
愛する人から愛されていないと感じる時、人はどれほど悲しみ、悩み、苦しむことだろう。時には最悪の行動を取ることさえある。
そうした葛藤を、太宰治は、1940(昭和15)年に発表した「駆け込み訴え」の中で、イエスを裏切ったユダの口を通して生々しく語った。
ユダは「役所」の「旦那さま」に向かい、イエスの最後の日々の出来事を辿りながら、自らの感情の動きを赤裸々に語っていく。
そこで述べられる言葉はユダの主観の反映であり、全てが彼の心の内を明かすことになる。
読者はそれらの言葉を自分なりに解釈し、ユダの心理を読み解いていく。そんな楽しみが読書にはある。例えば、最初の一節。
申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷(ひど)い。酷い。はい。厭(いや)な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。(「駆け込み訴え」)
このユダの言葉は、本当に「あの人」に対する憎しみから発せらたものなのか? 「可愛さ余って憎さ百倍」的なものなのか? 訴え出たユダにはイエスへの愛が残っているのか? イエスを「売った」自分をどのように感じているのか? 等々。
ここでは、キリスト教に焦点を当てるのではなく、愛と憎しみの葛藤という心理劇を、ユダの訴えの生々しい言葉から読み解いてみよう。
「駆け込み訴え」本文(青空文庫)
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(1)ユダは自分の本心が分かっているのか?
ユダの心は揺れに揺れている。イエスを傲慢で嫌な奴と罵ってみたり、自惚れ屋とか嘘つきだと言ってみたり、役所の旦那さまに向かい「あの人を殺してください。」などと言い放つ。
そんな時には、本当に憎しみに満ちているように見える。
しかし、全く反対の時もある。イエスを子供のように欲がなく、光るばかりに美しい人だと固く信じ、「あの人が死ねば私も一緒に死ぬ」と言い切るほど深く愛しているようにも見える。自分の愛は純粋な愛であり、他の人に理解されなくてもいい、などと思ったりもする。
どちらがユダの本当の気持ちなのだろうか?
最終的にユダはイエスを告発し、居場所を役人に教え、イエスを「売る」。その行為は憎しみから行われたように見える。「私は、あの人を愛していない。はじめから、みじんも愛していなかった。」という言葉は、イエスを「売る」という行為を証明しているように見える。
しかし、本当に初めから愛していなかったのだろうか? 訴えているその瞬間、イエスを愛していなかったと、本当に言えるのだろうか? そして、ユダ自身、自分の本当の気持ちがわかっているのだろうか?
これらの問いは実は一つの罠を含んでいる。
「本当の気持ち」という時、「どちらか一つ」を前提にしている。ユダは本当はイエスを愛しているのか、それとも愛していなかったのか、愛していたけれど憎むようになったのか、一つだけの回答を求めている。
しかし、私たちの感情は複雑だ。その時その時で変化するし、ある時には真実だったものが、別の時には真実ではなくなっているかもしれない。
そうした心の揺れは、愛の対象との関係の中で生まれる。
ユダがイエスに望むのは、「自分に優しい言葉をかけてほしい」ということ。要するに、愛して欲しいということだ。
その欲望が少しでも満たされると感じられる時には「愛している」に傾くし、イエスの関心が他の人間に向いていると思う時には、「酷い、嫌な奴」に傾く。
そのどちらの時も、ユダはそれが自分の「本心」だと思っていることだろう。
(2)感情の逆転 — 愛するがゆえに死を願う心
愛が深ければ深いほど、急激に憎しみへと変わることがある。
ユダが最初に「愛」を口にするのは、”春の海辺”でイエスから、「おまえにも、お世話になるね。」と声を掛けられた思い出を語る場面。そこで起こる感情の急激な転換について見ていこう。
イエスが言葉をかけた意図は、「寂しさ」を人に分かるように表に出してはいけないとユダに忠告すること。しかし、ユダの方では、イエスが珍しく打ち解けて話をしてくれたと思い、胸を熱する。
そして、その場面を思い起こすと、思わず次のような言葉が口を突いて出てくる。
