アポリネール 「ゾーン」 Guillaume Apollinaire « Zone » 新しい精神の詩 2/7 キュビスムとモデルニテ

「ゾーン(Zone)」は新しい精神(Esprit nouveau)に基づく詩の宣言として、アポリネールが詩集『アルコール(Alcools)』(1913)の冒頭に置いた詩であり、実際、19世紀後半のボードレールやマラルメ、その流れを汲むポール・ヴァレリーの詩と比べても、「新しさ」を感じさせる。

ここでは、7行目から14行目まで、そして15行目から24行目までの二つの詩節を読み、アポリネールが彼の生きている時代の素材をどのように詩の中に取り込んでいったのか見ていこう。

Seul en Europe tu n’es pas antique ô Christianisme
L’Européen le plus moderne c’est vous Pape Pie X
Et toi que les fenêtres observent la honte te retient
D’entrer dans une église et de t’y confesser ce matin
Tu lis les prospectus les catalogues les affiches qui chantent tout haut
Voilà la poésie ce matin et pour la prose il y a les journaux
Il y a les livraisons à 25 centimes pleines d’aventures policières
Portraits des grands hommes et mille titres divers            (v. 7-14)

ヨーロッパでただ一人、お前は古くさくない おお キリスト教よ
もっとも近代的なヨーロッパ人 それはあなた 教皇ピウス10世です
そして お前を窓たちが見張っている 恥がお前を捉え
教会の中に入いり 告解をしないようにする 今朝
お前が読むのは 広告 カタログ ポスター それらは大きな声で歌っている
そこに詩がある 今朝 そして 散文としては 新聞がある
25サンティームの週刊誌がある 刑事事件が満載だ
偉人たちの肖像もある 数多くのタイトルがついた三面記事もある

(朗読は41秒から)

この詩節は、4行づつ二つの部分に分かれ、前半はキリスト教、後半は文学がテーマとなる。

(1)キリスト教(v. 7-10)

すでに、宗教は新しく、シンプルなままで残った(La religion seule est restée toute neuve / la religion est restée simple)(「ゾーン」4-5行目)とされていた。

ここでその発言が再び取り上げられ、キリスト教に対して、お前は古くない(tu n’es pas antique)とされ、しかも、詩の冒頭でエッフェル塔に対して感嘆の叫びを上げた時と同じように、「おお( ô )」という感嘆詞が用いられる。

キリスト教に向かいそのように呼びかけることが、逆説的であり、皮肉を含んでいることは、教皇ピウス10世を最も近代的なヨーロッパ人(L’Européen le plus moderne)と定義していることからも、読み取ることができる。
1903年に教皇に選出されたピウス10世は、反近代主義(anti-modernisme)を前面に掲げ、伝統的価値を擁護し、典礼の刷新や教会法典の編纂などに力を注いだ教皇として知られていた。
その教皇を最も近代的と呼ぶことの逆説は、アポリネールの時代の読者にとって明白だったに違いない。

その文脈の中で、新しい精神(esprit nouveau)の持ち主が、教会に入り(entrer dans une église)、そこで告解する(s’y confesser)のは、恥ずかしい(la honte)ことに違いない。
もしかすると、窓たちに見張られいる(que les fenêtres observent)ような気持ちになるかもしれない。

としたら、ここに出てくる「お前(toi)」とは、アポリネール自身のことだと考えられる。詩人は自分自身に対して話しかける。
そのように考えると、すでに見てきた冒頭の1行目と3行目に出てきた「お前」が誰かという謎も解けてくる。古い世界に飽きているのは、アポリネール自身なのだ。

その際に注意したいことは、飽きたからといって古い世界を完全に否定するのではなく、羊飼いの娘とエッフェル塔を類似関係に置き、古代の牧歌で歌われる羊たちをセーヌ河にかかる近代の橋に変容させたのと同じことが、宗教に対しても行われることが求められるはずである。

(2)読むもの(v. 11-14)

「お前」が読むものが、詩(la poésie)と散文(la prose)に分けて紹介される。そのどちらも伝統的な韻文詩や文芸作品ではなく、近代社会が発明した新聞や雑誌など。
新しい精神に従えば、19世紀までの価値観では文学とは見なされなかったものが、文学となる。

広告(prospectus)、カタログ(catalogues)、ポスター(affiches)が大きな声で歌う(chantent tout haut)という時、歌うという言葉は音楽性を示すものであり、伝統的な詩句の音楽性をそれらの中にも見出していることになる。だからこそ、それらが詩(la poésie)なのだ。

次に、散文(la prose)として、新聞(journaux)や値段の安い定期刊行物(livraisons週刊誌など)があり、その内容も、警察沙汰の事件(aventures policières)、有名人の消息(portraits des grands hommes)、三面記事的な題目(titres divers)などが列挙される。

これらは伝統的な価値観では文学のカテゴリーからは排除されていたものだが、アポリネールはそうした日常生活の中の素材を、新しい詩のテーマとして取り上げる。
それを示すために、新聞と定期刊行物を列挙する際、« il y a les journaux / Il y a les livraisons »と il y aを反復し、アナフォール(anaphore)という詩法を連想させる。散文であれば、 il y a をあえて重ねることはない。

