太宰治「十二月八日」 昭和16年  真珠湾攻撃当日の日記

黒と白の肖像写真で、髪型が少し乱れている中年男性の顔を捉えています。

21世紀の今の時点から第二次世界大戦のことを考える時、どうしても現在の視点からしか見たり、考えたりすることができない。戦争のない今では、戦争に反対することが当たり前であり、当時の日本人たちは本心では反戦だったけれど、声を上げることができなかったに違いないと思ってしまうのは、自然な反応ではないだろうか。

しかし、その時代に生きていた人間たちは、その時代に当たり前とされていたことの中で生きていたのであり、それは現在の「当たり前」とは違っている。

明治時代の後半から大正時代、そして昭和の初年にかけて、日本は日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争へと戦争や軍事的緊張が続く時代を経験していた。昭和13年(1938年)には国家総動員法が成立し、昭和15年(1940年)頃になると、やがてアメリカとの決戦をも視野に入れる方向へと進んでいた。
そして、昭和16年(1941年)12月8日未明、大日本帝国海軍が、オアフ島の真珠湾にあったアメリカ海軍太平洋艦隊の基地を奇襲攻撃した。日本はその後、アメリカとイギリスに対して宣戦を布告し、太平洋戦争に突入する。

太宰治の「十二月八日」は、作家の妻がまさにその日の出来事を綴った日記形式の短編作品で、昭和17年(1942年)2月1日発行の『婦人公論』に発表された。
そして、そこには、いかにも太宰治らしいユーモアを通して、当時の日本人が戦争をどのようにとらえ、受け入れていたのかが、淡々と綴られている。

若い女性のモノクロ肖像写真で、伝統的な服装を着ており、穏やかな表情をしている。

太宰治は、この作品の中で、100年後の読者を想定し、こんなふうに書いている。
ちなみに、語り口も女性のものになっているのだが、もしかすると、昭和13年(1938年)に太宰と結婚した美知子という女性の視点を借りて、太宰自身が語っているのかもしれない。

昭和十六年の十二月八日には日本のまずしい家庭の主婦は、どんな一日を送ったか、ちょっと書いて置きましょう。もう百年ほど経たって日本が紀元二千七百年の美しいお祝いをしている頃に、私の此(こ)の日記帳が、どこかの土蔵の隅から発見せられて、百年前の大事な日に、わが日本の主婦が、こんな生活をしていたという事がわかったら、すこしは歴史の参考になるかも知れない。

2026年の今、私たちは約80年後の読者にすぎないのだが、多少は太宰の望みに応えることにもなることを期待しながら、戦争の歴史の参考にさせてもらうことにしよう。

本文は「青空文庫」で読むことができる。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/253_20056.html

YouTubeに朗読もアップされている。

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太宰治 「駆け込み訴え」 愛する人から愛されない — 愛と憎しみの葛藤

愛する人から愛されていないと感じる時、人はどれほど悲しみ、悩み、苦しむことだろう。時には最悪の行動を取ることさえある。

そうした葛藤を、太宰治は、1940(昭和15)年に発表した「駆け込み訴え」の中で、イエスを裏切ったユダの口を通して生々しく語った。

ユダは「役所」の「旦那さま」に向かい、イエスの最後の日々の出来事を辿りながら、自らの感情の動きを赤裸々に語っていく。
そこで述べられる言葉はユダの主観の反映であり、全てが彼の心の内を明かすことになる。

読者はそれらの言葉を自分なりに解釈し、ユダの心理を読み解いていく。そんな楽しみが読書にはある。例えば、最初の一節。

申し上げます。申し上げます。旦那さま。あの人は、酷(ひど)い。酷い。はい。厭(いや)な奴です。悪い人です。ああ。我慢ならない。生かして置けねえ。(「駆け込み訴え」)

このユダの言葉は、本当に「あの人」に対する憎しみから発せらたものなのか? 「可愛さ余って憎さ百倍」的なものなのか? 訴え出たユダにはイエスへの愛が残っているのか? イエスを「売った」自分をどのように感じているのか? 等々。


ここでは、キリスト教に焦点を当てるのではなく、愛と憎しみの葛藤という心理劇を、ユダの訴えの生々しい言葉から読み解いてみよう。

「駆け込み訴え」本文(青空文庫)
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/277_33098.html

youtubeの朗読(文字が表示される)