私はそれ(注:イエスの言葉)を聞いてなぜだか声出して泣きたくなり、いいえ、私は天の父にわかって戴かなくても、また世間の者に知られなくても、ただ、あなたお一人さえ、おわかりになっていて下さったら、それでもう、よいのです。私はあなたを愛しています。ほかの弟子たちが、どんなに深くあなたを愛していたって、それとは較べものにならないほどに愛しています。誰よりも愛しています。ペテロやヤコブたちは、ただ、あなたについて歩いて、何かいいこともあるかと、そればかりを考えているのです。けれども、私だけは知っています。あなたについて歩いたって、なんの得するところも無いということを知っています。それでいながら、私はあなたから離れることが出来ません。どうしたのでしょう。あなたが此の世にいなくなったら、私もすぐに死にます。生きていることが出来ません。
ここでイエスがユダに話した内容は、ユダが寂しそうな態度を見せることに対するお説教であり、決してユダに対する特別な愛情を示したものではない。
しかし、ユダは言葉の内容ではなく、言葉をかけてくれたということが、「自分に優しい言葉をかけてほしい」という願いの実現だと感じる。
そして、その希望が叶えられたと感じると、自分が誤解していることには気づかず、それまでじっと秘めてきた愛が溢れ出す。
その愛は、他の弟子たちがイエスに向ける愛とは比較にならない。なぜなら、イエスについて歩いても何も得することがないと知りながらの愛、つまり「無償の愛」だから。
そして、そのことを「私だけは知っています」と思う。”私は特別な存在”という思いがここにはある。
その結果、イエスから離れることができず、もし離れることになれば、「私もすぐに死にます。生きていることが出来ません」というほど、愛は激しいものとなる。
ところが、この感情はたった一つのことが頭に浮かぶだけで、あっという間に逆転する。その心の微妙な動きを、太宰治は実に見事に表現する。
私は、ただ、あの人から離れたくないのだ。ただ、あの人の傍にいて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺めて居ればそれでよいのだ。そうして、出来ればあの人に説教などを止してもらい、私とたった二人きりで一生永く生きていてもらいたいのだ。あああ、そうなったら! 私はどんなに仕合せだろう。私は今の、此の、現世の喜びだけを信じる。次の世の審判など、私は少しも怖れていない。あの人は、私の此の無報酬の、純粋の愛情を、どうして受け取って下さらぬのか。ああ、あの人を殺して下さい。旦那さま。私はあの人の居所を知って居ります。御案内申し上げます。あの人は私を賤(いや)しめ憎悪して居ります。私は、きらわれて居ります。
「あの人とたった二人で生きていけたらどんなに幸せなことか」という思いから、「あの人を殺して下さい」へと感情が一気に変化する。
その変化を引き起こすのは何か?
それは、「私の此の無報酬の、純粋の愛情」が受け入れられないという思い。「どうして受け取って下さらぬのか。」
愛が受け入れられない時、愛は突然憎しみに変わる。なぜなら、愛されないという思いは、容易に、相手から「いやしめられ」、だから「嫌われている」という感情へと転落してしまうことがあるからだ。
(3)嫉妬 — 三角関係の罠
嫉妬は愛の証なのか? 愛とは関係のないエゴイストな感情なのか? 恋愛を考える時、その議論は昔からずっと続いてきたが、結論は出ないだろう。
しかし、愛と嫉妬が隣り合っていることは、誰もが認めるに違いない。
“シモンの家”でマリアがイエスに香油を浴びせる場面では、嫉妬心(ジェラシー)がユダを極限まで混乱させる。
ユダはマリアの失礼な振る舞いを口をきわめて批難する。それに対して、イエスはマリアをかばう。
その時ユダは、自分の愛する人が彼以外の人を愛しているのではないか?という疑いに捉えられる。
マリアは自分よりも劣った存在のはずなのに、マリアの方が自分よりも愛される。「口惜(くや)しい」。そんな感情が湧き上がっても自然なことだ。
