アンドレ・ブルトン  ひまわり  André Breton Tournesol シュルレアリスムの詩

アンドレ・ブルトンは、ギヨーム・アポリネールに続き、伝統的な芸術の革新を目指した文学者であり、1924年に発表した「シュルレアリスム宣言」によって、シュルレアリスムという文学・芸術様式を定着させた。

シュルレアリスムという用語もアポリネールが使い始めたものであり、ブルトンはアポリネールに多くのものを負っている。ここでは1923年に発表された詩「ひまわり(Tournesol)」を読みながら、ブルトンが先行する詩人の跡を辿りながら、どのようにして自らの詩的表現を見出していったのか探っていくことにする。

アポリネールからブルトンへの移行は、キュビスム絵画からシュルレアリスム絵画への移行と並行関係にある。
キュビスムでは、立方体(キューブ)を並置することによって新しい空間=現実を創造したが、その際、画家の主体性は保たれ、創造された空間には一定の秩序が存在していた。
それに対して、シュルレアリスムにおいては、フロイトの精神分析理論に基づいた無意識の働きが強調され、自動筆記(écriture automatique)においてのように、画家の主体性は消滅する。そのために、画布の上に作り出された「もう一つの現実」=「超現実」に秩序立ったものは感じられない。

「ひまわり」は、アポリネールの詩「ゾーン」を下敷きにしていると考えられる。
詩句は短く単純な文であり、それらが句読点なしで列挙される。
詩句が伝える内容も、現実のパリを前提にしながら、論理的な関連性の不透明な事象が連なっていく。

Tournesol

La voyageuse qui traversa les Halles à la tombée de l’été
Marchait sur la pointe des pieds
Le désespoir roulait au ciel ses grands arums si beaux
Et dans le sac à main il y avait mon rêve ce flacon de sels
Que seule a respirés la marraine de Dieu   (v. 1-5)

朗読

ひまわり

あの旅する女が レ・アールを横切った 夏の終わり
彼女は歩いていた つま先立って
絶望が 空の上で 巨大なアルムの花を流していた とても美しい花
ハンドバックの中にあったのは 私の夢 塩の瓶
それを吸い込んだのは 神の代母だけだった

レ・アール(Les Halles)はパリの中心に位置する大きな市場の名称。「煙草を吹かす犬」という名前のレストランもそこにあった。
従って、当時のブルトンの読者であれば、「ひまわり」の背景には実際のパリがあることがわかっていたはずである。

他方、いきなり定冠詞付きの名詞で「あの旅行する女(La voyageuse)」と言われても、それがどのような女性なのかまったくわからない。
しかも、5行目では、神の代母(la marraine de Dieu)と呼ばれる女性と同一ではないかと思われ、ますます神秘性が増す。

彼女の行動は、横切った(traversa)と単純過去で示された後、歩いていた(marchait)と半過去形で示される。
彼女が、つま先立ちで(sur la pointe des pieds)歩く姿は、バレエや舞踏を連想させる。また、シャルル・ボードレールの詩の中で、パリの街の中ですれ違い、一瞬のうちに消え去ってしまう女性を思わせないでもない。

しかし、ブルトンの女性の属性に一貫性はない。
彼女は絶望(le désespoir )している。原因はわからない。
ハンドバック(le sac à main)の中にあるものは、私の夢(mon rêve)と、塩の入ったその瓶(ce flacon de sels)。しかし、なぜ「私」の夢なのか? 瓶が「その(ce)」瓶とされても、一体どの瓶なのか、「あの旅する女」と同様に読者にはまったくわからない。
「神の代母(la marraine de Dieu)」という存在が何かもわからない。

こう言ってよければ、それらの言葉だけが存在し、現実に基づきながらも、現実の論理とは無関係な世界が生み出されつつある現場に、私たち読者は立ち会っている。


第6-11詩行では、レストラン「煙草を吹かす犬」の内部が描かれる。

Les torpeurs se déployaient comme la buée
Au Chien qui fume
Où venaient d’entrer le pour et le contre
La jeune femme ne pouvait être vue d’eux que mal et de biais
Avais-je affaire à l’ambassadrice du salpêtre
Ou de la courbe blanche sur fond noir que nous appelons pensée  (v. 6-11)

麻痺した状態が広がっていた 湯気のように
レストラン「煙草を吹かす犬」の中では
そこには、賛成と反対が入ったばかりだった
若い娘が彼らから眼差しを向けられたのは よくない仕方で 斜めからだった
私は 硝酸カリウムの女性大使を相手にしていたのだろうか
あるいは、私たちが思考と呼ぶ 黒地に白い曲線の女性大使を相手にしていたのだろうか

若い娘(la jeune femme)も、女性大使(l’ambassadrice)も、「あの旅する女」のことだと考えられる。

「煙草を吹かす犬」には多くの男たちがいて、みんなが煙草を吸い、煙が立ち篭めて朦朧とした状態にあった。
そこに女性がいるとしたら、男たちから(d’eux)、悪く(mal)見られるかもしれないし、横目で(de biais)しか見られないかもしれない。

そこに入ってきたばかりの「賛成( le pour)と反対(le contre)」とは何か?

