芥川龍之介 「桃太郎」 読解の3つのレベル  3/3  「他者」は敵?

(3)「他者」は敵?

書物を前にした女性の姿を描いた日本の絵画。伝統的な衣装を纏い、静かに筆を持っている。

一般的に、昔話や童話では、主人公が勧善懲悪の物語を通して悪を退治し、最後には幸せな結末を迎える。しかし、芥川版「桃太郎」では、鬼征伐を終えた桃太郎に、必ずしも幸福な結末が待っているわけではない。生き残った鬼たちによる攻撃に悩まされ続けることになるのだ。この不思議な結末から、私たちは何を読み取ることができるだろうか。

そのヒントとなるのが、鬼の母が孫たちに語り聞かせる言葉である。

「お前たちも悪戯(いたずら)をすると、人間の島へやってしまうよ。人間の島へやられた鬼はあの昔の酒顛童子(しゅてんどうじ)のように、きっと殺されてしまうのだからね。え、人間というものかい? 人間というものは角(つの)の生(は)えない、生白(なまじろ)い顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に鉛(なまり)の粉(こ)をなすっているのだよ。それだけならばまだ好(い)いのだがね。男でも女でも同じように、うそはいうし、欲は深いし、焼餅(やきもち)は焼くし、己惚(うぬぼれ)は強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、泥棒(どろぼう)はするし、手のつけようのない毛だものなのだよ……」(芥川龍之介「桃太郎」)

鬼にとって人間とは、見た目が気味悪いだけでなく、野獣のように野蛮な存在なのだ。だからこそ、「人間の島へやってしまう」という脅し文句は、子供たちにとって最も恐ろしい罰を意味することになる。人間が恐ろしい生き物であるという認識は、鬼の島では常識だったに違いない。

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芥川龍之介 「桃太郎」 読解の3つのレベル  2/3  桃太郎は「天才」

(2)桃太郎は「天才」

白黒のポートレート写真で、考え込む表情の男性。

芥川龍之介が語る「桃太郎」では、鬼ヶ島での鬼退治が、桃太郎一団による侵略として描かれていることを確認した。しかし、そうした理解だけでは、こぼれ落ちてしまう部分がある。そのことは、物語の最後で桃太郎のような存在を「天才」と呼んでいる一節を読むと、はっきりと見えてくるはずである。

物語の冒頭では、深い山の奥に大きな桃の木が数多くあり、その一つの実を八咫烏がついばむと、実が地上に落ち、桃太郎が生まれたというエピソードが語られた。そして物語の最後では、これからも「未来の天才」が桃の実の中から生まれてくるというのである。

人間の知らない山の奥に雲霧(くもきり)を破った桃の木は今日(こんにち)もなお昔のように、累々(るいるい)と無数の実(み)をつけている。勿論桃太郎を孕(はら)んでいた実だけはとうに谷川を流れ去ってしまった。しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。あの大きい八咫鴉(やたがらす)は今度はいつこの木の梢(こずえ)へもう一度姿を露(あら)わすであろう? ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。…… (芥川龍之介「桃太郎」)

平和に暮らす鬼たちの島を侵略し、宝物を奪い、若者たちを人質として連れ去った桃太郎が、なぜ「天才」といえるのだろうか。天才と呼ばれる人間が、それほど非人間的で、倫理に反する行動をするのだろうか。そんな疑問が湧いてくるのではないだろうか。

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芥川龍之介 「桃太郎」 読解の3つのレベル  1/3  鬼征伐は侵略

黒い背景に対する男性のモノクロ写真。手を顎に当て、思索にふける表情を浮かべている。

「桃太郎」と聞けば、私たちは、桃から生まれた桃太郎がきび団子を持ち、犬、猿、キジを連れて鬼ヶ島へ向かい、鬼を征伐して宝物を持ち帰る、といった物語を思い浮かべる。

こうしたイメージが広く定着した背景には、明治期以降、桃太郎を題材にした唱歌が繰り返し歌われ、また小学校の国語教科書にも取り上げられてきたことがある。その中でも、明治44年(1911年)の『尋常小学唱歌』に収録された「桃太郎」は、現在でもよく知られている。

