
ポール・ヴァレリーの詩句は、フランス語を母語とする人間であっても、理解するのに努力を要する。一読しても、二度三度と読み返しても、よくわからないことが多い。その一方で、ヴァレリーはヨーロッパを代表する知性と認められ、「海辺の墓地」を始めとした詩の評価も高い。
その理由は何か?
一つは、ヴァレリーの詩的言語が、通常の言語で伝えられる意味以上のものを作り出すことを目指していること。もう一つは、詩句が音楽的であり、その音楽性が通常の意味以上の意味を生成することに寄与していること。その2点にあると考えられる。
ヴァレリー自身の言葉で言えば、「詩とは、通常の言語が持つか、持つことができる意味以上の意味を担い、それ以上の音楽を含む文の連なり(=ディスクール)の野望である。」(ポール・ヴァレリー「ヴェルレーヌ横断」)
フランス語の詩を翻訳で読む限り、詩句の音楽性を感じることはできない。そのために、音楽と意味の連動を理解した上で、詩句が生み出す意味を把握することは難しい。
逆に言えば、ヴァレリーの詩をフランス語で読むことは、理解に努力を要するとしても、この上もなく幸せなことだ。
「歩み(Les Pas)」は、日常の言葉を理解するようにしても意味がよくわからない。その一方で、破裂音(p, t, 等)と鼻母音([ã],等)が中心となって作り出す詩句の音楽性ははっきりと耳に響く。そのことから、ヴァレリーの詩がどのようなものか体験するために、最適な例ではないかと思われる。

第一詩節は、« Tes pas procèdent. »(お前の歩みが進んでくる)というSVの構文。そのことを頭に入れた上で読んでみよう。
Les Pas
Tes pas, enfants de mon silence,
Saintement, lentement placés,
Vers le lit de ma vigilance
Procèdent muets et glacés.
お前の歩みは、私の沈黙の子どもたち、
神聖に、ゆっくりと、踏み出され、
私の見張りするベッドに向かい、
進んでくる、音もなく、凍てつき。
まず音の面に注目すると、冒頭に置かれた Tes pas から、tとpの破裂音が耳を打つ。破裂音は、次の行の、sainte…, lente…, placésへと続き、4行目のProcèdentに至る。
一度止めた息を強く吐くように発音するそれらの音は、tes pasが「私」の方に進んでくる音の響きを強く感じさせる。
その一方で、tes pasに続くenfantsの中で2度繰り返される鼻母音は、息が閉鎖されず鼻へも抜ける音で、何かをおぼろげに包み込むような印象を与える。
そして、silence, saintement, lentement, vigilanceと, エコーのように響き続ける。
破裂音と鼻母音の対比の他に、silenceに含まれる母音 [ i ]の鋭い音が耳を打つ。3行目の詩句になると、その母音がlit, vigilanceと三度反復され、tes pasがprocèdentしてくる様子に注意を促す効果を発揮している。
こうした音が作り出す音楽は、「お前」の歩んでくる音が「私」の沈黙(silence)から生まれた子ども(enfants)であり、「私」がベッドの上で注意深く(vigilance)耳を傾けている姿を印象付ける役割を果たしている。
ヴァレリーは、「音と意味は切り離すことができず、記憶の中で無限に対応する」(「ボードレールの位置」)と書いているが、第一詩節はこの言葉を具現化している。
意味の面を追っていくと、通常の言語の理解では不可解としか思われない幾つもの謎かけが行われている。
お前の歩みが私の沈黙の子どもたちとはどういうことか?