硝酸カリウム(salpêtre)の女性大使とか、黒地に白い曲線(la courbe blanche sur fond noir )の女性大使とは誰か、あるいは何かという疑問にも、さらには、なぜその曲線を私たちが思考(pensée)と呼ぶのかといった問いにも、答えがあるようには思えない。

これらの詩句(単文)は、理性のコントロールの下で論理性を持って構成されたものではなく、自動筆記のように、意識の働きがないままに言葉が紡がれたもののように思われる。

ブルトンはシュルレアリスムを次のように定義した。

シュルレアリスム。男性名詞。純粋な精神的自動作用 (オートマティスム) であり、それによって、話し言葉により、書記言語により、それ以外のまったく異なる方法により、思考の現実的機能を表現することを目指す。思考の書き取りであり、理性によって行使されるいかなるコントロールもなく実践され、美学的あるいは道徳的ないかなる配慮もしない。 (ブルトン『シュルレアリスム宣言』)

この定義は、「煙草を吹かす犬」の状況の意義を明確に教えてくれる。


第12-26詩行で描かれる事象の背景は、レ・アールの中にある「イノサン(無垢な人びと)の泉(la fontaine des Innocents)」から、セーヌ河にかかるシャンジュ橋(Pont-au-Change)へ、そして橋を渡り左岸にあるジ・ル・クール通り(Rue Gît-le-Cœur)へと移動していく。
これらの地名はすべて実在するものであり、シュルレアリスム(超現実主義)のベースに現実が横たわっていることがわかる。

Le bal des innocents battait son plein
Les lampions prenaient feu lentement dans les marronniers
La dame sans ombre s’agenouilla sur le Pont-au-Change
Rue Gît-le-Cœur les timbres n’étaient plus les mêmes
Les promesses des nuits étaient enfin tenues
Les pigeons voyageurs les baisers de secours
Se joignaient aux seins de la belle inconnue
Dardés sous le crêpe des significations parfaites
Une ferme prospérait en plein Paris
Et ses fenêtres donnaient sur la voie lactée
Mais personne ne l’habitait encore à cause des survenants
Des survenants qu’on sait plus dévoués que les revenants
Les uns comme cette femme ont l’air de nager
Et dans l’amour il entre un peu de leur substance
Elle les intériorise   (v. 12-28)

無垢な人びと(イノサン)の舞踏会は 最高潮に達していた
無数の小さなランプに ゆっくりと火が灯っていた マロニエの木の間で
影のない女が跪いた シャンジュ橋の上で
ジ・ル・クール通りでは もはや鐘の音色が以前と同じではなかった
夜の約束が ようやく 果たされようとしていた
旅行鳩たち 救いの口づけ
それらが 見知らぬ美女の胸に結び付いていた
彼女の胸は 喪服の下 完璧な意味作用に貫かれていた
一つの農場が繁栄していた パリの真ん中で 
幾つもある窓が 天の川に面していた
しかし、まだ誰一人そこに住んではいなかった 突然出現した人びとのせいだ
彼らは、戻って来た亡霊たちよりも敬虔だ
何人かは あの女のように 泳いでいるようだ
そして、愛の中には 彼らの実質がわずかばかり入り込んでいる
彼女は 彼らを内面化している

場所を移動するにつれて、「あの旅する女」は、影のない女(La dame sans ombre)、見知らぬ美女(la belle inconnue)、あの女(cette femme)、彼女(elle)と、次々に様態を変容させていく。

その移動はセーヌ河を横切るものだが、橋の名前シャンジュ(Change)が「変化」を意味することで示されるように、華やかな舞踏会(le bal)から不思議な農場(une ferme)への移動があり、右岸と左岸では鐘の音も同じではなかった(les timbres n’étaient plus les mêmes)。
そうした部分では論理性があり、意識化された理性の下で詩句が連ねられているようでもある。

しかし、それぞれの事象を語る詩句に、現実の裏付けがあるようには見えない。
夜の約束(Les promesses des nuits )とは何か? それが分からなければ、約束が果たされた(tenues)と言われても内容は不明だ。

旅行鳩たち(Les pigeons voyageurs)と救いの口づけ(les baisers de secours )が並列に置かれ、見知らぬ美女の胸(les seins de la belle inconnue)に結び付く(se joignaient)とはどういうことか?
その胸を喪服(la crêpe)の下で貫く(dardés)完璧な意味作用(les significations parfaites)とは何か?

次に、突然一つの農場(une ferme)がパリの中心部(en plein Paris)に出現し、それが繁栄していた(prospérait)と言われる。
その窓(ses fenêtres)が天の川(la voie lactée)に面していた(donnaient sur)としたら、その川はセーヌ河を天上に投影したものなのだろうか?