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「女人訓戒」 太宰治による読書レッスン 

太宰治の「女人訓戒」はわずか数ページの作品だが、読んでいると思わず笑ってしまう。

人間は何かを思い込むと、とんでもない行動をすることがある。太宰はそうした例を次々に挙げ、きっかけとなることとその結果の取り合わせの滑稽さを浮かび上がらせる。

その最初の例として提示するのが、日本で最初にフランス文学教授になった学者の書いた本で、兎の目を移植された女性が猟師を恐れるようになったという面白いエピソードが引用される。
興味深いのは、教授の本の引用をした後、太宰は自分なりの推論を展開すること。そうしたやり方は、彼がどのように本を読むかを示す一つの例と考えられる。
別の見方をすると、太宰治が私たちに読書のレッスンをしてくれている、とみなすこともできる。

「女人訓戒」は「あおぞら文庫」に収録されているので全文を簡単に読むことが出来るし、youtubeに朗読(15分)もアップされている。短い作品だし、滑稽さが日々のストレスを一瞬だけでも忘れさせてくれるのも楽しい。
ただし、例がすべて女性に関係し、最後は女性に対する教訓といった体裁を取るので、女性差別といった目線で読んでしまう危険がある。そうなると作品の面白さが一気に消えてしまうので、注意しておきたい。

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太宰治 走れメロス 解釈は読者の鏡

太宰治の「走れメロス」は中学2年の国語の教科書に採用されているために、日本で中等教育を受けた人間であればほぼ誰もが知る作品であり、専門的な研究、国語教員たちの教材研究、ネット上に溢れる感想や解説等、驚くほど多くの言葉が語られている。

そうした言葉を大別すると、対立する二つの感想に整理することができる。
(1)友情と信頼を訴える感動的な物語=美談
(2)人物像や状況設定に突っ込みどころが多く、教訓くさいだけで真実味がなく、メロスも自己満足的で共感できない。

子供の頃に読んだ時にはとても感動した覚えがあるが、大人になって読み返してみると「アレッツ」と思ったという感想も、二つの相反する見解の反映である。

あおぞら文庫に収録されているし、youtubeで朗読(約40分)を聞くことも可能なので、作品全体をすぐに読み返すことができる。
あおぞら文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/1567_14913.html

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ラ・ロシュフコー 『箴言集』 全ては自己愛? La Rochefoucauld Meximes De l’amour-propre

ラ・ロシュフコーの『箴言集』のエピグラフには、こんな言葉が上げられている。

Nos vertus ne sont, le plus souvent, que des vices déguisés.

我々の美徳は、ほとんどの場合、偽装された悪徳にすぎない。

ラ・ロシュフコーの箴言は、こんな風に、物事を斜に構えて眺める皮肉な態度につらぬかれている。

この17世紀のモラリストに対して、太宰治は、「ラロシフコーなど讀まずとも、所謂、「人生裏面觀」は先刻すでに御承知である。眞理は、裏面にあると思つてゐる。」と書き、物事には裏表があることなどわかっていると毒づいたことがある。
https://bohemegalante.com/2019/06/27/datai-la-rochefoucauld/

太宰が言う「人生裏面觀」は現在でも通用するが、17世紀のフランスにおいては、とりわけ必要とされるものだった。

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言葉の裏を読む 太宰治とラ・ロシュフコー

太宰治が『風の便り』という小説の中で、次のように書いている。

あいつは厭な奴だと、たいへんに好きなくせに、わざとさう言い変へているような場合が多いので、やり切れません。思惟と言葉との間に、小さな歯車が、三つも四つもあるのです。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/283_15064.html

言葉と気持ちの間にズレ(歯車)があるために、言葉の表面的な意味だけでは相手の本当の気持ちを知ることができない。
自分でも言いたいことがうまく言えないことがあるし、相手が嘘をついていることもある。だから、言葉だけでは信じられない。
本心を知りたいけれど、言葉を通して読み取った気持ちが本心かどうかはわからない。

こんな現代人の気持ちを、太宰治はとても上手に汲み取っているので、『斜陽』が今でも一番売れている小説なのだろう。

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