神聖な様子で(saintement)、ゆっくりと(lentement)、踏み出される(placés)足取りが、静かで音もない(muets)ことはわかるとしても、なぜ凍てついている(glacés)のかわからない。
そして、最大の謎は、「お前」が誰なのかということ。その謎の答えは、詩を最後まで読んでも明かされない。
それに対して、「私」は、le lit de ma viligance(私の警戒、監視)という言葉によって、「お前」が近づいてくるのを、歩哨(vigile)が辺りを注意して見張るようにして、ベッドの上で待っていることがわかる。
「待つ」ことは、冒頭のtes pasという主語に対応する動詞(procèdent)がなかなか出て来ないことで、構文によっても表現されている。
このように考えると、「歩み」のテーマが「待つこと」であり、そして、誰をあるいは何を待つのかという謎かけが行われていることがわかってくる。
「お前」に関するそうした謎に対して、一般的には、3つの可能性が提示されてきた。
a. 愛する女性(官能性)
b. 詩の女神(詩の創造)
c. 死(人間の運命)
どの可能性を選択するかは読者次第だし、どれか一つを選ぶのではなく、どれもが妥当だと考えることもできる。その曖昧さが、コミュニケーション言語では伝えられない意味の創造に繋がるとしたら、理解に要する努力も無駄ではないし、楽しみに変わる可能性もあるだろう。
第2詩節では、p, tにbとdが加わり、破裂音がますます詩句に弾みを付ける。また、tes pasという歩みに、ces pieds nuus(その素足)という具体的なイメージが付け加わることで、「私」の期待感の高まりが感じられる。
Personne pure, ombre divine,
Qu’ils sont doux, tes pas retenus !
Dieux !… tous les dons que je devine
Viennent à moi sur ces pieds nus !
純粋な人よ、神聖な影よ、
お前の慎み深い歩みが、穏やかであるように!
神々よ!。。。私の見抜くあらゆる贈り物が、
私のもとにやって来る、その素足に乗って!
p音が二度響くpersonne pureに対して、新たな破裂音であるb音とd音がombre divineに現れる。そして、その対比によって、「お前」に、人間(personne)的な面と神的(divine)な影(ombre)の面があることが暗示される。
神的な面は、3行目ではっきりとdieux(神々)と名指される。また、私が見抜く贈り物でも、dons, devineとd音が続き、それらが人間を超えた神的なものではないかと思わせる。
その連想に従えば、贈り物とは、詩の女神から送られるインスピレーションだと考えることもできる
その贈り物をもたらす「お前」の歩みが穏やか(doux)なものであって欲しいと願う気持ちも、d音の存在によって、神聖なものであることが示される。
その一方で、ces pieds nus(その素足)という言葉で人間の官能性もこれまで以上に強く示される。piedsのp音が、personne pureを思い出させることで、その素足が人間のものであるという連想が湧くからである。
このように、第2詩節では、「お前」の二重性が、音によっても、意味によっても、浮かび上がってくる。
第3詩節と第4詩節は一つの文からなり、「お前」が唇を突き出し口づけをしようとするのに対して、「私」はそれを押しとどめようとする姿が、二つの詩節に渡り描かれる。
その理由も明かされるのだが、その際、相手に対する呼び方が、tuからvousへと変化する。そのことは、詩の冒頭に置かれたtes pasが末尾ではvos pasへと変わることで、音としてもはっきりと示される。また、動詞の時制も現在から過去へ変化する。
Si, de tes lèvres avancées,
Tu prépares pour l’apaiser,
À l’habitant de mes pensées
La nourriture d’un baiser,
Ne hâte pas cet acte tendre,
Douceur d’être et de n’être pas,
Car j’ai vécu de vous attendre,
Et mon cœur n’était que vos pas.
もし、お前の突き出す唇で、
準備するとしても、私の思考の住人を穏やかにするために、
その住人に、
口づけ一つの糧を、
その愛の行為を急いではならない、
存在する優しさ、存在しない優しさ。
なぜなら、私はあたなを待つことで生きていたのです。
そして、私の心は、あなたの歩みでしかありませんでした。
第3詩節では、「お前」の官能性が強く打ち出される。
前に突き出す唇(tes lèvres avancées)、気持ちを和らげると同時に欲望を満たすという意味もある動詞(apaiser)、口づけ(un baiser)。これらの言葉ははっきりと身体性を感じさせる。
では、その口づけを与えられる「私の思考の住人(l’habitant de mes pensées)」とは、どのような存在なのか?
