アポリネール 「ゾーン」 Guillaume Apollinaire « Zone » 新しい精神の詩  6/7 旅の思い出から「もう一つの現実」へ

「ゾーン」の89行目の詩句からは、世界各地への旅が始める。それはアポリネールの現実の体験に基づいていると考えられるが、そこから出発して、「もう一つの現実」が創造されていく過程だと考えてもいいだろう。

Maintenant tu es au bord de la Méditerranée
Sous les citronniers qui sont en fleur toute l’année
Avec tes amis tu te promènes en barque
L’un est Nissard il y a un Mentonasque et deux Turbiasques
Nous regardons avec effroi les poulpes des profondeurs
Et parmi les algues nagent les poissons images du Sauveur (v. 89-94)

(朗読は6分42秒から)

今 お前は 地中海の辺にいる
一年中花咲く レモンの木の下 
友だちたちと一緒に お前は船で辺りを巡る
一人はニースの男 マントンの男が一人 ラ・テュルビーの男が二人
ぼくたちは 怖がりながら 深い所にいるタコたちを見ている
海草の間では 魚たちが泳いでいる 救世主のイメージの魚たちが

ニースやマントン、ラ・テュルビーという地中海沿岸でイタリア寄りの地名があることから、「お前」が船の上から海の中を覗いているのは、アポリネールが少年時代を過ごしたモナコの近くのイメージなのだろう。

友だちと一緒にいる際に、「ぼくたち(nous)」と主語になる代名詞が一人称になる理由については、ここではなく、人称の問題がよりはっきりと現れる部分で考えていくことにしよう。

地中海の海の中にタコや魚が見えるのは自然なことなのだが、最後に、魚たちが救世主つまりイエス・キリストのイメージだとされる。その展開により、これまでのごく普通の世界の描写が、突然、宗教的な様相を帯びることになる。
そのことは、アポリネールが作り出す「もう一つの現実」において、キリスト教を含む宗教性や精神性が、物理的な世界と密接に関係することを示しているといえるだろう。


95-98行の詩節と、99-105行の詩節では、チェコのプラハが旅先になる。アポリネールは1902年3月にプラハを訪れている。

Tu es dans le jardin d’une auberge aux environs de Prague
Tu te sens tout heureux une rose est sur la table
Et tu observes au lieu d’écrire ton conte en prose
La cétoine qui dort dans le cœur de la rose (v. 95-98)

Épouvanté tu te vois dessiné dans les agates de Saint-Vit
Tu étais triste à mourir le jour où tu t’y vis
Tu ressembles au Lazare affolé par le jour
Les aiguilles de l’horloge du quartier juif vont à rebours
Et tu recules aussi dans ta vie lentement
En montant au Hradchin et le soir en écoutant
Dans les tavernes chanter des chansons tchèques (v. 99-105)

お前は宿屋の庭にいる プラハ近郊にある
お前は自分を本当に幸せだと感じている 一本のバラがテーブルの上にある
お前は観察している 散文の物語を書く代わりに
バラの芯の中で眠る コガネムシを 

恐くなり お前は 自分が素描されている姿を見る サン・ヴィット大聖堂の瑪瑙の中に
お前は 死んでいくのが悲しかった お前がそこで自分を見た日に
お前は ラザロに似ている 日の光によってパニックになったラザロに
ユダヤ人街の時計の針が 逆に進む
そして お前も後ずさりする お前の人生の中を ゆっくりと
フラッチャニの丘に登りながら そして 夕方になると 耳にする
宿の中で チェコ語の歌が歌われるのを

サン・ヴィット大聖堂は、プラハの市街を一望でき、プラハ城も立っているフラッチャニの丘に位置する。
時計の針が反対に回転する時計というのは、ユダヤ人街に立つシナゴーグに取り付けられた2つの時計の一つ。上の時計はローマ数字で時刻が記され、針は右回りに進む。他方、下の時計はヘブライ数字で書かれ、ヘブライ文字は右から左へと進むために、時計の針は左回りになる。つまり、普通の時計とは反対方向に針が進む。