アポリネールのこうした詩句は、1912年頃、ピカソとブラックがキュビスムが生み出したパピエ・コレの技法を思わせる。
彼らは、新聞紙、雑誌、広告、包み紙などの文字や写真を切り取り、台紙に貼り付け、新しい絵画の世界を生み出していた。

「今朝(ce matin)」が反復される点にも注目したい。
告白する(te confesser)の後ろと、詩(la poésie)の後ろに、ce matinが置かれている。それは、冒頭2行目で言及された橋の群がメーメー鳴く(le troupeau des ponts bêle)の後ろに置かれたce matinとも響き合う。
そうして反復される「今朝」は、新しい詩が開始される朝であることを告げている。


15−24行目の詩句では、一つの通りについての記述が続けられる。そこにも今朝(ce matin)という言葉が置かれ、新しい出発が告げられる。

J’ai vu ce matin une jolie rue dont j’ai oublié le nom
Neuve et propre du soleil elle était le clairon
Les directeurs les ouvriers et les belles sténo-dactylographes
Du lundi matin au samedi soir quatre fois par jour y passent
Le matin par trois fois la sirène y gémit
Une cloche rageuse y aboie vers midi
Les inscriptions des enseignes et des murailles
Les plaques les avis à la façon des perroquets criaillent
J’aime la grâce de cette rue industrielle
Située à Paris entre la rue Aumont-Thiéville et l’avenue des Ternes      (v. 15-24)

僕は 今朝 一つの可愛い通りを見た 名前は忘れてしまった
新しく 清潔で 太陽のラッパだった
社長たち 労働者たち 美しい速記タイピストたち
月曜の朝から 土曜の夕方まで 一日に4度 そこを通りかかる
朝 3度 サイレンがうめく
怒ったような鐘が 吠える お昼頃
広告や壁の文字が
表示板が 公示が オウムのように 絶えず叫び続ける
僕は この工場街の 優美さが好きだ
パリの オモン・ティエヴィル通りとテルヌ大通りの間に位置している

ここで10行を費やして語られる「一つの通り(une rue)」は、オモン・ティエヴィル通りとテルヌ大通りの間にある。それらは、30キロに渡りパリの回りをぐるりと取り囲む、ラ・ゾーン(La Zone)と呼ばれる貧しい地区の中にあった。
詩の題名である「ゾーン(Zone)」の一つの意味は、その名称から来ている。

僕が今朝見たその通りは、パリの中でも最も治安が悪く、不潔で、汚い場所にあり、普通の市民であれば近づくことがなかった地区に違いない。

その通りに対して、アポリネールは、可愛らしく(jolie)、新しく(neuve)、清潔(propre)で、太陽に照らされて明るく輝いているとでもいうかのように、太陽のラッパ(le clairon du soleil)なのだと言う。
そして、最後には、その工場街(cette rue industrielle)が優美(la grâce)だとされる。

そうした美意識には、醜いとされる都市の現実を対象にしながら、それを美として描き出すシャルル・ボードレール以来のモデルニテ(現代性)の美学が反映している。
ここでのアポリネールは、視覚と聴覚に訴えかけ、その街の活気ある様子を浮かび上がらせる。

まず、そこを通り過ぎる人々が、社長たち(Les directeurs)、労働者たち(les ouvriers)、美しい速記タイピストたち(les belles sténo-dactylographes)と、勢いよく列挙される。
一日に4回という数字も、その動きに活気を与える。

次に、聴覚を刺戟する表現が続く。サイレン(la sirène)がうめき(gémit)、鐘(une cloche)が吠える(aboie)。
朝に(le matin )3度も(par trois fois)うめくサイレンは、うるさいに違いない。鐘は怒っている(rageuse)ようで、耳に心地よく響くものではない。
しかし、そうした音が、その地区で人々が必死に生きることを示すことになる。

さらに、視覚が、広告(enseignes)や壁(murailles)の文字(Les inscriptions)、表示板(Les plaques)、公示(les avis)によって刺激される。
しかも、視覚の刺激は共感覚(synesthésie)によって聴覚にも働きかけ、目に見えるものが叫び続ける(criaillent)。

その様子がオウムたち(les perroquets)のおしゃべりにたとえられることは、その叫び声に具体性を増すことにつながる。

このように、通り過ぎる人々、雑然とした様子、騒がしく動きまわる音が詩句によって描き出されることで、醜い街が優美なもの(la grâce)へと変化していく。

「通りの名前をぼくは忘れてしまった(j’ai oublié le nom)」という言葉は、モデルニテの美学の持つ神秘的な力を暗示すると考えていいだろう。
というのも、その通りを挟む二つの通りの名前(オモン・ティエヴィル通りとテルヌ大通り)は、しっかりと覚えているからだ。一番大切な通りの名前を忘れたという言葉は、その通りの実在性を疑わしいものにし、「僕(Je)」の散策が現実のものでありならが、しかも美的な探究でもあるという、二重性を与えることになる。

このようにして、10行の詩句を通して、ゾーンへの最初の歩みが踏み出されていく。


「ゾーン」の最初の24行の解説を、以下のサイトで聞くことができる。
これまでの解説とは視点が違うこともあるが、映像を見たり、ネルヴァル、ボードレール、ランボーといった詩人たちとの関係、アポリネールの時代の詩や絵画などの状況も知ることができ、とても興味深い説明がなされている。

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