それは、「お前」の足音を耳にし、その到来を待ちながら、様々な思いや妄想を巡らせる「私」だと考えていいだろう。
もしかすると、言葉には出さないけれど、口づけを熱望しているのかもしれない。としたら、「私」の願いを具現化した姿が「お前」なのかもしれない。もしそうであれば、冒頭で記された「お前の歩みは、私の沈黙の子どもたち(Tes pas, enfants de mon silence)」という詩句の種明かしにもなる。
ところが、口づけという言葉が現れた後、第4詩節に移行し、「私」は「お前」に、その優しい行為(cet ate tendre)を急がないように(ne hâte pas)と命じる。
そして、再び謎かけが行われる。
« douceur d’être et de n’être pas » (存在する、そして、存在しない、穏やかさ)
douceurは tendre を受けて発せされた言葉だと考えられる。
問題は、その優しさが « d’être et de n’être pas »によるとされていること。
この表現は、シェークスピアの『ハムレット』に出てくる有名な言葉を思わせる。
« Etre ou ne pas être : telle est la question. » (To be, or not to be, that is the question.)
このセリフは日本語では、「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ。」という訳で知られている。つまり、ne pas être ( not to be )=存在しないこととは、死を意味すると考えることができる。
ヴァレリーは、フランス語の通常の表現であれば« ne pas être »という表現を、あえて非文法的な語順にし、否定の副詞であるpasを最後に置き、4行目の最後の vos pasと韻を踏ませる。
その音の連関は、vos pasがn’être pasであること、つまり存在しないもの(=死)の足音であることを暗示する。
さらに、pasの音は、« Ne hâte pas »と事後的に響き合い、死の歩みを急がないようにという願いの表現だと読み取ることもできる。
そして、死の暗示は、次の詩行でvivreという動詞が複合過去で活用され、生きるという行為が現在においてすでに完了していることが示されることで、具体性を帯びたものになる。
« j’ai vécu de vous attendre, »
ここにきて、「歩み」という詩のテーマがattendre(待つ)であることが、やっと明示される。
「私」は待つことで生きていた(j’ai vécu)。
複合過去が示すように、生きたのはすでに完了した時点。
唇を差し出すほど迫ってくる今の時点とは違い、完了した時点では「私」と待つ対象との間には距離があった。その違いが、対象をtuと呼ぶか、vousと呼ぶかの違いによって表現されている。
最終行では、私の心がどのような状態であったのかが、動詞の半過去を使って示される。
« Et mon cœur n’était que vos pas. »
「私」の心臓は、生きている限り鼓動している。その鼓動が「あなた」の歩みと対応していたとするなら、あなたとは誰あるいは何なのか?
a. 心から愛した女性かもしれない。
b. 「私」が詩人であれば、詩の女神だろう。
c. 人間の運命一般として考えれば、人間は一歩づつ死に向かっているのであるから、心臓の鼓動は死への歩みとも考えられる。
すでに記したように、一つの理解の仕方が他の理解を排除するわけではなく、重なり合うことで、「歩み」の理解がより豊かなものになる可能性がある。恋愛が詩の創造につながり、詩は人間の人生の本質を垣間見させるといった理解をすることもできる。
そうした解釈をすることもできるが、解釈を急ぐ必要もない。ヴァレリーは、「待つ」ことを、言葉の音と意味を結び付けることで、次のように表現している。
a(cte) tendre
待つことは、優しい行為、愛の行為なのだ。

「歩み」は、「詩とは、通常の言語が持つか、持つことができる意味以上の意味を担い、それ以上の音楽を含む文の連なり(=ディスクール)の野望である。」というヴァレリーの言葉を実感させてくれる。
としたら、理解に努力を要するとしても、翻訳では決して感じることができない詩句の音楽性を感じながら、フランス語の詩句をゆっくりと読み説いていくことは、大きな喜びをもたらしてくれるに違いない。
もしわからないと思う詩句があっても、待っていれば、いつかなんらかのインスピレーションが湧いてくるかもしれない。
« Ne hâte pas cet acte tendre. »