その”口惜しさ”から沸き起こる嫉妬があまりに強くなると、何がなんだかわからないほどに頭が混乱する。自分はイエスに劣らない人間であり、マリアは自分を愛してもいいはず。なのにイエスが彼女を奪った。ユダはそんな妄想さえし、役所の旦那さまに訴えかける。
ああ、もう、わからなくなりました。私は何を言っているのだ。そうだ、私は口惜しいのです。なんのわけだか、わからない。地団駄踏むほど無念なのです。あの人が若いなら、私だって若い。私は才能ある、家も畠もある立派な青年です。それでも私は、あの人のために私の特権全部を捨てて来たのです。だまされた。あの人は、嘘つきだ。旦那さま。あの人は、私の女をとったのだ。いや、ちがった! あの女が、私からあの人を奪ったのだ。ああ、それもちがう。私の言うことは、みんな出鱈目だ。一言も信じないで下さい。わからなくなりました。ごめん下さいまし。ついつい根も葉も無いことを申しました。そんな浅墓な事実なぞ、みじんも無いのです。醜いことを口走りました。だけれども、私は、口惜しいのです。胸を掻きむしりたいほど、口惜しかったのです。なんのわけだか、わかりませぬ。ああ、ジェラシィというのは、なんてやりきれない悪徳だ。私がこんなに、命を捨てるほどの思いであの人を慕い、きょうまでつき随(した)がって来たのに、私には一つの優しい言葉も下さらず、かえってあんな賤しい百姓女の身の上を、御頬を染めて迄かばっておやりなさった。
頭が混乱する中で、いつもユダが感じ続けていることが、愛を憎しみに逆転させる。それは、「私には一つの優しい言葉も下さらない」という感情。
“春の海辺”では、その感情はユダとイエスの一対一の関係の中で感じられたものだったが、”シモンの家”ではマリアという第3者が入り、「三角関係」になる。その関係の中で、嫉妬がむくむくと頭をもたげる。
嫉妬はユダにとっての悪魔となり、彼は悪魔に誘惑され、イエスの死までも望むようになる。
ああ、やっぱり、あの人はだらしない。ヤキがまわった。もう、あの人には見込みがない。凡夫だ。ただの人だ。死んだって惜しくはない。そう思ったら私は、ふいと恐ろしいことを考えるようになりました。悪魔に魅(み)こまれたのかも知れませぬ。そのとき以来、あの人を、いっそ私の手で殺してあげようと思いました。いずれは殺されるお方にちがいない。またあの人だって、無理に自分を殺させるように仕向けているみたいな様子が、ちらちら見える。私の手で殺してあげる。他人の手で殺させたくはない。あの人を殺して私も死ぬ。
「他人の手で殺させたくはない」という気持ちは、憎しみなのか、愛なのか?
「あの人を殺して私も死ぬ」という決意は、愛なのか、エゴイストな自己愛なのか?
理性的に考えれば、単なる自己愛ということでしかないが、しかし、子供を連れて心中する親の気持ちの中に「愛」が含まれていないかどうか問いかけると、答えは意外に難しい。
(4)分かっている「私」を分かってくれない「あなた」
“最後の晩餐”において、イエスは弟子たちの足を洗う。
ユダは最初、イエスがなぜそんなことするのか自分だけがわかっているのだと思い、イエスに対する愛を再確認する。そして、イエスを裏切ろうとしていた自分はもう今の自分ではない、自分は変わったのだと意識する。
それなのに、イエスはその変化を分からないと、ユダは恨めしく思う。
こうした思いは全てユダの主観であり、現実には、イエスがユダの裏切りを知っていたのかどうかわからない。もし知っていたとしても、足を洗う場面でその思いが変わったことに気づくとは限らない。
しかし、誰かを愛する時、人はしばしばユダのように、自分の思いを相手に伝えていないにもかかわらず、相手に伝わらないことに絶望することがある。
太宰治はそうした人間の心理を実によく心得た作家だといえる。
ユダがイエスの行為を解釈する仕方は、”春の海辺”でイエスがユダに諭した言葉と対応している。
海辺でイエスは、”寂しさ”を表に出してはいけないと言った。それを受けて、”最後の晩餐”のユダは、弟子たちの足を洗う行為にイエスの感情は出ていないのだが、彼だけは理解したと思い込む。
