
1904年(明治37年)2月から1905年(明治38年)9月にかけて行われた日露戦争の中で、旅順要塞を日本軍が包囲し陥落させた戦いは、旅順攻囲戦と呼ばれている。
与謝野晶子は、その旅順攻囲戦に兵士として送り出された弟の命を心配し、「君死にたまふことなかれ」と歌った。
「君死にたまふことなかれ」
旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて
ああ をとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ、
末に生まれし君なれば 親のなさけはまさりしも、
親は刃をにぎらせて 人を殺せとをしえしや、
人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや、
堺の街のあきびとの 旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば、君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの 家のおきてになかりけり。
君死にたまふことなかれ、 すめらみことは、戦ひに
おほみづからは出でまさね、かたみに人の血を流し、
獣の道に死ねよとは、死ぬるを人のほまれとは、
大みこころの深ければ もとよりいかで思されむ。
ああをとうとよ、戦いに 君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに おくれたまえる 母ぎみは、
なげきに中に、いたましく わが子を召され、家を守り、
安しと聞ける大御代も 母のしら髪はまさりぬる。
暖簾のかげに伏して泣く あえかにわかき新妻を、
君わするるや、思へるや、十月も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、この世ひとりの君ならで
ああ また誰を たのむべき、君死にたまふことなかれ。
一読すればわかるように、明治天皇(すめらみこと)自らが戦いに出るわけでないのだし、お前が戦争で命を落とす必要などない、生きていて欲しい、という内容で、反国家的なものとして反発を引き起こしても不思議ではない。
実際、「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり。」と強く非難された。
それに対して、与謝野晶子は、「歌はまことの心を歌うもの」と反論した。
平和な時であれば、誰しもが晶子の言葉をそのまま受け入れるに違いない。
しかし、一旦戦争が始まってしまうと、命よりも国が大切と主張する声が大きくなり、命を捨てて戦うことが美徳であるかのように多くの人が思うのも自然なことだろう。
与謝野晶子の戦争に対する姿勢の変化は、そうした人間のあり方をはっきりと示している。
「旅順攻囲戦」で戦場に駆り出された弟に向けて、「親は刃をにぎらせて、人を殺せとをしえしや、/人を殺して死ねよとて/二十四までをそだてしや」と、戦争を殺人だと断定し、「君死にたまふことなかれ」と呼びかけた与謝野晶子。しかし、この歌人も、1931年の満州事変の後になると、国のために戦う心を「美風」と讃える歌を詠むようになる。
1932年に発表した「日本国民朝の歌」では、「第一次上海事変における日本人の忠義と正義」を讃えた。
武人にあらぬ国民も、尖る心に血を流し、
命を断えず小刻みに、国に尽すは変り無し。
(・・・)
無力の女われさへも、かくの如くいわんに思ふなり。
況やすべて秀でたる、父祖の美風を継げる。
(『定本與謝野晶子全集 第10巻 詩集2』 )
「武人にあらぬ国民」という言葉は、明治維新後に導入された徴兵制を反映していると考えられる。江戸時代には、帯刀が正式に許されたのは武士身分に限られており、百姓・町人といった身分とは明確に区分されていた。「士」と「農工商」は法的にも社会的にも異なる身分秩序に属する人々と見なされていたのである。
そして、与謝野晶子は、1942年(昭和17年)なると、日中戦争が拡大し太平洋戦争へと突入するなかで、「水軍の大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」(『短歌研究』1942年1月号)など、国策に呼応する作品を詠むようになっていった。
晶子を見ていると、人間とはつくづく複雑で、その時々で変化し、弱い生き物だと思ってしまう。
ところで、柄谷行人は、『世界史の実験』の中で、日本人にとって「武士道」がどのようなものなのか、次のように記している。
それを読むと、与謝野晶子がなぜ「君死にたまふことなかれ」と歌ったのかがよくわかる。
武士道の宣布が明治4年の徴兵制の発布とともに始まった。それは、日本人はすべて武士であり、したがって兵士とならねばならないということを意味する。徳川時代に農民や町人が、自分は武士だなどということは許されなかったし、いうはずがなかった。明治維新のあと、武士でなかった者を徴兵するために、武士道が説かれたのである。また、新渡戸稲造は西洋の騎士道とパラレルなものとして、英文で『武士道』を書いた。武士道とは、人が範とすべきノーブルな在り方だということになる。
一方、それに対する批判もあった。それはこの徴兵制によって人々が戦争に動員されたときに出てきた。例えば、日露戦争の際に、与謝野晶子は、「ああをとうとよ、君を泣く、君死にたまふことなかれ」と歌った。武家ではなく堺の商人の子なのだから、戦で死ぬなどということは「家のおきて」にない、ということなのだ。(中略)
とはいえ、武士をこのように見ることも、別の意味で時代錯誤である。例えば、「武士道とは死ぬことと見つけたり」(『葉隠』)というような考え方が出てきたのは、徳川時代に武士が都市に住み、戦もしなくなってからのことにすぎない。要するに、武士道とは、武士が不用となった時代に生まれた観念でしかなかった。
「兵農分離」以前、武士は「武芸」を売り物にする芸能者の一種であった。無闇に死んだり、人を殺したりすることはしなかった。武士は、もっと遡れば、山地で焼畑農業とともに弓矢で狩猟を行う人たちであった。確かに獣を殺すが、必要以上にそうすることはなく、また慰霊を欠かさなかった。
何が大切なのかを決めるのも難しいし、何が正しいのか決めるのはもっと難しい。
「君死にたまふことなかれ」を弱腰でエゴイスティックだと非難する人もいるだろうし、共感する人もいるだろう。
とにかく、一方の主張が正しく、そうでない考えを誤りとして攻撃することは、戦争の精神に動かされた大きなうねりと軌を一にしているようだ。
与謝野晶子のパリ滞在を紹介する番組。
家業を継ぐ筈の商人の息子が、武士の真似事をして死ぬ。通常の感覚なら、武士でも無いのに何故戦場に行かなければならないのかと泣くのが普通。晶子の弟は戦に赴く前に結婚した。弟が戦死すれば若すぎる妻は取り残される。残された若い妻がその後どの様な運命に翻弄されたのか。息子を戦争へ赴かせた親が結局、心の底で悔やまない訳も無く…明治維新では有志武士達の血が沢山流れたらしいが。
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与謝野晶子の例は、人間には二つの傾向があることを教えてくれるようです。
(1)身近な人は絶対に死んで欲しくない。非常に個人的な内心の声です。
(2)大義のためであれば、死を覚悟して死ぬこともやむを得ない。身内の者に対してでなければ、この感情は持ちやすくなります。
人間は、この二つの感情をコントロールしながら、やり繰りしているのではないでしょうか。
多くの場合、(2)の声が大きくなると、(1)の声は出しにくくなります。
そして、しばしば、(2)の声が内心の声だと思ってしまう傾向があるようです。
何もないときであれば、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」に多くの人が賛成するのですが、いざ戦争になれば国家に対する罪だと罵る人たちが出てきます。
といったように、同じ人間でも変化するわけですが、それに気づくことが少ないようです。
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与謝野晶子は戦時の国策に利用されたかも。本音と建前の交錯する昔の日本の戦時中に晶子が自由な創作活動をするのは困難でした。晶子の本音と大日本帝国の意図が相反していたなら、晶子は国策に従った内容の著作を出す以外の選択肢は無かったかも…
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