ポール・ヴァレリー ”自己を見る自己”を見る詩人 2/2 「生」の変容を描く言葉のダンス

ポール・ヴァレリーが詩のおいて最も重視しているのは、意味と音の連動だった。詩的言語のリズムやハーモニーが生み出す音楽は、単に耳に心地よく響くというだけではなく、日常的に用いられる言語の意味を解体し、より強く感性に働きかけ、精神の活動を活発にする。

言語には感情を動かす力があり、その力は、直接的に意味を伝える実際的な力と混ざり合っている。詩人の義務、仕事、役割は、動かし魅了する力、感情の働きや知的な感受性を刺戟するものを明らかにし、活動させることだ。それらは、通常の言語の使用の中では、ごく当たり前で表面的な生活において使われる記号やコミュニケーションの道具と混同されている。(「ボードレールの状況」)

私たちの日常生活では、言葉は相手に自分の考えや感情を伝えるために使われる。それに対して、詩的言語は「言語の中のもう一つの言語」となり、通常の言語使用では伝えられないものを「暗示」し、人を魔法にかけるような「魅惑」を生み出す。

続きを読む →

ポール・ヴァレリー 「歩み」 Paul Valéry « Les Pas » 人は何を待つのか

ポール・ヴァレリーの詩句は、フランス語を母語とする人間であっても、理解するのに努力を要する。一読しても、二度三度と読み返しても、よくわからないことが多い。その一方で、ヴァレリーはヨーロッパを代表する知性と認められ、「海辺の墓地」を始めとした詩の評価も高い。

その理由は何か?
一つは、ヴァレリーの詩的言語が、通常の言語で伝えられる意味以上のものを作り出すことを目指していること。もう一つは、詩句が音楽的であり、その音楽性が通常の意味以上の意味を生成することに寄与していること。その2点にあると考えられる。
ヴァレリー自身の言葉で言えば、「詩とは、通常の言語が持つか、持つことができる意味以上の意味を担い、それ以上の音楽を含む文の連なり(=ディスクール)の野望である。」(ポール・ヴァレリー「ヴェルレーヌ横断」)

フランス語の詩を翻訳で読む限り、詩句の音楽性を感じることはできない。そのために、音楽と意味の連動を理解した上で、詩句が生み出す意味を把握することは難しい。
逆に言えば、ヴァレリーの詩をフランス語で読むことは、理解に努力を要するとしても、この上もなく幸せなことだ。

「歩み(Les Pas)」は、日常の言葉を理解するようにしても意味がよくわからない。その一方で、破裂音(p, t, 等)と鼻母音([ã],等)が中心となって作り出す詩句の音楽性ははっきりと耳に響く。そのことから、ヴァレリーの詩がどのようなものか体験するために、最適な例ではないかと思われる。

第一詩節は、« Tes pas procèdent. »(お前の歩みが進んでくる)というSVの構文。そのことを頭に入れた上で読んでみよう。

Les Pas

Tes pas, enfants de mon silence,
Saintement, lentement placés,
Vers le lit de ma vigilance
Procèdent muets et glacés.

続きを読む →

ポール・ヴァレリー ”自己を見る自己”を見る詩人 1/2 精神の転調と美

ポール・ヴァレリーは、マルセル・プルーストと同じ1871年に生まれた。そのことは、彼らの青春時代が19世紀後半にあり、世界観や芸術観の大転換の時期にあったことを意味している。

その時代、一方では近代科学の進歩がますます進む中で、産業技術といった物質的な次元だけではなく、精神的な分野にもその影響が及び、例えば、実験心理学といった新しい学問分野も誕生した。
その一方で、実証的な思考では捉えることができない次元を探究する動きも活発化し、通常の現実感覚とは異なる世界像を探究する思考や芸術が活動を活性化させていた。

こうした二つの潮流を背景にして、ポール・ヴァレリーは、「精神」のメカニスムを解明することを目指し、「レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説」や「テスト氏」といった散文作品、「若きパルク」や「海辺の墓地」といった韻文詩、「精神の危機」に代表される文明批評などを書き綴った。

その際、彼はしばしば「自己を見る自己」という構図を設定し、身体(見られる自分)の感覚と精神(見る自分)の動きという二つの次元を統合する中で、総合的な視点から人間の精神を捉え、描き出そうとした。
その意味で、ヴァレリーは、19世紀後半の対立する二つの世界観に基づいた上で、その先に歩みを進めた思想家であり、詩人であると見なすことができる。

続きを読む →

ポール・ヴァレリー  「風の精」 Paul Valéry Le Sylphe 詩とは何か

ポール・ヴァレリーは、ステファン・マラルメの弟子であることを自認しており、詩に関する考え方も、コミュニケーション言語と詩的言語を峻別するマラルメ的なものだった。

通常のコミュニケーションにおいては、言語は発信者の意図や思考が受信者にできるかぎりスムーズに伝わることを目指している。
他方、マラルメやヴァレリーの詩を構成する言語では、言葉そのものに焦点が当てられ、詩句の音楽性も手伝って、既存のものとは違う世界像の創造が視野に置かれる。

その結果、マラルメやヴァレリーの詩は、決して読んですっと理解でき、心を動かされる詩ではない。それにもかかわらず、詩句の音楽性によっても、彼らが提示する詩的世界像によっても、高い評価を与えられている。

そうした中で、ヴァレリーが、詩とは何かを私たちに教えてくれる詩がある。それが「シルフ(Le Sylphe)」と題されたソネット(4/4/3/3)。
そこでは、詩(ポエジー)が、風の精(シルフ)の声を通して、「私は・・・」と自らについて語る。

LE SYLPHE

Ni vu ni connu
Je suis le parfum
Vivant et défunt
Dans le vent venu !