あの人は卓の上の水甕(みずがめ)を手にとり、その水甕の水を、部屋の隅に在った小さい盥(たらい)に注ぎ入れ、それから純白の手巾をご自身の腰にまとい、盥の水で弟子たちの足を順々に洗って下さったのであります。弟子たちには、その理由がわからず、度を失って、うろうろするばかりでありましたけれど、私には何やら、あの人の秘めた思いがわかるような気持でありました。あの人は、寂しいのだ。極度に気が弱って、いまは、無智な頑迷の弟子たちにさえ縋(すが)りつきたい気持になっているのにちがいない。可哀想に。あの人は自分の逃れ難い運命を知っていたのだ。その有様を見ているうちに、私は、突然、強力な嗚咽(おえつ)が喉(のど)につき上げて来るのを覚えた。矢庭にあの人を抱きしめ、共に泣きたく思いました。おう可哀想に、あなたを罪してなるものか。あなたは、いつでも優しかった。あなたは、いつでも正しかった。あなたは、いつでも貧しい者の味方だった。そうしてあなたは、いつでも光るばかりに美しかった。あなたは、まさしく神の御子だ。私はそれを知っています。
おゆるし下さい。私はあなたを売ろうとして此の二、三日、機会をねらっていたのです。もう今はいやだ。あなたを売るなんて、なんという私は無法なことを考えていたのでしょう。
私だけがあなたを知っていると思った途端、愛が再び溢れ出してくる。
「あの人の秘めた思いがわかるような気持でありました。あの人は、寂しいのだ。」
この思いは、私にだけ伝えられた教えのおかげでイエスを理解したという満足感から来るに違いない。その教えがあるからこそ、私だけがイエスの”寂しさ”を見抜くことができるのだ、と。
その満足感は、イエスを「売る」という決意を一気に逆転させ、「あなたを罪してなるものか」という思いに変える。
そして、その時には、「あなたは、いつでも優しかった」と感じる。
これまでの訴えの内容を聞いていれば、「いつでも」というのは事実と異なることがすぐにわかる。優しかったと思えるのは、”春の海辺”での会話だけ。しかも、それはユダの主観、あるいは思い違いにすぎない。
ところが、ユダの主観は、彼の心の内の変化をイエスがわかっていないと思った途端、再び一気に逆方向へと走り出す。
その逆転は、ペテロという第三者に言及され、ペテロの足を洗う場面から始まる。
足を洗うことで人間全体を清めるというイエスの言葉を聞いたペテロは、それならば全身を清めて下さいと言う。それに対して、イエスは、足は汚れる場所だから洗うのであり、体のそれ以外の部分は汚れていないと答える。
そして、「みんなが潔ければいいのだが」と付け加える。
はッと思った。やられた! 私のことを言っているのだ。私があの人を売ろうとたくらんでいた寸刻以前までの暗い気持を見抜いていたのだ。けれども、その時は、ちがっていたのだ。断然、私は、ちがっていたのだ! 私は潔くなっていたのだ。私の心は変っていたのだ。ああ、あの人はそれを知らない。それを知らない。ちがう! ちがいます、と喉まで出かかった絶叫を、私の弱い卑屈な心が、唾(つば)を呑みこむように、呑みくだしてしまった。言えない。何も言えない。あの人からそう言われてみれば、私はやはり潔くなっていないのかも知れないと気弱く肯定する僻(ひが)んだ気持が頭をもたげ、とみるみるその卑屈の反省が、醜く、黒くふくれあがり、私の五臓六腑(ろっぷ)を駈けめぐって、逆にむらむら憤怒(ふんぬ)の念が炎を挙げて噴出したのだ。ええっ、だめだ。私は、だめだ。あの人に心の底から、きらわれている。売ろう。売ろう。あの人を、殺そう。そうして私も共に死ぬのだ、と前からの決意に再び眼覚め、私はいまは完全に、復讐(ふくしゅう)の鬼になりました。
ユダの思いは実に複雑だし、矛盾している。
イエスを裏切ろうとしていた気持ちは、見抜かれていた。しかし、その気持ちが変化したことは、見抜いてもらえない。そのギャップがユダを「復讐の鬼」にする。
だがユダがそのように思い込んでいるだけで、イエスがユダの内心の気持ちを読み取ったかどうかも、どのように感じていたのかも、まったくわからない。ユダは自分の思いだけに振り回され、それだけが事実だと思い込む。
最後に、イエスの行動と言葉がトドメを指す。12人の弟子に向かい、「おまえたちのうちの、一人が、私を売る」」と言い、それが誰かをはっきりと示す。