従って、サン・ヴィット(Saint-Vit)、時計の針が逆に進む(Les aiguilles de l’horloge (…) vont à rebours)、フラッチャニ(le Hradchin)といった記述は、現実のプラハを踏まえた記述だということになる。

その一方で、バラの芯の中で眠るコガネムシ(La cétoine qui dort dans le cœur de la rose)は、現実に見ることがありえるかもしれないが、何かしら象徴的な意味を持つとも考えられる。

サン・ヴィット聖堂の瑪瑙(les agates)に言及される詩行から始まる詩節になると、針が逆回りする時計を回転軸として、「もう一つの現実」が浮かび上がってくる。

「お前」は、瑪瑙の中に描かれた(あるいは映った)自分の姿を見て、死を思う。次に、イエスによって死から復活するラザロ(Lazare)に言及され、時間の進行とは逆に、死から生への移行が暗示される。そして、「お前」も後ずさりする。
その逆さまの世界は、物理的な法則に支配された現実世界とは違う、精神的な世界と考えることもできる。

最後にフラッチャニの丘で、再び一般的な現実が戻り、チェコ語の歌声が響く。


106-108行は一行づつ独立し、滞在地の変化が速度を増す。そして、113行目に至り、パリに戻ってくる。

Te voici à Marseille au milieu des Pastèques

Te voici à Coblence à l’hôtel du Géant

Te voici à Rome assis sous un néflier du Japon

Te voici à Amsterdam avec une jeune fille que tu trouves belle et qui est laide
Elle doit se marier avec un étudiant de Leyde
On y loue des chambres en latin Cubicula locanda
Je m’en souviens j’y ai passé trois jours et autant à Gouda

Tu es à Paris chez le juge d’instruction
Comme un criminel on te met en état d’arrestation (v. 106-114)

お前はマルセイユにいる スイカの真ん中に

お前はコブレンツにいる 巨人ホテルに

お前はローマにいる 日本のビワの木の下

お前はアムステルダムにいる 若い女の子と一緒 お前は綺麗だと思うが 醜い子
彼女は結婚するにちがいない ライデンの学生と
そこで 部屋を借りる ラテン語で書かれたCubicula locanda(レンタル・ルーム)
ぼくは思い出す そこで3日間過ごしたことを そして同じ日数 ゴーダでも過ごした

お前はパリにいる 予審判事のところに
犯罪者として お前は逮捕されている

1880年にアポリネールが生まれたのはローマ。一家はその後ボローニュに移り、1888年からモナコに住み始め、1899年まで暮らした。その間にアポリネールがマルセイユを訪れた可能性はある。

1901年になると、ドイツ系の貴族であるミロー子爵夫人のところで、娘のフランス語の家庭教師となり、ミロー家に同行してライン河畔に約1年滞在する。その際に、ライン川沿いの街であるコブレンツも訪れたに違いない。
巨人ホテル(Hôel du Géant)は、コブレンツに実際に存在したホテル。

オランダには1905年, 1906年、1908年と、3度、旅行している。その詳細は不明だが、その筋の女性を追いかけたり、レンタル・ルームを借りたり、ゴーダに行ったりしたことがあったかもしれない。

そうした思い出を、自分に向かって「お前(tu)」と呼びかけ、現在形で語るのだが、その中で突然「ぼく(je)」という代名詞がが使われる。そのことは、呼びかける自分(je)と呼びかけられる自分(tu)が、詩人の意識の中で区別をなくすことを示している。

パリで犯罪者として逮捕されることは、はっきりと現実の出来事を反映している。

1911年9月7日、アポリネールはルーブル美術館からモナリザが盗難された事件に関係したことを疑われ、逮捕され、サンテ刑務所に投獄された。
実際には、アポリネールの雑役をしていたジェリ・ピエレという男が、ルーヴル美術館から古代の彫像を盗み出し、それをアポリネールのアパートに隠しておいたのだった。アポリネールは、ある新聞社を通じてルーブル美術館に盗品を返却しようとしたのだが、それが警察に知られ、彼に疑いがかけられたのだった。
ちなみに、実際の犯人はビンセンツォ・ペルージャというイタリア人で、彼が逮捕され、モナリザがルーブル美術館に戻るまでには2年の歳月が必要だった。

