、ニュアンスを付け加える。

ところが、すでに「ズレは解消できるか」の項目で記したように、言葉の特色は、意味が伝わると、表現はしばしば意識されなくなってしまうことにある。「何を言ったか」がわかれば、「どのように言ったのか」は、それを体感しているにもかかわらず、意識の外に置かれがちになる。

もしナチュラルに台詞を読むと、当たり前すぎて、表現そのものに意識が向かわなくなる。
その反対に、イントネーションを押さえ、抑揚を単調にすると、その表現が不自然になり、意識化される。それと同時に、意味を理解するために意識を向けないといけない。
例えば、「はし」。
棒読みで読まれると、「橋」なのか、「箸」なのか、「端」なのかわからない。
そこで、「ハシ」という音にも、その意味にも注意を向けることになる。
つまり、不自然さが、意味への注意力と表現への注意力とを同時に要求することにつながる。

台本を読む場合、知っているはずの言葉の意味をもう一度確認することになるし、とりわけ言葉が発せられる「声」そのものを感じるようになる。
そして、実は、この「声」が、意味よりも、発言した人の心模様を的確に表現してることがある。
「元気です。」とあまり疲れた声で言った時など、「どうしたの?」という聞かれたりもする。

浜口監督も言葉における「声」の役割をはっきりと意識している。

声の情報量って、とても多いんですよ。声を注意深く聞き取られてしまったら、その日の体調とか、精神状態みたいなものが、かなりわかってしまうと思います。それは自分がインタビューした経験だとか、こういうインタビューを受けている時の自分の声から感じることなんですけど。つまり演技が基本的に発声を伴うならば、役者自身の状態が常に晒されていることになります。

何かを話す時、言葉の意味よりも、口調や声の方がありのままが伝わりやすい。こう言ってよければ、言葉を偽るよりも、「声」を偽る方が難しい。

こうした人間の言語活動を見据えた上で、浜口監督は、台本を役者たちに棒読みさせる場面以外に、もう一つ興味深い場面を設定している。
それは、車の中で流される家福の妻である音(おと)の「声」。

カセット・テープに吹き込まれているのは、「ワーニャ伯父さん」のワーニャの台詞以外を抑揚なく読む声。その声を聞きながら、家福はワーニャの台詞をあまり感情を込めずに口から発する。

何度か繰り返されるこの場面は、すでに死んでしまった妻が、声によって存在しうることを示している。
何度も聴いてうんざりしないかという問いかける家福に対して、音を知らないドライバーみさきは、「この声が好きなんだと思います。」と答える。声だけで人に好悪の感情を引き起こす力があるのだ。

そのみさきに家福は、録音した妻の声とのやり取りがどのようなものか説明する。

ぼくのやり方は、戯曲の流れを本当に全部頭に入れておく必要がある。ワーニャはもともとぼく自身が出演していたから、ワーニャの台詞の部分があいている。ぼくのリズムで台詞を言えば、ピッタリ次の台詞が来る。

台本はあるのだから、意味の整合性は役者が台詞を発する以前に決定されている。その一方で、早すぎたり、遅すぎたりすれば、言葉同士のリズムがずれてしまい、ピッタリと合わなくなってしまう。
妻の声と家福の声がピッタリと合うとしたら、二人の表現が調和し、二人の間には一体感があったことになる。

家福は妻との間に常に「ズレ」を感じ、「僕は悲しむべき時にきちんと悲しむべきだった。」と悔い続けているように見える。これは村上春樹の世界だ。そこでは、ズレをズレとして何らかの違和感を感じながら生きることが、生きることなのだ。

濱口竜介は、その「ズレ」を前提にした上で、「ワーニャ伯父さん」を中心に、一方では、音と家福の声のやり取りを通して、他方では、他言語で演じるという演出を描くことで、「ズレ」は解消することができ、表現そのものを伝えることができるという世界観を提示した。

そのように考えると、「ドライブ・マイ・カー」は、映像と音声によって構成される映画表現が、観客に伝わる芸術であると宣言する映画といっていいだろう。


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