「私がいま、その人に一つまみのパンを与えます。その人は、ずいぶん不仕合せな男なのです。ほんとうに、その人は、生れて来なかったほうが、よかった」と意外にはっきりした語調で言って、一つまみのパンをとり腕をのばし、あやまたず私の口にひたと押し当てました。私も、もうすでに度胸がついていたのだ。恥じるよりは憎んだ。あの人の今更ながらの意地悪さを憎んだ。このように弟子たち皆の前で公然と私を辱かしめるのが、あの人の之(これ)までの仕来りなのだ。火と水と。永遠に解け合う事の無い宿命が、私とあいつとの間に在るのだ。犬か猫に与えるように、一つまみのパン屑を私の口に押し入れて、それがあいつのせめてもの腹いせだったのか。ははん。ばかな奴だ。
純粋な愛で愛していると思っている相手から、みんなの前で恥をかかされる。しかも、みんなにとって大切な師を裏切る人間だと明かされる。
「その人は、生れて来なかったほうが、よかった。」
こんな言葉を愛する人から投げつけられたら、人はどうなってしまうだろう。
ユダは激高し、自分とイエスとは「火と水」のように相容れない存在であり、二人の間に愛が成立することなどは絶対にないと、自分を納得させようとする。
「あいつ」は、「私」のことを理解できない「ばかな奴」なのだ。
この出来事が決定打となり、ユダは役所へと駆け込むことになる。
(5)「商人」の仕事 — 「売る」こと
『聖書』にユダが商人であるという記載はない。それに対して、太宰は繰り返しユダが商人であることを強調し、「駆け込み訴え」の最後は次の言葉で終わる。
私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。
ユダはイエスを「売る」。その時、イエスは「商品」と見なされ、銀三十という値段が付けられる。
そのように考えると、ユダの行為は商取引であり、彼は商人としての仕事を果たしたことになる。
その時、ユダはイエスが商人を嫌っていることをよく知っていた。そのことは、”最後の晩餐”に先立つ”エルサレムの宮”の場面ではっきりと描かれていた。
エルサレムの宮に入る時、イエスたち一行は熱烈な歓迎を受ける。そうした中でイエスは、宮の中に店を構える商人たちに対して、「おまえたち、みな出て失せろ、私の父の家を、商いの家にしてはならぬ」と叫び、彼らを宮から追い出そうとする。
その乱暴は行動はイエスが「商い」を拒否することを示している。
そんなイエスを見て、ユダはこう考える。
それにしても、縄の鞭を振りあげて、無力な商人を追い廻したりなんかして、なんて、まあ、けちな強がりなんでしょう。あなたに出来る精一ぱいの反抗は、たったそれだけなのですか、鳩売りの腰掛けを蹴散(けち)すだけのことなのですか、と私は憫笑(びんしょう)しておたずねしてみたいとさえ思いました。もはやこの人は駄目なのです。破れかぶれなのです。自重自愛を忘れてしまった。自分の力では、この上もう何も出来ぬということを此の頃そろそろ知り始めた様子ゆえ、あまりボロの出ぬうちに、わざと祭司長に捕えられ、この世からおさらばしたくなって来たのでありましょう。私は、それを思った時、はっきりあの人を諦(あきら)めることが出来ました。そうして、あんな気取り屋の坊ちゃんを、これまで一途(いちず)に愛して来た私自身の愚かさをも、容易に笑うことが出来ました。
イエスの怒りは、「外は正しく見ゆれども、内は偽善と不法とにて満つる」者たちに向いているのだが、ユダの目にはそれが「商人」に向けられた怒りだと見える。
それはユダ自身に向けられたもの、イエスを「商品」として「売る」行為に予め向けられていると感じられただろう。
そして、ユダは自分の商取引を正当化するためにも、イエスが「あまりボロの出ぬうちに、わざと祭司長に捕えられ、この世からおさらばしたくなって来たのでありましょう」といった推測をする。
つまり、イエスは商売を嫌っているように見せながら、あるいはそう思い込みながら、実は、自分でも「商人」になることを望んでいるのだと、自己正当化できる解釈をする。
「あの人を諦めることができた」とか、「あの人を愛してきた私自身の愚かさを笑う」といった感情も、商行為の後ろめたさをなくすことにつながる。
では、ユダが”駆け込み訴え”をし、キリストを「売る」にあたり、後ろめたさは消え去り、愛は完全に消え去ったといえるだろうか?