予審判事(le juge d’instruction)、犯罪者(un criminel)、逮捕の状態(en état d’arrestation)という言葉は、このモナリザ盗難事件を踏まえている。

では、なぜこうした現実を反映した記述が、次々に詩句にされるのだろう? 答えは次の詩節から推測される。


115-125行の詩節では、これまでの全ての旅を振り返り、詩人の心に最も重くのしかかる思いが吐露される。

Tu as fait de douloureux et de joyeux voyages
Avant de t’apercevoir du mensonge et de l’âge
Tu as souffert de l’amour à vingt et à trente ans
J’ai vécu comme un fou et j’ai perdu mon temps
Tu n’oses plus regarder tes mains et à tous moments je voudrais sangloter
Sur toi sur celle que j’aime sur tout ce qui t’a épouvanté  (v. 115-120)

お前は 苦しく そして愉快な、旅をしてきた
偽りと 年齢に 気付く以前に
お前は恋に苦しんだ 二十歳と三十歳の時に
ぼくは狂人のように生きた そして、時間を失った
お前はもう手を見つめる勇気がない すべての瞬間に ぼくはすすり泣きたい
お前のことで ぼくが愛する人のことで お前を怖がらせたもの全てについて

詩人が言葉を連ねてきた理由が、この詩節で明らかになる。
その根底にあるのは、恋の苦しみ。お前は恋に苦しんだ(Tu as souffert de l’amour)とい言葉が、そのことを端的に表現している。
二十歳と三十歳という年齢は、アポリネールが激しい恋愛に陥った時期を指す。

1901年、ミロー子爵夫人家の家庭教師になった時、アポリネールは、英語教師だったアニー・プレイデンに恋をする。二人の関係は、イギリスに戻ったアニーが、1905年にアメリカに発つことで、最終的な破局を迎える。

1907年になると、アポリネールはモンマルトルに暮らし始め、マリー・ローランサンに出会う。その後、二人の関係は紆余曲折を経ながら、1912年まで続く。
有名な「ミラボー橋」は、過ぎ去って行く二人の愛を歌った詩。

それらの恋愛を過去の体験として、ある程度距離を置いて思い起こす時には、「お前は・・・」と自分に語り掛ける。
しかし、その際の苦しみが実感を持って感じられると、「ぼく」は狂ったように生き(J’ai vécu comme un fou)、時間を失った(j’ai perdu mon temps)と、距離感が失われる。

こうした「お前」と「ぼく」を交互に使用することは、これまでも何度かあった。ところが、114行と115行の詩句では、一つの文章の中で、二つの代名詞があたかも混同されたかのように使われる。
「ぼく」がすすり泣きたい(sangloter)と望む対象として、「ぼく」が愛している女性(celle que j’aime)だけではなく、「お前」(toi)自身や「お前を怖がらせたもの(ce qui t’a épouvanté)」も含まれるのだ。

その理由は何か?
詩人は、自分に対してある程度の距離感を持ち、自分に向かい「お前(tu)」と呼びかけるのだが、恋の苦しみの感情があまりも高まったために、その距離感が失われ、思わず、「ぼく」が混ざってしまったのではないだろうか。

別の視点から見ると、「お前」と「ぼく」を混同する詩句は、恋の苦しみを歌う抒情性の高揚を、より生々しく伝えるといってもいいだろう。
その苦しみのために、「お前」は自分の手を見つめる勇気もなく(Tu n’oses plus regarder tes mains)、「ぼく」はすすり泣きたい(je voudrais sangloter)。
その時、恋に苦しんだ(Tu as souffert de l’amour)「お前」の過去の出来事が、今現在の「ぼく」の苦しみだと感じられる。

115-120詩句から表出される抒情を感じながら、数々の旅を語る詩句を読み直してみると、そこで語られるのが単なる現実の出来事の思い出ではないと感じられる。
そのために、断片的であり、論理的な関係性なく並置されている一つ一つの滞在地、一つ一つの出会いや出来事が、何かしら心の高揚をもたらし、現実を思わせながら現実を超えた精神性を感じさせ、象徴的に言えば、時計の針が逆進する可能性を秘めた「もう一つの現実」を構成していく。

コメントを残す