猿と犬と一緒に旗を持つ少年のイラスト。背景には鳥が飛んでいる。

1.桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍団子、一つわたしに下さいな。
2.やりましょう、やりましょう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりましょう。

私たちはこの歌詞をなんとなく口ずさむことができるが、歌うときに、「なぜ鬼の征伐に行くのか」と考えることはない。鬼とは、もともと人間に悪さをする怖い妖怪であり、鬼退治をする桃太郎は、勧善懲悪のヒーローとして描かれるものだと、私たちは自然に受け止めているからだ。

ところが、芥川龍之介の「桃太郎」では、鬼の島は平和な楽園のような場所として描かれ、桃太郎は部下たちとともにその島を侵略し、富を奪って故郷に戻る存在として描かれている。その上、芥川は、その桃太郎を「天才」に属する人物としている。

この物語は大正13年(1926年)に発表されたものだが、芥川龍之介によって語り直された昔話は、私たちに何を考えさせてくれるのだろうか。ここでは、三つのレベルの読解を提示してみよう。

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 AKUTAGAWA Ryūnosuke Le Sourire des dieux 

« Le Sourire des dieux » d’AKUTAGAWA Ryûnosuke est une nouvelle, publiée en 1922, dans le numéro de janvier de la revue littéraire ‘Shin Shosetsu (Nouveau Roman)’, puis reprise dans le recueil intitulé Les Vêtements de printemps en 1923.

Le Sourire des dieux

Un soir de printemps, Padre Organtino marchait tout seul, en trainant derrière lui le bout de son vêtement sacerdotal, dans le jardin du temple NanBan.
Le jardin était abondant en plantes occidentales telles que des roses, des oliviers ou des lauriers, parmi les pins et les cyprès. En particulier, les rosiers, commençant à fleurir, exhalaient leur doux parfum sous une faible lumière du crépuscule qui obscurcissait les arbres, ce qui semblait ajouter à la tranquillité du jardin un charme mystérieux, quelque chose de peu japonais.
Organtino, à l’air triste et marchant dans un sentier de sables rouges, était plongé vaguement dans ses souvenirs. La sainte siège de Rome, le port de Lisbonne, le son du violon portugais appelé Rabeca, le goût des amandes, la chanson « Seigneur, tu es le Miroir de mon Âme » — tous ces souvenirs amenaient, dans le cœur de ce prêtre aux cheveux rouges, une tristesse nostalgique . Dans l’espoir de la dissiper, il se dit doucement le nom de Deus (Dieu). Mais, bien loin de disparaître, la tristesse s’étendait encore davantage, pesant lourdement sur sa poitrine.

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芥川龍之介 「蜜柑」 「沼地」  ある芸術家の肖像

一見うまくやっているように見えながらも、どこか周囲の雰囲気になじめない。はっきりとした理由や特別な原因があるわけではないのに、漠然とした居心地の悪さを感じる。自分自身であることさえ、時に違和感を覚える。── そうした人々が、社会の中には一定数存在する。

彼らは、表面的には決して社会から排除されているわけではない。けれども心の奥では、自分の価値観と社会一般の価値観とのズレを常に感じている。そして、社会からの圧力に押しつぶされそうになる中で、周囲との温度差に擦り切れ、苛立ち、言葉にならない悪態をつき、時には自らの無力さに疲れ果てて、爆発しそうになることさえある。

「蜜柑」と「沼地」は、そうした人間を代表する「私」(わたくし)が、偶然に遭遇した出来事を語るという形式を取った短編作品である。
どちらの作品でも、起承転結のある物語が展開されるわけではない。「蜜柑」では、汽車の中で出会った少女の振る舞いを目撃した出来事が語られるのみであり、「沼地」では、展覧会で出会った美術記者とのやり取りが記されるにすぎない。

しかしそこからは、社会の一般的な価値観と葛藤する「私の肖像」が描き出され、その肖像を通して、「私にとって価値あるもの」が浮かび上がってくる。
「蜜柑」と「沼地」に共感を寄せる読者は、その「価値あるもの」を、芥川龍之介と共有することになる。

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芥川龍之介 「神神の微笑」 日本はいかに外国文化を受容してきたのか?