それであれば、銀三十を受け取った際の言葉は、ユダの本心だといえる。
私は、金が欲しさにあの人について歩いていたのです。おお、それにちがい無い。あの人が、ちっとも私に儲けさせてくれないと今夜見極めがついたから、そこは商人、素速く寝返りを打ったのだ。
あれほど自分は損得勘定なしでイエスに従ってきたのであり、「純粋の愛」だと言ってきたはずのユダが、ここでは、儲けさせてくれないから裏切る、それが商人なのだと自分に言い聞かせる。
その思いにユダが心の底から納得していれば、イエスがいるゲッセマネの園に向かう道すがら、小鳥の鳴き声が気にかかることはなかっただろう。
ああ、小鳥が啼(な)いて、うるさい。今夜はどうしてこんなに夜鳥の声が耳につくのでしょう。私がここへ駈け込む途中の森でも、小鳥がピイチク啼いて居りました。夜に囀(さえず)る小鳥は、めずらしい。私は子供のような好奇心でもって、その小鳥の正体を一目(ひとめ)見たいと思いました。立ちどまって首をかしげ、樹々の梢(ずえ)をすかして見ました。(中略)ああ、小鳥の声が、うるさい。耳についてうるさい。どうして、こんなに小鳥が騒ぎまわっているのだろう。ピイチクピイチク、何を騒いでいるのでしょう。
「ピイチクピイチク」、これはユダの心の中で微かに聞こえる自意識の声のように聞こえる。
「私は、あの人を愛していない。はじめから、みじんも愛していなかった。」ピイチクピイチク。
「金。世の中は金だけだ。銀三十、なんと素晴らしい。いただきましょう。私は、けちな商人です。欲しくてならぬ。」ピイチクピイチク。
「駆け込み訴え」全体を通して、イエスがどんな罪人であり、なぜ十字架に値するのか、ユダの言葉からは全くわからない。そこで表出されたのは、彼の感情の大きな揺れだけとさえいっていい。つまり、イエスを愛するのか、憎むのか。
最後にイエスを「売る」時には、ユダの感情は明確に定まったように見える。
しかし、ピイチクピイチクという鳴き声は、どこかに別の感情が潜んでいることを暗示する。イエスを最初から愛していなかったわけではないし、世の中金が全てではない。そんな気持ちが、心の中の森のどこかに潜んでいる。
人間のそうした複雑に入り組んだ感情の動きを、「駆込み訴え」というドラマは見事に描き出している。
先月、私の書いた「駆け込み訴え」は、ドラマである。声を出して読むと、よくわかるのである。おひまの人は、いちど、声を出して読んでみてください。(『文学者』昭和15年4月所収「義務」)
ユダが自らを定義する次の言葉は、太宰治が自らに投げかけているかのようでもある。
私は、ひとの恥辱となるような感情を嗅(か)ぎわけるのが、生れつき巧みな男であります。自分でもそれを下品な嗅覚(きゅうかく)だと思い、いやでありますが、ちらと一目見ただけで、人の弱点を、あやまたず見届けてしまう鋭敏の才能を持って居ります。
恥辱や弱点に限らず、あらゆる感情を、「ちらと一目見ただけで」、「あやまたず見届けてしまう鋭敏の才能」を持つことが幸福なことなのか、不幸なことなのか、それはわからない。
とにかく、太宰治はそうした才能の持ち主であり、彼の小説を読むことで、私たち読者は、人間の心の複雑で矛盾した動きを辿ることになる。
そうそう、その通り!!
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