マラルメ 白鳥のソネ 「手付かずのまま、生き生きとした、美しい今日が」 Mallarmé Le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui 白鳥(詩人)の肖像

マラルメの詩はとにかく難しい。というか、何が書いてあるのかほぼ不明だということが多い。それにもかかわらず高く評価され、20世紀以降の文学の始祖のように見なされることもある。
理解不可能に思える詩を書いた詩人に、なぜそうした高い評価が与えられるのだろうか?

ここでは、マラルメの目指した「詩」について考えながら、理論の実践として、「手つかずのままで、生き生きとした、美しい今日(le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui)」を読んでいこう。

実際、この詩も、他のマラルメの詩と同様、普通に読んだだけでは意味がほとんどわからない。
その一方で、音色についてははっきりとした特色があり、14行のソネット全ての詩行で [ i ]の音が何度も耳を打つ。

Le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui
Va-t-il nous déchirer avec un coup d’aile ivre
Ce lac dur oublié que hante sous le givre
Le transparent glacier des vols qui n’ont pas fui !

構文だけたどれば、「今日が湖を引き裂く(L’aujourd’hui déchire le lac)」という”意味’は理解できる。
しかし、それが何のことだかわからない。

「酔った翼の一撃で(d’un coup d’aile ivre)」が何によるものかも、「硬い湖(lac dur)」、それに付きまとう「飛翔の透明な氷河(le transparent glacier des vols)」という単語のつらなりも、字面を追うことはできても、何を言いたいのかさっぱりわからない。

マラルメはなぜこんな表現を使って詩を書き、何を目指したのだろう?


マラルメは、「詩の言語」は「日常に流通する言語」とは異なる機能を持つ必要があると考えていた。

二つの言語の違いは、次のように考えるとわかりやすい。
日常の言語は、自分の意志を相手に明確に伝えるために使われる。ノイズがなく、クリアーに意図が伝わるのが最良とされるコミュニケーションのための道具。
それに対して、マラルメの詩的言語は、伝達機能をストップし、物や思考を表象(再現)することを停止し、言葉それ自体で自立する。その中で、言葉の持つ潜在性を再発見する。

このように言われても、もう少し具体的に考えてみないと、マラルメの考える詩的言語がどんなものかはわからない。
そこで、「音楽と文芸」の一節を読んで見よう。

Les monuments, la mer, la face humaine, dans leur plénitude, natifs, conservant une vertu autrement attrayante que ne les voilera une description, évocation dites, allusion je sais, suggestion : 

建造物、海、人間の顔、それらが十分に開花し、生まれたままの状態であれば、ある潜在的な力を保っている。その力は、描写によって覆われるようなものとは違う魅力を持つ。喚起とか、ほのめかし、あるいは、暗示と言ってもいい。

この一節もそれほどわかりやすいわけではないが、次のようなことは理解できる。
もし「海」を「ウミ」と名指してしまうと、現実に存在する「海」の様々な要素が消滅してしまう。言葉の意味は通じるかもしれないが、それ以外のものが失われてしまう。しかも、そのことに多くの人々は気付かない。

そこで、マラルメは、言葉によって、「名指し」たり、「描写」するのではなく、「暗示」しようとする。
言葉が暗示するものは、現実へと人を差し向けるのではなく、「海」という言葉が指し示す事象とは異なった、何か別の魅力を生み出す可能性がある。

マラルメ自身の表現によれば、日常言語は「描写し、語る」。詩的言語は「暗示」する。

この説明も明確とはいえないだろう。そこで、「手つかずのままで、生き生きとし、美しい今日」の第1詩節をもう一度読み直しながら、「指示」「描写」と「暗示」の対比について考えてみよう。


Le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui
Va-t-il nous déchirer avec un coup d’aile ivre
Ce lac dur oublié que hante sous le givre
Le transparent glacier des vols qui n’ont pas fui !

まず、直接名指されているものを見ていこう。
「羽根の一撃(un coup d’aile)」、「湖(le lac)」、「霧氷(le givre)」、「氷河(le glacier)」、そして「飛翔(les vols)」。

これらの言葉が「喚起、ほのめかし、暗示」するものは、羽根を持って空を飛ぶもの、つまり鳥。
そして、氷の張った湖。

その暗示された内容がわかると、さまに「今日(aujourd’hui)」、一羽の鳥が氷に覆われた湖から飛翔しようとし、その羽ばたきによって一面を覆う氷がひび割れる、といったイメージが浮かび上がってくる。

ただし、« va déchirer »と近接未来で書かれていて、まだ鳥は飛び上がらず、氷がひび割れてはいない。

次に、湖に注目すると、まず「硬い(dur)」。この状況において、その形容詞は、湖の一面が氷に覆われていることを暗示していると考えていいだろう。

では、「忘れられた(oublié)」とはどういうことだろう?
なぜこの湖が忘れられているのか、ここまでの詩句からはまったくわからない。つまり、この暗示は謎に留まっている。