芥川龍之介は、1922(大正12)年に発表した「神神の微笑」の中で、キリスト教を布教するために日本にやってきたオルガンティノ神父の葛藤を通して、日本が古代から現代に至るまでどのように外国文化を受容してきたのかという問題に対して、一つの回答を提示した。

結論から言えば、日本は外国からやってくるのもを排除することなく全て受け入れたのだが、その際に、自国流に変形した。オルガンティノの前に現れた日本の霊である老人は、「我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力」だと言う。
しかも、造り変えて同化する際に、すでに存在したものと新しく到来したもののうちどちらかを排除するのではなく、すべてが同時に共存する。新しいものが古いものを消滅させることはない。

この二つの点を理解するために、「洋服」を取り上げてみよう。
私たちは「洋服」という言葉を何気なく使い、その由来について考えることはほとんどない。
しかし、同じものを指す言葉である「服」とはニュアンスの違いがある。普段であれば、「その服かわいい!」というように「服」を使い、多少丁寧であらたまった感じの時には、例えば「お洋服」のように「洋服」を使う傾向にある。

「洋服」という言葉は明治時代にできたもので、元来は「西洋服」だった。それを略して「洋服」になった。
それに対応し、日本の伝統的な服装(着物)は、「和服」と呼ばれるようになった。
その二つの様式は現在でも共存している。決して、「洋服」が「和服」を排除してしまったわけではない。その一方で、欧米由来の衣服にも日本風のアレンジが加えられ、日本人に適したものに造り替えられてきた。
このように考えると、「変形しつつの同化」と、すでに存在したものと新しいものの「共存」という、二つの現象を確認することができる。

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Ryūnosuke Akutagawa “Le Sourire des dieux” 7/7 芥川龍之介 「神々の微笑」

La suite de la partie 6/7 et la fin.

南蛮寺なんばんじのパアドレ・オルガンティノは、――いや、オルガンティノに限った事ではない。悠々とアビトの裾すそを引いた、鼻の高い紅毛人こうもうじんは、黄昏たそがれの光の漂ただよった、架空かくうの月桂げっけいや薔薇の中から、一双の屏風びょうぶへ帰って行った。南蛮船なんばんせん入津にゅうしんの図を描かいた、三世紀以前の古屏風へ。
 
(あおぞら文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html)

 Padre Organtino du temple Nanban, – non, ce n’est pas seulement lui. Trainant tranquillement le bout de son vêtement sacerdotal, les occidentaux aux cheveux roux et au nez haut, depuis les lauriers et les roses imaginaires flottant à la lumière crépusculaire, étaient rentrés dans une pair de paravents ; à l’intérieur des vieux paravents datant d’il y a trois cents ans, qui représentaient une scène de l’arrivée d’un navire Nanban au port (n. 25).

Note 25.

Il s’agit des paravents Nanban (barbares du sud), qui représentent des scènes de vie des commerçants occidentaux et des missionnaires en provenance d’Europe et généralement du Portugal.

En principe, ces paravents vont par paire, chacun ayant six panneaux. Entourées par le cadre de laque noire, les peintures sont réalisées en couleurs sur des feuilles de papier recouvertes de feuilles d’or.

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Ryūnosuke Akutagawa “Le Sourire des dieux” 6/7 芥川龍之介 「神々の微笑」

Voici la suite de la partie 5/7.

