学ぶこと 考えること 井筒俊彦「語学開眼」

井筒俊彦の「語学開眼」という子供時代の思い出を語るエセーは、実際の教育現場では「学ぶ」ことから「考える」ことにつなげるのいかに難しいことかを、分かりやすい言葉で教えてくれる。

それは、井筒が中学校二年生の時のエピソード。

今でもよく憶(おも)い出す。中学2年生、私は劣等生だった。世の中に勉強ほど嫌いなものはない。学問だとか学者だとか、考えただけでもぞっとする。特に英語が嫌いだった。(井筒俊彦「語学開眼」『読むと書く』所収)

教室の中では英文法の授業の最中で、大学出たての若い先生が熱心に何やら喋(しゃべ)ていたけれど、その言葉は私の耳には入ってはいなかった。ふと、我にかえった。「イヅツ」「イヅツッ!」と先生の声が呼んでいた。「どこを見ている。さ、訳してごらん。」
見上げると黒板に、 There is an apple on the table.と書いてある。なぁんだ、これくらいなら僕にだって。
「テーブルの上にリンゴがあります。」
「うん、それじゃ、これは」と言って先生は、There are apples on the table.と書いた。
「テーブルの上にリンゴがあります。」

正解? 不正解?

an appleに続けてapplesと書いた先生の意図は、生徒に単数と複数の区別を教えることにある。
井筒少年の訳では、その区別ができていない。試験であればバツがつく。

「ヘぇー」と、先生はさも軽蔑したような口調で言った。「君にとっては、単数も複数も区別がつかないのかね。リンゴを1個貰(もら)っても10個貰っても、君には同じことなんだね。」
みんながドッと笑った。
が、先生は笑わなかった。厳粛な、そしてどこか悲しような真顔で、先生は言った。「いいかね。もう二度と説明しないよ。名詞が単数の時は一つのリンゴ、複数になるといくつかのリンゴ。君みたいに、この区別を曖昧(あいまい)に訳しては駄目なんだ。」

これはどこにでもある教室の風景だろう。
英語の場合、単数であれば名詞の前にaをつけ、複数であれば、名詞の後ろにsをつける。その区別をしっかり理解しなければ、英語の基礎の習得ができない。

そして、日本の英語教育では、生徒の理解を確認するために、しばしば「訳す」ことが行われる。
an appleは一つのリンゴ、applesはいくつかのリンゴ、という風に。
その区別を「覚える」ことが、英語を理解する第一歩となる。

先生は生徒に単数と複数の区別を教えることが仕事であり、義務でもある。それをないがしろにすべきではない。
学ぶことの第一歩は「覚える」ことなのだ。その点は疑いがない。


他方で、「覚える」ことから「考えること」に繋がることは少ない。
教室の中では、時間の制約もあり、間違いから物事の本質への問いに繋げることは難しいし、「覚える」ことで精一杯という状況にならざるえない。一つのことにそれほどこだわることは、ほぼできない。
井筒俊彦も、「その瞬間は、さして重要な問題とも思わなかった。」とエセーの中で書いている。

そうした中で、単数複数のエピソードが、「語学開眼」のきっかけになったとしたら、それは少年の心に、「だが、なんとなく心にひっかかるものがあった」からだ。

青山の学校から四谷の家に帰る途中、チンチン電車の中で不意にこの問題が私の心に戻って来た。
単数と複数。
両方とも私は’ごく自然に’、「テーブルの上にリンゴがあります」と訳した。
確かに、普通の日本語ならそれでいいのだ。「一つのリンゴが」「幾つかのリンゴが」などと我々は、普通言わない。特別の必要がないかぎり、単数も複数も区別しない。強いて区別して喋(しゃべ)ろうとすると、かえってぎことなくなってしまう。
だが英語では、物があれば、必ずそれが一つなのか、一つ以上なのかを先ず意識しなくては喋れない。文法上そうなのだ。たとえリンゴの数など問題でないような場合でも。
物を見る、そのたびに必ず単語を区別しなければ口が開けない。そんな妙な言葉を幼い時から話してきた連中の心の働きは、よほど変わっているに相違ない。
我々日本人とは、微妙に、しかし根本的に変わった仕方で彼らは世界を経験し、違う形でものを考えているに違いない。

この回想の言葉は、学者となった井筒が大人の言葉で書き留めたものであり、中学生がこのような言葉で、教室での出来事を思い返したわけではない。

このような反省を、私の幼稚な頭がどんな内的言語で書きとめたのか、具体的には覚えていない。言葉って、なんと面白いものなんだろう。そんな漠然とした感慨であっただけだったのかもしれない。だが、強烈な実感だった。

普通であれば、教室で間違った答えをしたと先生に指摘され、みんなに笑われたら、恥ずかしい気持ちだけが残り、次に同じ問いをされたら、「一つのリンゴ」「幾つかのリンゴ」と間違えずに答えようと思うだろう。
それは、「覚える」であって、「考える」ではない。

ところが、井筒少年は、日本語では、いちいちリンゴの数を意識せず、単に「リンゴ」と言う方が普通であり、「一つの」「幾つかの」と言う方が不自然だと考える。
リンゴの数がどうであっても、日本語としては、「テーブルの上にリンゴがある」で何も問題ない。

他方、リンゴの数を特に問題にしているわけでもないのに、an apple, applesと区別する英語表現は、「妙な言葉」だと思う。
そして、そんな区別をしなければ口をきけない人々の心の働きは、「よほど変わっているに相違ない」なども考える。

その違いを前にして、「言葉って、なんと面白いものなんだろう。」と感激した中学生の体験は、「考える」ことがどれほど楽しいことなのかを、私たちに伝えてくれる。


英語の授業で正しい答えを覚えよい点数を取ることが、学校教育の「最終的な目的」ではないことは、誰もが思うことだろう。

もちろん、教育の現場で、「覚える」ことをないがしろにし、暗記が悪であり、正解を見つける必要はないなどということは決してない。
知識のベースがなければ、「考える」ことはできない。

また、an appleとapplesの区別から、英語と日本語の本質的な違いについて考える授業などしていたら、どれだけ時間をかけても、英語文法を教えることができなくなってしまう。
従って、バランスは必要であることは疑いがない。

その前提の上で、英語の授業でも、それ以外の教科でも、時には、間違った答えから、物事の本質について問いかけるような発想が生まれてくる可能性を念頭の置いておきたい。
期待しない回答が、「考える」きっかけになることは、誰もが経験することだろう。

「間違い」や「疑問」を出発点とし「考える」。そして、「・・・って、なんと面白いものなんだろう。」と感じられる感受性。
それこそが、「考える」ことのベースだといっていいだろう。

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