その2つの形容詞に加え、3つ目の暗示が、関係代名詞節を使って付け加えられる。
その地は「霧氷(le givre)」で包まれている。
さらに、湖には「透明な氷河(le transparent glacier)」が「付きまとう(hante)」とされる。
しかもそれは「飛翔(les vols)」の氷河。
その上、そらの飛翔は「逃げ去らなかった(n’ont pas fui)」と、過去のことであることが示される。

このように見てくると、Le lacという言葉に付加された3つの属性は、決して「描写」ではなく、「暗示」であることがわかる。
そして読者は、マラルメの暗示を受け、これらの言葉が生み出す「魅力的な力(une vertue attrayante)」を見出そうとすることで、「美しい今日(le bel aujourd’hui)」に引き寄せられていくことになる。

引き寄せられなければ、この詩の魅力を感じることなく、読むのを止めるしかない。
その反対に、わからないながらも何かを感じれば、暗示されるものが何なのかを知ろうとして、詩句について考察を続けることになる。

« les vols qui n’ont pas fui »:これまでにも飛翔は何度か試みられてきた。
しかし、鳥が湖から脱出することはできなかった。複合過去形の動詞は、過去の失敗の記録を留めている。

« le transparent glacier des vols »:「飛翔の氷河」という表現は意味をなさない。
そのことを踏まえて考えていくと、飛翔できなかったからこそ、氷河にひび割れがなく、透明なままではないかと推測できる。つまり、透明な氷河は、飛翔の失敗あるいは不可能性の証なのだ。

湖が「硬い」のもそのためだし、だからこそこの湖は今日まで「忘れられていた」のだと考えられる。

しかし、今日、再び何かが羽ばたく予感がする。
これまでの失敗の歴史を振り返れば、それは大胆な試みであり、正常な精神ではなく、「酔い(ivre)」、酩酊状態でなければ行われない。
だからこそ、「今日」は、世界が初めて生まれた日のように「手つかずのままで(vierge)」「生き生きとし(vivace)」「美しい(bel)」。

このように、第1詩節は、湖の氷に閉じ込められた一羽の鳥が、まさに今、羽根を拡げて羽ばたこうとする、その瞬間を暗示していると、読み解くことができる。


第2詩節になると、飛翔の主が「かつての白鳥(un cygne d’autrefois)」と名指される。

Un cygne d’autrefois se souvient que c’est lui
Magnifique mais qui sans espoir se délivre
Pour n’avoir pas chanté la région où vivre
Quand du stérile hiver a resplendi l’ennui.

かつての白鳥は覚えている、自らは
素晴らしく美しいままでいる。しかし、自由になろうとしながらも、その希望を抱いてはいない。
歌わなかったからだ、生きるべき場所を、
輝いた時、不毛な冬の倦怠が。

「かつての一羽の白鳥(un cygne d’autrefois)」が何かを覚えている(se souvient)ということは、通常のコミュニケーション言語の範囲で理解できる。
ちなみに、« se souvenir »は、que以下の文が現在形で語られるために、過去を「思い出す」のではなく、現在何かを「覚えている」と解釈する必要がある。

覚えている内容については、次の4つのことが含まれる。
(1)今(も)、白鳥はとても美しい。
« C’est lui, magnifique »と現在形で記されていることに注意。

(2)自由になろうとしている(se délivre)が、しかし本当に飛翔できるという希望は抱いていない(sans espoir)。

(3)そうした状態にある理由が、pour avoir+pp. によって示される。
それは、生きるべき場所(la région où vivre)を白鳥が歌わなかったから( pour n’avoir pas chanté)。
字義的にはこのように理解できるが、しかし、「生きるべき場所」がどこなのかはわからない。その意味では、「暗示」が行われている。

(4)歌わなかった時、倦怠が輝いていた(l’ennui a resplendi)。
「不用な冬(le stériel hiver)」も「倦怠(l’ennui)」も、何を指しているのか具体的な指示がなく、「暗示」する言葉に属する。

Georges de Feure, Lago dei cigni

では、第2詩節での「暗示」はどのように働くのだろうか?