「まあ、御待ちなさい。御前おまえさんはそう云われるが、――」
オルガンティノは口を挟はさんだ。
「今日などは侍が二三人、一度に御教おんおしえに帰依きえしましたよ。」
「それは何人なんにんでも帰依するでしょう。ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分悉達多したあるたの教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」
 老人は薔薇の花を投げた。花は手を離れたと思うと、たちまち夕明りに消えてしまった。

(あおぞら文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html)

« Mais, attendez. Vous dites ainsi, mais … »
Organtino intervint.
« Rien qu’auujourd’hui, deux ou trois samuraïs se sont convertis à notre sacrée religion. »
« Beaucoup de gens se convertiront sans aucun doute. Pourtant, Si on ne parle que de la conversion, la plupart des natifs de ce pays croient au culte de Siddhārtha. Néanmoins notre force ne consiste pas en celle de détruire, c’est la force de transformer.
Le vieillard jeta les fleurs de roses, qui, dès qu’elles quittèrent ses mains, disparurent immédiatement dans la lumière du soir.

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Ryūnosuke Akutagawa “Le Sourire des dieux” 5/7 芥川龍之介 「神々の微笑」

Voici la suite de la partie 4/7.

「ところが実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。はるばるこの国へ渡って来たのは、泥烏須デウスばかりではありません。孔子こうし、孟子もうし、荘子そうし、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。支那の哲人たちは道のほかにも、呉ごの国の絹だの秦しんの国の玉だの、いろいろな物を持って来ました。いや、そう云う宝よりも尊い、霊妙れいみょうな文字さえ持って来たのです。が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか? 

(あおぞら文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html)

 « Mais si, il existe en fait ce qui l’emporte sur Deus. Veuillez bien m’écouter. Ce n’est pas seulement Deus qui est venu de loin dans ce pays. Confucius, Mencius, Zhuangzi — et d’autres philosophes sont venus de la Chine à travers la mer. À ces époques ce pays venait de naître. À part la pensée de la Voie, ils ramenaient les soies du royaume de Wu et les trésors de l’État de Qin, et tant d’autres. En outre, ils ont apporté les sacrés caractères chinois, plus précieux que ces genres de trésors. Pourtant, la Chine nous a-t-elle conquis ?

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Ryūnosuke Akutagawa “Le Sourire des dieux” 4/7 芥川龍之介 「神々の微笑」

Voici la suite de la partie 3/7.

オルガンティノは翌日の夕ゆうべも、南蛮寺なんばんじの庭を歩いていた。しかし彼の碧眼へきがんには、どこか嬉しそうな色があった。それは今日一日いちにちの内に、日本の侍が三四人、奉教人ほうきょうにんの列にはいったからだった。
 庭の橄欖かんらんや月桂げっけいは、ひっそりと夕闇に聳えていた。ただその沈黙が擾みだされるのは、寺の鳩はとが軒へ帰るらしい、中空なかぞらの羽音はおとよりほかはなかった。薔薇の匂におい、砂の湿り、――一切は翼のある天使たちが、「人の女子おみなごの美しきを見て、」妻を求めに降くだって来た、古代の日の暮のように平和だった。

(あおぞら文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/68_15177.html)

 Le lendemain soir aussi, Organtino se promenait dans le jardin du Temple Nanban. Ses yeux bleus paraissaient joyeux d’une certaine manière. C’est parce qu’en ce seul jour, trois ou quatre samuraïs se furent convertis au christianisme.
 Les burséracées et les lauriers se tenaient debout silencieusement au crépuscule. Ce qui troublait le silence était le seul bruit des ailes des pigeons rentrant aux auvents du temple. Le parfum des roses, l’humidité du sable, — tout cela semblait en paix comme le jour de l’Antiquité où les anges ailées, « à la vue de la beauté des filles humaines » (n. 11), avaient descendu pour trouver leurs épouses.

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