Ni vu ni connu
Hasard ou génie ?
À peine venu
La tâche est finie !

Ni lu ni compris ?
Aux meilleurs esprits
Que d’erreurs promises !

Ni vu ni connu,
Le temps d’un sein nu
Entre deux chemises !

続きを読む →

ポール・ヴァレリー 若きパルク Paul Valéry « La Jeune Parque » 4~37行 私を咬む蛇

「Qui pleure là ?」(誰が泣いているの?)で始まる「若きパルク(La Jeune Parque)」は、冒頭の3行の詩句がオペラの前奏曲のような役割を果たし、自己が自己に問いかける自己意識のドラマの開始を告げる。
(参照:ポール・ヴァレリー 若きパルク 冒頭の3行 音楽と思想)

その後、ヴァレリー自身の言葉によれば、連続する心理的な変転の数々(une suite de substitutions psychologiques)を通して、一つの意識が一晩の間に辿る変化(le changement d’une conscience pendant la durée d’une nuit.)を、512行の詩句によって描き出していく。

そうした中で、第4行目から第37行目までの断片は、オペラで言えば、第1場第1楽章ともいえる場面。
最初に話題になるのは、涙。
涙をぬぐおうとする手の動きや心の内が明かされる。(第4行~第8行)

Cette main, sur mes traits qu’elle rêve effleurer,
Distraitement docile à quelque fin profonde,
Attend de ma faiblesse une larme qui fonde,
Et que de mes destins lentement divisé,
Le plus pur en silence éclaire un cœur brisé.

続きを読む →

ポール・ヴァレリー 若きパルク Paul Valéry « La Jeune Parque » 冒頭の3行 音楽と思想

ポール・ヴァレリー(Paul Valéry)の「若きパルク(La jeune Parque)」は、512行に及ぶ長い詩。執筆期間は4年に渡り、その間に書かれた下書きは600ページにのぼるという。
内容的にもかなり理解が難しく、全てを読み通すためにはかなりの労力と根気と忍耐を要する。

その一方で、この詩が発表された当時から音楽性が高く評価され、ヴァレリー自身、18世紀の作曲家グルックやワグナーのオペラを念頭に置いていたことが知られている。
実際、「知性」のメカニスムとか「自己意識」のドラマといった哲学的な思索が、フランス語の詩句の奏でる美しい調べに乗せて運ばれている。

ここで冒頭の3行の詩句を取り上げるにあたり、まず最初に、詩句の音楽性を感じてみよう。

La jeune Parque

Qui pleure là, sinon le vent simple, à cette heure
Seule, avec diamants extrêmes ?.. Mais qui pleure,
Si proche de moi-même au moment de pleurer ?

若きパルク

誰がそこで泣いているの、ただの風でないのなら、こんな時間に、
1人で、極限のダイヤモンドと一緒に?・・・ でも、誰が泣いているの、
私自身のこんな近くで、泣いているこの時に?

以下のyoutubeビデオで、この3行の朗読を聴くと、フランス語の詩句の美を感じことができる。

続きを読む →

ポール・ヴァレリー 「海辺の墓地」 Paul Valéry « Le Cimetière marin » 4/4

第19詩節で言及された、生を生き、「私」から離れない、真の齧歯類(le vrai rongeur)とは何か?

墓石の下では死者たちを蝕み、個体を崩し、大地にしてしまう。
では、地上では、何をかじるのか?
その対象は、「正確さに対する限りない欲望」を抱いた意識ではないだろうか。

その欲望が「私」を苛み、意識は、自己へ向かう愛、あるいは憎しみになる。

続きを読む →

ポール・ヴァレリー 「海辺の墓地」 Paul Valéry « Le Cimetière marin » 3/4

第10詩節から第19詩節にかけて、墓地に眠る死者たちに関する瞑想を中心に、現実と不在、個と普遍、肉体と精神に関する問いかけが行われる。
10詩節60行に及ぶ詩句は安易に理解できるものではなく、理解するためには精神の集中が必要になる。

まず最初に、詩句の音楽性を感じるため、もう一度youtubeで朗読を聞いておこう。(第10詩節は、4分35秒から。)

続きを読む →

ポール・ヴァレリー 「海辺の墓地」 Paul Valéry « Le Cimetière marin » 2/4

第5詩節から第9詩節において、「私(Je)」が「魂(âme)」に語り掛けるという行為を通して、変化=動きが生まれる瞬間が捉えられている。

その変化とは、「私」の中で魂と肉体が分裂すること。
それはまだ完全には起こっていず、今起こりつつあるか、未来(futur)に起こりうる出来事として提示される。
その意味で、5つの詩節で描かれる事象は、思考の冒険に他ならない。

続きを読む →

ポール・ヴァレリー 「海辺の墓地」 Paul Valéry « Le Cimetière marin » 1/4

ポール・ヴァレリーの「海辺の墓地(Le Cimetière marin)」は、詩人が、生まれ故郷である南フランスのセットにある墓地に腰を下ろし、地中海の美しい海を眺め、瞑想にふけるところから始まる。そして、様々な思索を繰り広げた後、堀辰雄の訳で有名な「風立ちぬ、いざ生きめやも」という詩句をきっかけにし、現実へと意識を移すところで、終わりを迎える。

10音節の詩句が6行で一つの詩節を構成し、それが24続く長い詩を、4回に分けて読んでいこう。

続きを読む →