まず最初に、白鳥の属性となる「かつて(autrefois)」という言葉に注目しよう。
第1詩節では、「今日=現在」と「過去」の対比が示され、過去は飛翔が失敗した時だった。
そこから連想すると、「かつての白鳥」とは、凍った湖から何度も飛び立つ(les vols)ことを試みながら、失敗に終わった白鳥ということになる。

その白鳥は、氷に覆われ凍てついているであろう「不毛な冬」にあって、倦怠(l’ennui)に捕らえられ、鳥として「生きるべき場所」、例えば大空の歌を歌うことができなかった。
つまり、ここでも再び、失敗あるいは氷の湖に対する敗北が暗示されている。

その結果、今日も「願いが叶えられるとは思っていない(sans espoir)」。
しかし、それでもなお飛翔しようとするがゆえに、「素晴らしく美しい(magnifique)」。
その言葉は、第1詩行の「手つかずのままで(vierge)、生き生きとした(vivace)、美しい今日」と響き合い、生きる(vivre)かぎり飛翔しようと望み続ける白鳥を通し、「美」の一つの姿を暗示する。


最初の三行詩では、今ではなく、「未来」が問題になる。つまり、実現しないであろう望み。

Tout son col secouera cette blanche agonie
Par l’espace infligée à l’oiseau qui le nie,
Mais non l’horreur du sol où le plumage est pris.

かつての白鳥の首全体が、白い死の苦悶を揺り動かすだろう、
空間によってその鳥に課せられた苦悩を。鳥はその空間を否定する。
しかし、羽毛が捕らえられている地表への嫌悪はない。

この詩節では、「首(son col)」、「羽毛(le plumage)」という単語が用いられ、「鳥(l’oiseau)」の体の部位が「名指される」。その視点からは、現実的な記述がなされることが期待される。

また、「空間(l’espace)」や「地面(le sol)」、「死の苦悶(l’agonie)」、「嫌悪(l’horreur)」といった名詞も、「揺する(secouer)」、「infliger(課する、押しつける)」、「否定する(nier)」、「捉えられる(est pris)」といった動詞も、意味の伝達を妨げるものではない。

しかし、それらの結び付くと、「指示」や「描写」ではなく、「暗示」になる。

いつか、かつての白鳥が、首全体(tout son col)を振り、死の苦悶を揺り動かすだろう。
しかもその苦悶(l’agonie)は白い(blanche)。
また、その苦悶は空間によって鳥に課されたもの(infligée)。
鳥はその空間を否定する(qui le nie)。

Giukio Paolin, Exil-du cygne

読者は、こうした文意を持つ詩句を前にして、マラルメがコミュニケーション言語によってではなく、彼の考える詩的言語を通して喚起しようとした、「音楽として立ち上る、観念そのものにして甘美な、不在の花」(「詩句の危機」)を思い描くことになる。

白色(blanc)は、これまでの連想を辿れば、泉の氷や霧氷を思わせる。従って、「白い死の苦悶」とは、泉から飛翔できないまま死を迎える白鳥の苦しみだと考えることができる。

しかし、鳥は飛び立つことの不可能性を知りつつも、しかし常にその願いを抱き続けている。首が揺り動かすだろう(son col secouera)という単純未来形は、それがいつか起こるということを示すよりも、その願いが将来に渡り続くことを示す。
少なくとも、今、苦悶を振り払えるわけではない。
しかし、湖から飛び立ち、空間に閉じ込められている苦悩(l’agonie infligée par l’espace)を振り払う時が来ることを思う。

だからこそ、鳥はその空間、つまり氷の張った湖を否定する(qui le nie)。
その後すぐに続いて、首を振り苦悩を揺り動かすのは、地上への嫌悪(l’horreur du sol )からではないことが明かされる。地上に鳥の羽毛(le plumage)が捕らえられている(est pris)にもかかわらず。

この最後の詩句によって「暗示」されるのは、鳥が飛翔を切望するのは、湖への嫌悪のためではないということ。言い換えれば、その望みには何か他の理由があることになる。
としたら、その理由とは何か?

次の詩節を構成する3行の詩句で、その答えは示されるのだろうか?


二つ目の三行詩の最後、大文字で記される« le Cygne »(白鳥)が登場する。その「白鳥」と「かつての白鳥(Un cygne d’autrefois)」の関係を考えることで、この詩全体が暗示するところのものが見えてくる。

Fantôme qu’à ce lieu son pur éclat assigne,
Il s’immobilise au songe froid de mépris
Que vêt parmi l’exil inutile le Cygne.

