ボードレール 「高翔」 Baudelaire « Élévation » ロマン主義詩人としてボードレール 

「高翔(Élévation)」には、ボードレールの出発点であるロマン主義精神が屈折なく素直に表現されている。

ロマン主義の基本的な図式は、二元的な世界観に基礎を置いている。
ロマン主義的魂にとって、現実は時間の経過とともに全てが失われる空しい世界であり、その魂は、彼方にある理想の世界(イデア界)に上昇する激しい熱望にとらわれる。
その超現実的な次元に対する憧れが、美として表現される。

Élévation

Au-dessus des étangs, au-dessus des vallées,
Des montagnes, des bois, des nuages, des mers,
Par delà le soleil, par delà les éthers,
Par delà les confins des sphères étoilées,

Mon esprit, tu te meus avec agilité,
Et, comme un bon nageur qui se pâme dans l’onde,
Tu sillonnes gaiement l’immensité profonde
Avec une indicible et mâle volupté.

小さな湖のはるか上に、谷間のはるか上に、
山々の、森の、雲の、海のはるか上に、
太陽の彼方に、空間を満たす液体の彼方に、
星々の煌めく天球の境界の彼方に、

我が精神よ、お前は動いていく、軽々と,
そして、波の間で恍惚となる素晴らしい泳ぎ手のように。
お前は陽気に行き交う、奥深い広大な空間を、
言葉にできない男性的な官能を感じながら。

第1詩節のすべてが、「我が精神(mon esprit)」の向かう方向を示している。

その向かう先は、地上にある山や森などの「はるか上(au-dessus)」だけではなく、空中に浮かぶ太陽や星々、そして大気を満たすと考えられていた液体(les éthers)の「彼方(par delà)」でもある。

そして、au-dessusやpar delàが何度も反復され、さらには、2行目の詩句で山を始めとする名詞が次々と繰り出される — Des montagnes, des bois, des nuages, des mers — ことで、詩人の精神(mon esprit)だけではなく、私たち読者の精神も、地上や大気を満たす全ての物を超えて、軽々と(avec agilité)飛翔していくように感じられる。
つまり、言葉の意味だけではなく、詩句のリズムが精神に働きかけるために、読者の魂は、詩句を辿りながら、我を忘れてうっとりとなる(se pâme)。

その際の感覚が、「波間(l’onde)」の「よき泳ぎ手(un bon nageur)」の感じる恍惚感にたとえられるのだが、それはボードレールが愛読したロマン主義時代の作家ホフマンやバルザックを意識してのことに違いない。
ホフマンは「クライスレリアーナ」の中で、バルザックは『あら皮』の中で、忘我的恍惚を次のように語る。

Des ailes invisibles agitent l’air qui m’environnent, je nage dans une atmosphère parfumée. (Hoffmann, Kreisleriana)

目に見えない翼が周囲の空気を動かし、私はかぐわしく香る大気の中を泳いでいく。(ホフマン「クライスレリアーナ」)

Le plaisir de nager dans un lac d’eau pure, au milieu des rochers, des bois et des fleurs, seul et caressé par une brise tiède, donnerait aux ignorants une bien faible idée du bonheur que j’éprouvais quand mon âme se baignait dans les lueurs de je ne sais quelle lumière, quand j’écoutais les voix terribles et confuses de l’inspiration, quand d’une source inconnue les images ruisselaient de mon cerveau palpitant. » (Balzac, La Peau de chagrin)

澄み切った湖の中、岩や木や花々に囲まれ、ただ一人、穏やかなそよ風に愛撫されながら、泳ぐ喜びは、そうしたことを何も知らない人々にさえ、私の感じた幸福感をわずかではあるが伝えるだろう。あの時、私の魂は、何かわからない光の輝きに浸り、神から下されたインスピレーションの混乱し恐ろしい声を聴いていた。見知らぬ泉からもたらされる数々のイメージが、ピクピクする私の脳髄から流れ出していた。(バルザック『あら皮』)

ボードレールが「高翔」を書いた1857年当時の読者であれば、ホフマンやバルザックに関する知識は十分にあり、「よい泳ぎ手」という表現からすぐにボードレールの意図を読み取ったことだろう。

そうした後で、恍惚とした状態に関して、よりボードレール的な言葉が付け加えられる。
その言葉とは、「官能(volupté)」。

1860年、ボードレールが初めてワーグナーの「ローエングリン」を聴き、我を忘れて恍惚となった時の体験で、それがはっきりと言葉にされることになる。

Je me sentis délivré de la pesanteur, et je retrouvai par le souvenir l’extraordinaire volupté qui circulait dens les lieux hauts. (…) Alors, je conçus pleinement l’idée d’une âme se mouvant dans un milieu lumineux, d’une extase fait de volupté et de connaissance, et planant au-dessus et bien loin du monde naturel. (Baudelaire, Richard Wagner et Tanhäuser à Paris)