その農業にまだ誰も住んでいなかった(personne ne l’habitait encore)ということは理解可能だが、その理由として挙げられる« les survenants »という言葉は辞書に存在しない。
その言葉は、ブルトンが、« revenants »と対比するために即興で作ったものだろう。

« revenant »は、revenir(戻る)という動詞に由来し、戻る者つまり幽霊を意味する。
その連想からすると、« survenant »は、survenir(突然現れる、不意に来る)を核として、突然姿を現した人とか、不意に来た人を意味するものと考えられる。

この新語について、ブルトンは第24-26詩行で説明を加える。動詞が現在形で活用されているのは、それが言葉の定義であることを示している。
1.les survenantsは、les revenantsよりも敬虔(dévoués)であることが知られている(on sait)。
2.les revenantsの内の何人か(Les uns)は、泳いでいるように見える(ont l’air de nager)。
3.愛(l’amour)の中には、彼らの実質( leur substance)がわずかに入り込んでいる(il entre)。

最後に、「あの旅する女」が「彼女(elle)」という代名詞で呼び起こされ、les revenantsたちを内面化している(intériorise)とされる。
愛の中に含まれるrevenantsたちが彼女によって内面化されているとしたら、ここで作り出されつつある世界は、「私」と「あの旅する女」との間に漂う「愛」を描いているのではないか? そうした推測ができないこともない。

もちろん、このように定義されたとしても、survenantが現実の何らかの実体を指し示すわけではない。それは、ブルトンが言葉によって創造する世界の存在なのだ。


「ひまわり」の最後の詩句では、「私(je)」がアンドレ・ブルトンであると明かされる。

Je ne suis le jouet d’aucune puissance sensorielle
Et pourtant le grillon qui chantait dans les cheveux de cendre
Un soir près la statue d’Étienne Marcel
M’a jeté un coup d’œil d’intelligence
André Breton a-t-il dit passe  (v. 28-32)

私は 感覚の力の言いなりになるおもちゃではない
しかし、コオロギが 灰色の髪の中で歌っていた
ある夜 エチエンヌ・マルセルの像の近くで
私に、目で、わかっているなという合図を送ってきた
アンドレ・ブルトンが とコオロギは言った 通る

私たちは感覚を通して現実を捉える。「私(Je)」がそうした感覚の力(puissance sensorielle)のおもちゃ(le jouet)ではないということは、五感を通して感じ取る世界とは異なる世界。
そのことは、「私」が感覚的な現実とは違う世界=「超現実」を捉える人間であることを暗示する。

そうした「超現実」は、決して現実の存在を無視したものではない。現実に基づいた上で、現実を超えた次元も含むものであり、意識と無意識を融合した超意識と考えるとわかりやすいかもしれない。
だからこそ、ここでも、現実のパリに存在するエチエンヌ・マルセルの像に言及されている。「ひまわり」の世界は、あくまでも現実世界に基づいているのだ。

コオロギの鳴き声が聞こえたのは、その像のある現実の世界かもしれないし、それを超えた世界かもしれない。
コオロギが目で合図をし(un coup d’œil)、「私」と理解(intelligence)を通わせるのは、超現実世界のことかもしれない。

そのコオロギが、「アンドレ・ブルトンが通る(André Breton passe)」と言ったのだった。
その意味するところは何か?

実際にその場をブルトンが通り過ぎるという事実を意味する言葉かもしれない。あるいは、「あの旅する女」がブルトンに課したテストに通り、愛がパスする(passe)と告げる言葉かもしれない。
一つの解釈が決められているわけではなく、シュルレアリスムの絵画を見る時のように、解釈は読者に開かれている。


こうして「ひまわり」の詩句を読んできても、ひまわりへの言及はなく、その花を暗示する要素もない。
としたら、題名はどのように役割を果しているのか? 

その意味を探す役目も、読者に任されていると考えてもいいだろう。
例えば、ひまわりとは、日光を追いかけて回転する花。「私」は多様な変容を遂げる「あの旅する女」を追い求める存在だとしたら、ひまわりは「私」を象徴する花だといえる。
あるいは、「あの旅する女」の移動とともに作り出される超現実の世界の変容が、ひまわりの動きと対応すると考えることもできる。
いずれにしても、一つの解釈が決められているわけではない。

シュルレアリスムの作品が目指すのは、意識が統一する論理で構成した世界像ではなく、詩人という主体が介入することなく自動的に生成した世界像なのだ。


「ひまわり」は、1923年に発表された後、1937年に出版された『狂気の愛(L’Amour fou)』の中に再録される。
その際には、レ・アールを横切る女性は、ブルトンが1934年に出会ったジャクリーヌ・ランバと関係付けられ、1923年に詩句によって創造された虚構世界と現実での体験が対応するという仕掛け=「客観的偶然(le hasard objectif)」が施される。
そして、ブルトンは、1937年の視点から、「ひまわり」を読み解いていく。

こうした仕掛けも、シュルレアリスムの作品が、意識による統一を逃れるようにして生成されたものであることに由来する。
現実に基づきながらも現実の制約を受けず、自由に構成されたもう一つの世界としての「超現実」には、キリコやマグリットの絵画が作り出す世界と同様に、多様な次元への扉が開かれている。


「ひまわり」の最後の詩句には、「アンドレ・ブルトンが 通る」と記されている。
だから何?
その問いに対して、それがシュルレアリスムだと、詩人は言うに違いない。

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