芥川龍之介 「神神の微笑」 日本はいかに外国文化を受容してきたのか?

芥川龍之介は、1922(大正12)年に発表した「神神の微笑」の中で、キリスト教を布教するために日本にやってきたオルガンティノ神父の葛藤を通して、日本が古代から現代に至るまでどのように外国文化を受容してきたのかという問題に対して、一つの回答を提示した。

結論から言えば、日本は外国からやってくるのもを排除することなく全て受け入れたのだが、その際に、自国流に変形した。オルガンティノの前に現れた日本の霊である老人は、「我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力」だと言う。
しかも、造り変えて同化する際に、すでに存在したものと新しく到来したもののうちどちらかを排除するのではなく、すべてが同時に共存する。新しいものが古いものを消滅させることはない。

この二つの点を理解するために、「洋服」を取り上げてみよう。
私たちは「洋服」という言葉を何気なく使い、その由来について考えることはほとんどない。
しかし、同じものを指す言葉である「服」とはニュアンスの違いがある。普段であれば、「その服かわいい!」というように「服」を使い、多少丁寧であらたまった感じの時には、例えば「お洋服」のように「洋服」を使う傾向にある。

「洋服」という言葉は明治時代にできたもので、元来は「西洋服」だった。それを略して「洋服」になった。
それに対応し、日本の伝統的な服装(着物)は、「和服」と呼ばれるようになった。
その二つの様式は現在でも共存している。決して、「洋服」が「和服」を排除してしまったわけではない。その一方で、欧米由来の衣服にも日本風のアレンジが加えられ、日本人に適したものに造り替えられてきた。
このように考えると、「変形しつつの同化」と、すでに存在したものと新しいものの「共存」という、二つの現象を確認することができる。

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岡倉天心 「茶の本」 お茶か刀か

岡倉天心の『茶の本』は、アメリカ・ボストン美術館で中国・日本美術部長を務めていた天心が、1906年(明治39年)に英語で出版した書籍で、茶道の紹介だけではなく、日本の文化や美意識が説かれている。

その背景には次のような時代があった。
1868年の明治維新以降、日本は欧米に匹敵する列強になることを目指し国の近代化に努め、大陸政策を進展させ、1894(明治27)年には日清戦争、1904(明治37)年には日ロ戦争へと突き進んだ。そうした戦争の勝利の中で、日本が西欧に劣った国家ではなく、独自の文化を持った国であるという自覚と誇りが芽生え、各種の日本論が提出された。

『茶の本』もそうした日本論の一つだが、とりわけ21世紀の今、次の一節に目を止めたい。

一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖のまたの例に過ぎないと思って、そでの下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸にふけっていた間は、野蛮国と見なしていたものである。しかるに満州の戦場に大々的殺戮さつりくを行ない始めてから文明国と呼んでいる。近ごろ武士道――わが兵士に喜び勇んで身を捨てさせる死の術――について盛んに論評されてきた。しかし茶道にはほとんど注意がひかれていない。この道はわが生の術を多く説いているものであるが。もしわれわれが文明国たるためには、血なまぐさい戦争の名誉によらなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。われわれはわが芸術および理想に対して、しかるべき尊敬が払われる時期が来るのを喜んで待とう。

(青空文庫 :https://www.aozora.gr.jp/cards/000238/files/1276_31472.html

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Ryūnosuke Akutagawa “Le Sourire des dieux” 7/7 芥川龍之介 「神々の微笑」

La suite de la partie 6/7 et la fin.

南蛮寺なんばんじのパアドレ・オルガンティノは、――いや、オルガンティノに限った事ではない。悠々とアビトのすそを引いた、鼻の高い紅毛人こうもうじんは、黄昏たそがれの光のただよった、架空かくう月桂げっけいや薔薇の中から、一双の屏風びょうぶへ帰って行った。南蛮船なんばんせん入津にゅうしんの図をいた、三世紀以前の古屏風へ。
 
(あおぞら文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html

 Padre Organtino du temple Nanban, – non, ce n’est pas seulement lui. Trainant tranquillement le bout de son vêtement sacerdotal, les occidentaux aux cheveux roux et au nez haut, depuis les lauriers et les roses imaginaires flottant à la lumière crépusculaire, étaient rentrés dans une pair de paravents ; à l’intérieur des vieux paravents datant d’il y a trois cents ans, qui représentaient une scène de l’arrivée d’un navire Nanban au port (n. 25).

Note 25.

Il s’agit des paravents Nanban (barbares du sud), qui représentent des scènes de vie des commerçants occidentaux et des missionnaires en provenance d’Europe et généralement du Portugal.

En principe, ces paravents vont par paire, chacun ayant six panneaux. Entourées par le cadre de laque noire, les peintures sont réalisées en couleurs sur des feuilles de papier recouvertes de feuilles d’or.

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