私は重力から解放されるように感じた。そして、思い出によって、”高所”を循環する異常な”官能”を再び見出した。(中略) その時私が十分に理解したことは、光輝く空間を動く魂であり、”官能”と”知識”によって産み出され、自然界を遠く離れ、はるか上を浮游する恍惚感だった。
(ボードレール「パリにおけるリヒャルト・ワグナーと「タンホイザー」)

詩句の中では、「男性的な(mâle)」官能とされているが、それは19世紀にあっては、女性的な受動性に対する、能動性を意味している。
つまり、「男性的な官能」とは、受動的に感じられるものではなく、積極的に働きかけてくる力だということになる。


Envole-toi bien loin de ces miasmes morbides ;
Va te purifier dans l’air supérieur,
Et bois, comme une pure et divine liqueur,
Le feu clair qui remplit les espaces limpides.

飛翔しろ、病的な悪臭のはるか彼方に。
身を清めろ、高みを流れる空気の中で。
飲め、清く神聖な液体のように、
清らかな炎を。その炎が透明な空間を満たすのだ。

第3詩節でも、詩人は自らの魂に対して、「飛翔しろ(Envole-toi)」、「身を清めよ(va te purifier)」、「飲め(bois)」と命令を続ける。

地上は「病的な悪臭(ces miasmes morbides)」に満ちている。
それに対して、天空は純粋な空気が流れ、身を清める空間。
純粋な(pure)、神聖な(divine)、清らかな(clair)、澄み切った(limpides)といった形容詞が、地上との対比を強調する。


次々と繰り出された命令の後には、「幸福なのは次のような人間だ(heureux celui (…))」という表現で、地上から彼方へと飛翔した人間の姿が浮かび上がる。

Derrière les ennuis et les vastes chagrins
Qui chargent de leur poids l’existence brumeuse,
Heureux celui qui peut d’une aile vigoureuse
S’élancer vers les champs lumineux et sereins ;

Celui dont les pensers, comme des alouettes,
Vers les cieux le matin prennent un libre essor,
– Qui plane sur la vie, et comprend sans effort
Le langage des fleurs et des choses muettes.

数々の倦怠、巨大な悲しみが
霧に覆われた存在を重々しくする、それらの後ろで、
幸福なのは、力強い羽根の羽ばたきで、
静謐で光輝く野原に向かい、飛翔する者。

思考が、ひばりのように、
天空に向かい、朝、自由に飛び立つ者。
— 生の上を浮游し、努力することなく、理解する者、
花々と口をきかない事物たちの言葉を。

第4詩節の最初の2行では、地上が「倦怠(les ennuis)」と「悲しみ(chagrins)」の地であり、そこで「生きること(l’existence)」は、霧がかかったように視界不良で、重圧のかかるものだということが、再度確認される。

「高翔」の詩句は、詩人の魂を、そして読者の魂を、その地上からはるか彼方に連れ去り、「幸福(heureux)」へと導いてくれる。
読者も、「その者(celui)」になる。

その者は、高みへと勢いよく「飛び立ち(s’élancer)」、彼の「思考(les pensers)」の動きは、上空に舞い上がる「ひばり(des alouettes)」のよう。

そうすることで、「生(la vie)」の上を浮游し、そして、現実の次元ではコミュニケーションが不可能だった事物、つまり、「花々や口きかぬ事物たちの言葉(le langage des fleurs et des choses muettes)」を理解し、交流(コレスポンダンス)が可能になる。

『悪の華(Les Fleurs du mal)』の中で、「高翔」は3番目に配置され、それに続くのは「コレスポンダンス(Correspondances)」(参照;ボードレール「コレスポンダンス」(万物照応))。
その関係からも、天空への飛翔を歌う「高翔」が、万物照応の世界への扉であることが理解できる。


冒頭の« Au-dessus »、« par-delà »の反復から始まり、« Heureux celui qui » « celui dont (…) – qui »と反復される中で、読者は詩句のリズムの波に読み込まれ、いつしか「ぼうっとして我を忘れ(se pâme)」てしまう。
それはちょうど、ボードレールがワグナーの音楽に身を浸した時の体感と対応する美的体験だといえる。

最初に記したように、こうした’素直な’詩句は、ボードレールには珍しい。だからこそ、一般の読者にとっても、彼のロマン主義的な側面を感じ取る絶好の機会になる。
youtubeにアップされている映像とデゥニ・ラヴァンの朗読は、そうした「高翔」の世界に、私たちを導き入れてくれる。

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