その純粋な輝きのため、この地に割り当てられる亡霊として、
その鳥はじっと動かない 侮蔑により冷え冷えとした夢を前にして。
その夢を、無益な亡命の中、身に纏うのは、「白鳥」。

これまでの詩の流れから、「じっと動かない(Il s’immobilise)」のは、「かつての白鳥」しかいない。
その鳥が、この詩節では、「亡霊(fantôme)」として存在することになる。

それに対して、詩の最後に出てくる「白鳥(le Cygne)」は「亡命(l’exil)」している中で、「夢(le songe)」を身に纏っている。

« le Cygne »の綴り字の最初が大文字になっているのは、その名詞が普通名詞ではなく、固有名詞のように一つの固有な存在であることを示す。
« un cygne »が数多くの白鳥の中の一羽だとすると、« le Cygne »とは他のどの白鳥とも違う唯一の存在。
そして、その「白鳥」が「亡命(l’exil)」した状態にある。

マラルメがそのような対比を通して暗示したのは、プラトン哲学におけるイデア界と現実界の対照ではないか?
プラトン哲学において、天上界の「魂」が地上に下ると、「肉体」という監獄に捉えられた状態にいると考えられる。
その際、「魂」は地上に追放され、亡命しているとみなされてもおかしくない。

その図式に基づいて考えると、« le Cygne »はイデアであり、現実界に追放されると一羽の « un cygne »になる。
第2四行詩の冒頭で、「かつての白鳥は覚えている(Un cygne d’autrefois se souvient )」と言われたことを思い出そう。現在でも「とても美しい(magnifique)」のは、イデア界において«  le Cygne »であることの暗示だといえる。
こうしたプラトニスム的な視点から見ると、白鳥の飛翔とは、本来の住み処であるイデア界に戻るための行為と見なされる。
そして、そのことが、前の詩節が提示する「鳥が飛翔を切望するのは何故か」という疑問に対する答えとなる。

。。。。。

では、イデアはイデアのまま、« le Cygne »は« le Cygne »のまま、留まればいいのか?
マラルメは、その問いに対して、« Non ! »と答えるだろう。
なぜなら、人間の営みにおいて重要なのは、« le Cygne »と« un cygne »の相互関係であり、« un cygne »が« le Cygne »へと飛翔しようとする熱望なのだ。

何度も飛翔しようとして失敗を繰り返し、今もその試みを希望もないまま繰り返す« un cygne d’autrefois »。その姿は、« le Cygne »の亡霊(fantôme)にすぎないかもしれない。プラトン哲学において、現実界がイデア界の影にすぎないのと同じように。(「洞窟の比喩」を思い出そう。)

その関係の中で、マラルメは、白鳥の「純粋な輝き(son pur éclat)」が「この地(ce lieu)」に亡霊を割り当てる(assigne)のだと言う。つまり、その輝きがあるからこそ、« le Cygne »が« un cygne »となり、凍てついた湖という現実界に下ってきたのだと考えられる。
そして、下ったからこそ、飛翔への熱望が生まれる。

地上に下った魂は、肉体という監獄に閉じ込められているにしても、魂であり続ける。それと同じように、« un cygne »も« le Cygne »であり続ける。
そして、« le Cygne »は、亡命のうちにあって、「侮蔑により冷え冷えとした夢(le songe froid de mépris)」を纏う。

夢が冷たい(froid)のは、凍てついた湖にいることを思い出させると同時に、侮蔑による(de mérpis)ともされる。
その感情が白鳥から人々に向けられたものでないことは、「羽毛が捕らえられている地表への嫌悪はない。」という詩句から容易に推定される。
逆に、何度も飛翔の失敗を繰り返す白鳥に対する、人々の冷たい眼差しに込められたものだ。
飛翔の夢は、その侮蔑によって凍てついてしまう。氷の張った湖のように。

« un cygne d’autrefois »は、その夢を前にして、じっと動かない。
その姿は何を暗示しているのだろうか?

この詩のほとんど全ての読者たちが考えたように、その白鳥の姿は、マラルメという詩人、あるいはマラルメのイメージする詩人という存在を象徴するといえるだろう。

では、その詩人とはどのような存在なのか?

詩人は、氷に覆われた湖から飛び立とうとして失敗を繰り返す不毛な人間。詩作自体が不毛な行為であり、詩人は無用な存在と見なされるかもしれない。

しかし、それでも彼は詩作を続けようとする。
最後の詩節で描かれた白鳥の「じっと動かない」今の姿は、そこで終わるわけではない。
その「今」は、最初の詩句「手つかずのままで、生き生きとし、美しい今日」へと回帰する。
不毛と見える飛翔の願いは、決して実現しないとしても、しかし、そこには生まれたたまで手つかずの生命が宿っているのだ。

このソネットの詩句が描く白鳥によって暗示されるのは、そうした詩人であり、そうした詩作だと考えることができる。
真っ白な紙を前に何も書けないと嘆きながら、それでもポエジーを希求する存在、それがマラルメなのだ。

マラルメ 白鳥のソネ 「手付かずのまま、生き生きとした、美しい今日が」 Mallarmé Le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui 白鳥(詩人)の肖像」への1件のフィードバック

  1. アルバ のアバター アルバ 2023-10-23 / 20:45

    マラルメの象徴について考えを深めることができたような気がします。ありがとうございました。

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